1992年12月20日日曜日

マウント・フッドスキー場 1992年12月18日~20日

 暮れも押し詰まり、岩城が遊びに来た。スキーをしたいという。ジョンはマウント・フッドに登りたいという。それでもう面倒なので、3人一緒にマウント・フッドへ行く。

天気が悪く、中腹のガバメント・キャンプからは山頂が見えない。取り敢えず岩城はひとりでスキーをすることとして、ジョンと一緒に歩いて山頂方向へ登って行く。天候が一向に回復しそうにないので、またガバメントキャンプに降りてくる。ジョンは諦めて家に帰り、岩城とわたしは残ってしばらくスキーをした。

夕方一旦家に帰って泊まり、翌日久美ちゃんと渉も一緒にまたガバメント・キャンプへやって来てスキーをした。


1992年11月28日土曜日

マウント・バチェラースキー場 1992年11月27日、28日

 大学院の秋学期の勉強も終盤に差し掛かったところで、感謝祭の休日があった。それを利用して、家族でスキーへ出かける。

ポートランドからマウント・フッドの南側を抜けて、ワーム・スプリングスを通り、スミス・ロックで大休止する。ここの岩場は、フリークライミングで世界的に有名になったので、久美ちゃんにも見てもらう。渉にもガケ登り程度の初めての岩登りをさせる。

スミス・ロックからベンドの町を抜け、マウント・バチェラー・スキー場へ登る途中の、セブンス・マウンテン・リゾートというロッジに泊まる。ロッジと言っても、総定員は500人ぐらいはありそうな大きな宿泊施設だ。木造の建物で部屋はとてもゆったりした山小屋風の造りだ。夜の食事は感謝祭メニューでたっぷりグレービーのかかった七面鳥を食べた。

マウント・バチェラーはこの夏休みに家族で麓を散策したブロークントップという山の南側にある独立峰の火山で、山の北側がスキー場になっている。

渉には生まれて初めてスキーを履かせて森の中を歩かせた。

ゲレンデは適度な傾斜で変化もあり、見晴らしが良くて楽しかった。


1992年11月14日土曜日

ビーコン・ロック 1992年11月14日

 今年の8月にジョンとビーコン・ロックへ岩登りに行ったとき、ときおり岩場のすぐ下を貨物列車が通過して行った。それを鉄道好きな渉に見せようと思って、ビーコン・ロックの頂上往復のハイキングへ行く。

駐車場に車を置いて登りかけると、ビーコン・ロックを時計と反対周りに登る桟道になる。気温が摂氏10度を少し越えるぐらいで、時より強い西風が吹くので、小さい子を連れたハイキングには不向きな日だ。それでも「登ると貨物列車が見えるよ」と渉に話しかけながら、岩場に掛けられた道を登って行く。

山頂からはコロンビア川が流れている様子がよく見えた。山頂まで上がると列車が走る様子が見えた。ジョンと来た時は岩場の下部から列車を見たので、結構な迫力だったのだが、山頂からは小さく見えた。渉は文句も言わずに見ていたが、吹き付ける強い風が寒いようだった。昼飯もそこそこに、岩場の道を慎重に下山した。


1992年11月6日金曜日

マウント・フッド 1992年11月6日

 6月にジョンとマウント・アダムスへ行った後、8月にビーコンロックへ岩登りにも行った。その後次にいつどの山に登る山か、何度か話をした。ところがわたしは大学院の勉強が、ジョンは仕事や家のことが忙しくて、なかなか話がまとまらない。そうこうしているうちに秋が来てしまった。それじゃもう次は冬山にしようということになった。行先はマウント・フットのイルミネーションロックを通過するリッジのルートである。マウント・アダムスを登った時の様子では、ジョンは冬山の経験がほとんどないようだったので、いきなり冬山の、それもバリエーションルートは厳しいのではないかと思った。それで、本番前にトレーニングや偵察の山行をすることにした。

その時マウントフットに積雪があったのか、どんな偵察やトレーニングをしたのか、今(2012年10月31日)となっては覚えていない。


1992年10月10日土曜日

サドル・マウンテン(985m) 1992年10月10日

 今日は日本では体育の日で、体を動かすには良い季節。こちらオレゴンもやはり良い季節だ。それで家族でハイキングへ行くことにする。行先は、渉にも手ごろで、山頂からの眺めがいいというサドル・マウンテンにする。

ポートランドから西へ、サンセット・ハイウェイに車を走らせる。目的の山はわたしたちのアパートからは北西方向に100㎞ほど走ったところにある。そこから太平洋まではあと20㎞ほどである。

ハイウェイから登山口までの針葉樹林帯の中の道で何度か迷ったのち、キャンプのできる登山口(標高約480m)に着く。車を置き、準備をして歩き出す。

歩き方はマウント・スコットで成功した汽車ぽっぽ方式である。この山は標高こそ低いが、火山の独立峰で、森林帯を抜けると登山道の道幅が狭く、ところどころザレた場所を横切る。そんなところでも「汽車、汽車、シュッポ、シュッポ」とつながって歩くと一定の安心感がある。

出発点から2時間ほど登ると、なるほど馬の鞍部状の頂上が見えてきた。天気のいい山頂で10人ほど休んでいるのが見える。たどりついた山頂は意外に狭いので、渉が転げ落ちないように注意する。なるほど太平洋も見える。景色を楽しみながら昼ご飯を食べる。

下りは登って来た時よりも慎重に下る。結構天気がよく、汗ばむくらいだ。それでも樹林帯に入ると日差しが遮られてほっとする。車に乗って来た道をポートランドへ戻ったが、森の中のあちこちにある標識には、散弾銃で撃った跡とおぼしき穴がたくさん開いていて、ちょっと怖かった。


1992年9月13日日曜日

キャンプ オレゴン州一周 1992年8月31日~9月13日

 大学院の夏期講習が終ってからも、科目ごとのレポート(あちらではペーパーという)作成に2週間ほどかかった。それもようやく終わり、遅い短い夏休みが取れることになった。秋学期開始1週間前までの2週間ほどである。この2週間以外に、留学中にまとまってとれる休みはない。貴重な休みだ。その休みを何に使うか、久美ちゃんとも相談した。

アメリカの地方都市に留学した人は、休み中にロサンゼルスやニューヨークなどの大都市へ遊びに行く人が多いという。わたしたち夫婦にはそのような気持ちはなかった。金がかかって人疲れする都会へ行くよりも、オレゴンの自然を満喫したかった。ポートランドから日帰りで近場へは行けるが、オレゴンも結構広いので隅々までは見てまわれない。そこでこの際、2週間かけてぐるっと一周してみようということになった。ちなみに陸地面積で比較すると、日本は約38万平方キロで、オレゴン州は約24万平方キロである。ほぼ矩形をしたオレゴン州を、時計と反対周りに一周する計画を立てた。

8月31日

留学中は山登りをしようと、テントや炊事道具などいろいろ持ってきていたので、それを中古のスバル・レオーネに積み込んで、意気揚々と出かけたのである。

ポートランドから西へ向かい、太平洋にのぞむ町、ティラムークに出る。ここまでくると本当に田舎で、あちこちに牧場があり、牛がのんびり草を食んでいる。天気は良いが暑いというほどではない。

ティラムックからオレゴン・コースト・ハイウェイを南下する。しばらくは内陸部の道だが、リンカーンシティで海岸線に出て、あとは海が見える道をドライブする。松林と吹く潮風が、日本海を望む新潟の道を髣髴とさせる。ホエール(クジラ)湾、オッター(ラッコ)岩、アゲート(メノウ)浜などを過ぎ、大きな町ニューポートに着く。ここの港のレストランで昼を食べた。新鮮な魚介類が手ごろな値段で食べられて嬉しかった。その後水族館へ寄ってみる。大きく、生き物の展示の仕方が子供にも親しみやすい。

そして今夜の泊りは、ホエーラー・モーテルにした。海に落ちる夕陽が見える部屋で、渉もよろこび、旅の第1泊目とする。

9月1日

今日はオレゴンコーストをさらに南下しながら、途中を見て歩く。

最初のポイントは、ケープ・パーパチュア。ここでは磯での動植物の生態が見られるという。道路沿いの駐車場にレオーネを停めて、磯へ降りていく。たしかに潮だまりには小魚の他、アメフラシや大きなヒトデがたくさんいる。そこでしばらく遊ぶ。

さらに南下していく。このあたりはずっと公園の中の様で、それも1つでなくいろいろな名前の公園の標識が次から次に出てくる。今夜はキャンプをしようと思い、適当なキャンプ場がないか、探しながら走る。そうすると、あれほど沢山公園があると思いながら走って来たのに、なかなか無い。それで、もうだいぶ遅くなってきたので、あまりぱっとしない道端のキャンプ場に入って泊ることにする。

このキャンプ場はほとんど利用者が見当たらなかった。しかし、夜になるとその理由がわかった。キャンプ場の周辺の道を、バギー車のようなものがすごい音とスピードで走り回るのだ。これではここでキャンプしても楽しくない。ハイウェイからこのキャンプ場に入って来た時、砂地の道に沢山の轍があったので、「こんな静かなのにおかしいな」と思ったのだけれど、あとの祭りであった。仕方ない。教訓としよう。

9月2日

昨夜は、キャンプ場の近くで走り回るバギーのような車の音に甚だしく睡眠を妨げられた。ぼんやりとした寝不足の頭で目覚める。今日は砂丘を見ながら、さらにオレゴンコースト・ハイウェイを南下する。

砂丘はデューンという。デューンズ・オーバールックというところで車を停め、砂丘へ歩いて行く。砂が白くてきれいだ。天気もいいので、砂丘に登ったり降りたりして遊ぶ。規模はそれほど大きくないので遭難する心配はなし。

ハイウェイにもどり南下する。これからオレゴン州の南東の端にある町、ブルッキングスまで行き、ハリス・ビーチ州立公園の辺りでキャンプする。ブルッキングスの手前に公園があった。ハイウェイの山側がキャンプ場で、海側にハリスビーチが広がっている。ここからすぐ南側がカリフォルニア州なので、このあたりには当然青い空が広がっているだろうと思っていた。「カリフォルニアの青い空」という歌があるでしょう。実際には曇って霞んだようなさえない天気で、浜へ出てみても肌寒く、遊ぶような雰囲気ではなかった。

9月3日

これまでオレゴンコーストを南下し、オレゴン州の西側の最南端まできた。これから進行方向を東に変えて進む。ブルッキングスからゴールドビーチまで一旦戻り、ログ川沿いの山地へ入っていく。

アグネスまで行き、そこで昼食にする。どのレストランにするか迷うほどの選択肢はなく、ルーカス・ロッジという農場のようなところに入る。十数人のグループの一員となり、案内されたのは川にのぞむオープンな食堂。そこに座っていると、出てきたのはゆでトウモロコシ、フライドチキン、パンケーキといった開拓時代のご馳走。沢風に吹かれながら食べる素朴な料理が美味しかった。

アグネスからさらに川を遡り、山を越えてグランツパスへ下る。ここは3年前にジョーに会いにやって来たところだ。懐かしい街並みを過ぎて、今夜の宿泊予定地であるメッドフォードへ車を走らせる。途中で雷雨になり、車窓からゴージャスな雷雲と稲光が見えた。

メッドフォードでは安いモーテルに泊まった。

9月4日

メッドフォードから北へ、クレーターレークを目指し、針葉樹林帯の道を登って行く。さらに山腹を東へ巻いて行き、標高1,800m地点にあるマザマ・キャンプ場に泊まることにする。背の高い針葉樹の間にきれいにキャンプ場がしつらえてある。熊が出るので食糧はこの中へ入れろ、と頑丈な鉄製の箱が各キャンプサイトに置いてある。キャンパーは少なく、冷たい雨がそぼ降っていて、ちょっと心細い感じだ。食事をして早々に寝る。

9月5日

マウント・スコットに登った。

9月6日

車で北上しベンドまで行く。そこのちょっと気味が悪いレストランで夕食を食べ、近くからマウント・バチェラーなどの山が良く見える安モーテルに泊まる。

9月7日

モーテルのあたりから良く見える山の麓へハイキングへ行くことにする。ベンドの町から西へ向かうスカイライナーズという道をたどる。ベンドの町からみえるブロークントップなどの山々がスカイラインになっているので、このような道の名前が付いたのだろう。その道をどん詰まりまで行くと、ツマロ・クリークのピクニックエリアに着く。そこで車を停め、ハイキングする。ツマロ・クリークの支流のブリッジ・クリークに沿ったトレールを歩く。途中で4人組のハイカーに会い、挨拶を交わす。山に来る人は気持ちが良い。

途中きれいなせせらぎで遊んだりしてから、車を停めたところに戻った。またゆっくりと来たいところだと思った。ベンドのモーテルへ戻り、もう1泊する。

9月8日

ベンドからラ・パインまで南下し、フリモント・ハイウェイへ入る。内陸へ向かうと針葉樹林はみるみる疎らになり、砂漠のようになっていく。そしてフォート・ロックに着く頃には、すっかり木々の生えていない乾燥地になってしまった。そんなところだから、フォート・ロックの馬蹄形の岩山は目立つ。車からおりて、中をひと廻りしてみる。まさに要塞岩ですな。

またフリモント・ハイウェイに戻り南下を続ける。単調で、交通量のすくない直線道路が続くが、ときおり前方を走るピックアップの背面ガラスに、ショットガンがこれ見よがしに掛けてあるのが見える。自分の命は自分で守る、西部劇の世界だね。

サマーレイクという大きな、殺伐とした湖の岸を南下する。ペイズリーという町で昼飯にする。西部劇に出てくるようなバタンとする扉のレストランに入る。ハンバーガーを注文したのだけれど、全体にグレービーがかけられて出てきたのにはビックリ。

さらに南下すると、近くに湖はないレイク・ビューという町があり、そこのモーテルに泊まることにする。

9月9日

今日はハートマウンテンのアンテロープ保護区を通って、スティーンズ・マウンテンまで行く。レークビューの町から、山を越え、谷を越えてハート・マウンテンの北の縁にある保護区に出る。小さな建物があって、アンテロープのことを紹介している。わたしがアンテロープのことを知ったのは、「ホーム・オン・ザ・レンジ」というアメリカ民謡をとおしてだった。その歌が好きで、アンテロープという生き物を見てみたかった。しかし、アンテロープは一体どこへ行ってしまったのだろう。1頭も見えなかった。

道は地平線まで真っ直ぐである。そこをどんどんと東へ走った。あたりに何もない道をひたすら走ると、ようやく少し広い道にぶつかった。そこを少し北へ行くとフレンチグレン(標高1,260m)に出た。ここにこじんまりしたホテルがあって、そこに泊りたかったのだけれど満室だった。それでしかたなく今夜はキャンプと決めた。

フレンチグレンからダートのスティーンズ・マウンテン・ループという道を、標高2,220mまで登る。そこにフィッシュ・レークという小さな湖があり、脇にキャンプ場がある。今夜はここに泊まる。道をさらに登っていくと標高2,700m地点に展望台がある。ここから壮大なゴルジュが見下ろせる。足場が不安定なので渉を抱いてゴルジュを見渡したが、あまりのスケールの大きさにめまいがして、早々に車へ戻った。そしてフィッシュ・レークまで下りキャンプする。

平原のむこうに落ちる落日が素晴らしかった。

9月10日

早起きして、スティーンズ・マウンテンの山頂(2,967m)から朝日が昇るのを見に行く。山頂のすぐ近くまで車で登れる。渉は眠たそうだったので、おんぶして登る。山頂には何人か人がいて日の出を待っている。すると平原のむこうから、昨日見た落日が登ってきた。スティーンズ・マウンテンは山体が南北80㎞に及ぶ大きな山で、辺りにさえぎるものもない。その山頂から見る日の出はゴージャスだった。

すでに紅葉が始まっている山肌を下り、テントを撤収して下山する。ほとんど歩かず、レオーネで上り下りしている。ダートの道だが、幅は広く、よく整備されており、しかもカーブが無いので、下りは80㎞くらい出しても不安を感じない。

さて今日はこれからまたひと走りする。まず、フレンチグレン・ハイウェイを北上して、バーンズを目指す。単調な道を100㎞ほど走って、懐かしいバーンズの町に着く。3年前この町で1泊し、夜映画館へ行ったのだ。町を通り抜けさらに北上する。道が登りになり、針葉樹林帯に入る。3日ほど砂漠のようなところばかり走って来たので、木のにおいを嗅ぐとホッとする。しばらく行くとまた荒涼とした平原になり、また針葉樹林となり、ということを何度か繰り返してジョン・デイという町に着き、そこから東へ向かい山をいくつか越える。かなり走りつかれた。ベーカー・シティーという町を過ぎ、フラッグスタッフ・ヒルにあるオレゴン・トレイル・インタープリティブ・センターという施設で、オレゴン・トレイルの歴史を学ぶ。

今夜はベーカー・シティーのモーテルにでも泊まろうかと思った。しかし何か町の雰囲気が気に入らず、他に良いところが無いか探した。すると、あと1時間ほど東へ走ったところにハーフウェイという小さな村に良い泊り場があるようだった。

モーテルと書いてあるが、ロッジのような作りのところに泊まることにする。いい感じの建物だ。夕食は近くのレストランへ歩いて行く。美味しいポークチョップが出て、久美ちゃんが感激していた。ハーフウェイに来て良かった。

9月11日

ヘルズ・キャニオン展望台へ登り、チーフ・ジョセフのモニュメントがあるワロア湖へと下る。ラ・グランドへ出てそこのモーテルで1泊。

9月12日

旅も最終日となり、だいぶ疲れが出て、ささいなことで久美ちゃんと口げんかなどする。毛織物で有名なペンデルトンを経て、コロンビア川沿いにポートランドに出て、2週間の旅を終えた。


1992年9月5日土曜日

マウント・スコット(2,679m) 1992年9月5日

 オレゴン一周キャンピングの途中でハイキングをする。ハイキングといっても歩きはじめの標高が2,300mもあるので、すでに結構高い。ただマウント・スコットの山頂までは標高差380mほどなので、渉にも自分で歩かせて登ろうと思った。

クレーターレークの外周にある登山口に駐車し、登りはじめる。山頂へは、Uの字を逆さにした馬蹄形の右下から上へとたどる。渉はまだ山頂へ向かって登山道を外れずに歩くことは、自分1人ではできない。それをうまく歩かせるには、少し細工がいる。わたしと渉とで輪っかにしたロープで前後ろになり、これは渉の好きな機関車トーマスだよ、と言い聞かせた。「シュッポ、シュッポ」と声をかけ、そのかけ声に合わせて歩こう、というと喜んで一緒に歩く。道がだんだん急に、ジグザグになったところでは、一層かけ声を大きくして、本当にトーマスが頑張っているように演出した。渉がだんだんくたびれて、機関車ごっこに少し飽きてきた頃に山頂に着いた。

山頂には見晴台があって、西にクレーターレークを望み、それをとりまく森林地帯が果てしなく見えた。山頂の岩窪の水たまりに氷が張っているのにはちょっと驚いた。

下りも機関車ごっこをして、駐車場まで下った。山中ですれ違ったのは、ほんの数人のハイカーだけだった。


1992年8月21日金曜日

ビーコン・ロック 1992年8月21日

 ポートランド州立大学の夏季講習がようやく終わった先週末は、ボブに誘われてマウント・フットの麓にハイキングへ行った。と思うと翌週にはジョンから電話があって、岩登りへ行こうという。唐突な誘いに感じられたが、6月にマウント・アダムスへ行った際に、そんな話をしたかもしれない。ともかくわたしはあれからずっと大学院の勉強が大変で、山へ行く余裕は全くなかった。今やっと夏休みに入ったので、今度は毎週のように山に出かけることになった。

朝6時にジョンがアパートに迎えに来た。ビーコン・ロックは、ポートランドから東に56㎞行ったコロンビア川沿いにある柱状節理の岩塔である。ここはオレゴンで一番いい岩場と言われているが、実はワシントン州内にある。世界的にはオレゴン州のスミス・ロック(スミスロックについては#331参照)が難易度の高いルートで有名だ。ビーコン・ロックはポートランドから45分のドライブで、コロンビア・ゴルジュのいい景色と、スッキリとした堅い岩で人気がある。駐車場から最も近いルートの取付きまではたったの徒歩5分である。スミス・ロックへはポートランドから車で3時間かかるうえ、砂漠の中にあるので気候が厳しく、岩質は火山灰が固まった砂っぽいものだ。

ジェフ・トーマスのガイドによれば(Jeff Thomas. Oregon Rock. Seattle: The Mountaineers. 1983)岩壁登攀が許されている南東面に45本のルートがあり、グレードは5.10台が中心で、最長で5ピッチのスケールである。このガイドブックは10年近く前の出版なので、その後のフリークライムの隆盛を考慮すると、現在は100本ぐらいルートがあるのではないかと思う。しかし、クラック主体の柱状節理の岩場なので、スミス・ロックのような高難度のフェース・クライム・ルートがあるか疑わしい。

さてわたしのクライミングはというと、8カ月ほど岩登りから遠ざかっていたので、ゆっくりスタートすることにした。1本目は南東壁ルートを1P目5.7をリード。2本目はすぐ左隣のフィンガー・クラック(5.8)をトップロープで快調に登った。3本目は、Free for Allのリードを試みたが、1P目の途中で敗退し、ややショックを受ける。4本目はビーコン・ロックのクラシックとDod′s Jum(5.10b)の1P目(5.7)をリードした。容易なフェースから、最後はフィンガージャムで狭いビレー・スタンスに攀じ登る36mのピッチは、なかなかのスケールである。

平日で、天気も肌寒さを感じほどだったためか、わたしたちの他にクライマーはいなかった。ハミングバードの遊ぶ清潔な岩場は、また来る気にさせる魅力を持っている。


ロッキー・ビュット(Rocky Butte Quarry)

ポートランド市北東にある州立公園の中の岩場である。元は石切り場だったので、鷹取山のようだが、岩質はもっとしっかりとしている。最新のガイドブック(Mike Pajunas/ Bob MCGown. Rocky Butte Quarry: A Climbers Guide to Urban Rock. 2nd ed. 1989)によれば、17ヶ所のクリフに合計135本のルートがあり、グレードは5.6~5.12bで、スケールは7から40mまでとかなりバリエーションに富んでいる。また公園の上に城塞のような建築物があって、格好のボルダリング場なっている。晴れた日にはマウント・フッドやマウント・セントへレンズを見ながら気持ちよくシェイプアップができる。

この岩場の難点は、散乱するゴミと若干の治安の悪さである。岩場の上からぶちまけられたゴミが取り付きに目につき、岩壁にはスプレーでカギ十字が書かれている。また、上記のガイドブックでは、トップロープのアンカーを、岩場の上端から取らないように勧めている。日本ではありえないことだと思うが、アンカーロープを刃物で切られたクライマーがいたそうである。まさにアメリカらしいアーバンロックではある。


1992年8月16日日曜日

イーグル・クリーク 1992年8月16日

夏休みになっても大学院の夏期講習で勉強漬けだったが、それもようやく終わり、遊べるモードになってきた。まずは軽く近場のハイキングからということで、ボブに誘われてコロンビア川の支流のイーグル・クリークというところへ行く。川沿いにハイキングルートがあって、渉も連れて歩け、途中滝がかかっていてきれいだという。

コロンビア川にかかるボンネビル・ダムの近くの駐車場に車を置いて、イーグル・クリークのハイキング・ルートへ入っていく。渉も歩く。今日は天気がよく、歩きはじめると汗をかくくらいだ。それで、ところどころある淵では子供たちが水遊びしている。中には断崖の上から勢いよく淵に飛び降りている子もいる。

道は桟道で、歩くには少し注意がいる。1時間ぐらい歩いただろうか、ひときは大きな滝が見えた。パンチボウルというらしい。なるほどパンチボウルそのまんまの形をしている。昼ごはんなど食べて休憩し、ぶらぶらとコロンビア川に下った。

 

1992年6月5日金曜日

マウント・アダムス(3,742m) 1992年6月5日

 先月マウント・フッドに登ったメンバーの中にスキップという人がいた。後日その人の家に遊びに行ったとき、その家のはす向かい住んでいるジョン(40歳)という外科医の家族を紹介された。ジョンは山好きで、奥さんは日系人なのですぐに打ち解けた。それで、「今度一緒に山へ行こう」、と約束をした。その二、三日後にジョンから電話があり、ワシントン州のマウント・アダムスへ北稜から登ろうと誘われた。

マウント・アダムスはコロンビア川をはさんでマウント・フッドと向かい合っている。東隣には1980年に大噴火したマウント・セントヘレンスを間近に見る峻峰で、南面に一般ルートがとられている。北稜はアプローチが長いため敬遠されがちだが、マウント・レーニアを背にしながら登るリッジは、すっきりして気持ちが良さそうに思えた。

出発点のキーレン・クリーク・キャンプの標高は約1,350mで、山頂との標高差は2,350mある。日帰りでの山頂往復を予定しており、長い1日になるだろうな、と思いながら針葉樹の林をスニーカーで歩きはじめる。(6:25)

時折、木間越しにマウント・レーニアが見える。自分たちが広大な樹海の中を歩いているのがわかる。大した登りもなくハイキャンプ(2,000m)に着く。(8:00)眼前にマウント・アダムスの北東面が見える。その左側に北岩稜が左右の氷河に挟まれて切り立っている。リッジの上にも所々雪に覆われた箇所がある。

夏には草原になるところが、今はまだシーズンが早く切れ切れの雪田上を歩く。徐々に傾斜が出てきて、火山岩のグザグザしたトレースをたどるようになる。標高2,700mあたりで北稜に取り付く。(10:15)岩稜には明瞭なトレースがあるが、岩がルーズで歩きにくい。3,300m地点でアイスキャップの縁に乗る。(14:30)

ここでスニーカーから山靴に履き替え、アイゼンを着け、ピッケルを携える。時々飛来する雲が行く手を遮る。雪面の傾斜が緩み、頂上の平地に着いたことが分る。パッと晴れた時に、広大な山頂氷原のむこうに山頂が見えた。あと30分も歩けば山頂に着くというあたりで、ジョンは「もう登れない」とギブアップしてしまう。「1時間で山頂を往復してくるから、必ずここで待っていてくれ」、と言い残してひとりで山頂へ向かう。

山頂には足跡以外何もなく、残念ながら景色は見えなかった。(15:40)すでに出発してから9時間たっている。下山にかかり、ジョンと無事合流する。疲れて集中力が途切れそうになるので、ことさら慎重に北稜を下る。朝よりも融けた雪田で、スニーカーがビショビショになる。うす暗い針葉樹林をひたすら歩き、キーレン・クリーク・キャンプに戻った。(20:10)


1992年5月16日土曜日

マウント・フッド(3,429m) 1992年5月16日

 ポートランドの市街から眺めるマウント・フッドは、富士山に似ていると大方の日本人が言う。しかしわたしは、むしろ利尻山に似ていると思う。森林限界からいくつかの急な山稜を従えて、ギザギザした山頂を聳えさせている様子は、おおらかな富士山よりも、北の峰利尻山に共通点が多い。

一緒に登ったメンバーは、ポートランド州立大学のキリスト教系のボランティアグループの人たちで、わたしと同じ30代後半の男性だった。わたしが山好きだと知って、誘ってくれたのだ。結構慎重な人たちで、山頂を目指す1週間前にマウント・フッドへ出かけ、トレーニングをするという。メンバーと知り合いになるのもいいことだと思い、久美ちゃんと渉も一緒に出かけた。

さて、登頂の前日はマウント・フッドの麓にある貸別荘に泊る。木造の山小屋で、いい感じだったが、その日は少々蒸し暑かった。

翌日中腹まで車で登り、駐車場に車を置く。(3:30)そこから標高約2,100mのゲレンデ最上部まで雪上車で登る。サマースキーのリフトがここまであり、9月まで運転するそうだ。まだ暗いが登攀を開始する。(4:20)ここから山頂まで標高差900mほどの登攀である。氷河のクレバスの過ぎると、Hogbackという山稜があり、そのあと山頂直下に至るまで部分的に斜度50度ほどの氷雪壁があるので、ピッケル・アイゼン・ロープが必要である。この部分では順番待ちだった。(7:30-8:30)

マウント・フッドの山頂は快晴だった。(10:30-11:45)マウント・レーニアをはじめワシントン州、オレゴン州の西海岸の高峰が1望できた。5月中旬はこの山に登る最高の日とのことで、ルートは順番待ちの盛況であったる、アメリカでも最も人気のある高峰である。

わたしたちのメンバーの中に1人だけ、本格的な山登りが初めて、という人がいて、その人にあれこれと登攀技術を教えながら登ったため、結構時間がかかった。下りは歩いて駐車場まで向かったのだが、その途中、スキーのゲレンデの急な部分でその人が滑落し、100mほど流された。幸い傾斜が緩んで自然に停止し、ケガはしなかったのだが、その人は大変ショックだったようで、登頂の喜びもうせ、すっかり落ち込んでしまっていた。駐車場に着き、ラジオでポートランド・トレイル・ブレイザーズの戦況を聞きながら帰った。(14:30)


1992年4月18日土曜日

ラモナ・フォールズ 1992年4月18日

 たしかPSUの留学生サービスから紹介されたと思うけど、ボブという親切な独身中年の白人アメリカ人がいました。その人とハイキングへ行くことになり、ちょうどポートランドに滞在していた早大職員の桜井さんも誘って行くことにしました。

当日の朝、ボブが車で迎えに来てくれました。それから、途中で桜井さんをピックアップして、2週間前に行ったばかりのマウント・フッドの麓を目指しました。天気は曇りでした。サンディー川のほとりの広い空き地に車を止めて、林の中のトレールに入ります。渉も歩いてゆきます、ゆっくりと。ボブは桜井さんに気をつかいながら歩いて行きます。川沿いの静かな樹林帯の道をたどることしばらくで、ラモナ・フォールズに着きました。

滝は1つだけですが、スダレ状に幅広い滝なので、フォールズと複数形なのでしょうね。あたりはじめっとしていました。そこでお昼を食べて、またのんびりと下りました。

ところでこのハイキングの後、ボブと桜井さんから、別々に苦情めいたことを言われました。ボブは桜井さんのことを独身だと思って、数日後に音楽会に誘ったのだが、桜井さんは結婚しているから、と断った、というのです。最初にわたしが桜井さんを紹介する際に、「ミズ・サクライ」と言ったのが、ボブには「ミス・サクライ」と聞こえたようです。わたしは後でボブと桜井さんの両方に謝りました。


1992年4月5日日曜日

マウント・フッドスキー場 1992年4月5日

 留学先にオレゴン州を選んだのは、ここならばスキーや山登りも楽しめるだろうと思ったから。その留学生活も、何度も買い物に行って生活に必要なものを買い足し、なんとかスタートしました。ホッと一息ついた頃、そろそろ春スキーのシーズンもおわるので、とりあえず1回行っておこうということになりました。

車も買いました。ジュディの連れ合いのディックに助けてもらいしました。週末になると、オレゴニアンという地方紙に、中古車の3行広告がたくさん載る。まず、その中から手ごろなものを探す。わたしは、スキーやキャンピングに行くことも考えてワゴン車の4WDが欲しかった。それで、スバル・レオーネで探すことにした。2,000ドルぐらいから、いろいろな価格で売りに出ている。その中からいくつか選び、ディックが広告を出した人に電話して、実際に車を見るアポイントメントを取る。ディックの車に乗ってその売りに出ている車を見に行く。わたしは結構どれでも良さそうに見えたが、ディックは気になるところがあるらしく、「これは止めておいた方がいい」といって、なかなか決まらなかった。4、5台みたあとで、ようやくディックも気に入ったのが見つかった。エアコンは付いていないが、ポートランドの夏は日本のように蒸し暑くないので、必需品ではないという。値段は2,600ドルだったかな。

マウント・フッドはポートランドから東に100㎞ほどのところにある。天気の良い日はポートランドの市外から、つばの広い帽子を伏せたような山容がきれいに望まれる。その中腹にスキー場があり、標高1,800mのあたりにティンバーラインロッジがある。このロッジは、1930年代の大恐慌の後に、復興政策の一環として建設された豪壮な木造のホテルだ。土曜日に出かけ、ロッジに1泊し、翌日半日スキーを楽しんで、またポートランドに帰ってくる計画にした。

ポートランドの市街地から一般道を東へ東へと走っていく。道の両側は、民家から農耕地、牧草地へと変わり、疎林が高さ30m以上あるような針葉樹の高木帯に変ると、山にぐっと近づいた感じがする。道に傾斜が出てきて、ワインディングをしばらく繰り返して道路の終点で、ティンバーラインロッジがあるところに着く。

ロッジのフロントへ行くと大きなセントバーナードの老犬ハイジが出迎えてくれた。わたしたち親子が3人で泊まる部屋は、広めの2人用寝室といった感じ。内装も年季の入った木造りです。外は雪まじりの天気だが、部屋のなかはとても暖かい。屋外のスパに入ってから夕食にレストランへ行く。スタッフがとても暖かい感じのところで、料理の味もサービスも良かった。

翌日は貸スキーを借りて滑る。雪はもうベタ雪で、全くの春スキー気分だ。渉をオンブ紐で背中にくくりつけ、ゲレンデを何回か滑り降りる。リフトに乗る時に、係員が怪訝な顔をして見るが、注意はされなかった。子供をオンブして滑る人は珍しいのだろう。久美ちゃんも滑ってから、昼には切り上げて帰途につく。明日は月曜で、またハードな授業が始まる。楽しい週末は、あっという間に過ぎてしまった。


1992年1月26日日曜日

高山下り 1992年1月25日、26日

 1月25日

吾妻小舎を使ったスキーツアーをしたいと思い、このルートを選んだ。週末には小屋番も入るという。

福島の駅からバスに乗り、高湯スキー場で降りる。リフトは福島市営で1回130円である。2本乗ると今度は私営の吾妻スキー場で、高速リフトが2本ある。1回250円だったと思う。終点で吾妻小舎の小屋番の遠藤さんに会う。(9:10) 

スキー場から慶応小屋までは、トレースが見え隠れする樹林帯の道である。小屋への分岐を過ぎると、急な尾根のラッセルになった。五色沼の縁に出る手前から風が強くなる。沼の西側を巻く。巻き終わったところから、一切経山の頂上へは行かず、向かって左側の沢を登り、一切経山の肩に着く。風が相変わらず強く、視界もない。

ようやくスキー滑降ができるが、滑りだしてすぐに表層雪崩が出て、どきりとする。それから浄土平まで、ほとんど滑り甲斐の無い下りだった。浄土平からスカイラインの道の上を桶沼沿いに進む。浄土平から見ると、桶沼の影になるところに吾妻小舎がある。(14:30)結局ここまで遠藤さんにガイド兼ラッセルをやってもらったような次第である。

吾妻小舎は昭和9年に建てられた、木造のがっちりとした、風格のある小屋である。内部も歴史を感じさせる造りだ。この時期ここへ登ってくるのは、常連らしい。するめを少し上げると、お返しにビールをくれた。川上と感謝していただいた。

1月26日 晴

風はあるが、晴れている。今日はラッセルだ、と気合を入れて出発する。(6:50)スカイラインを鳥子平へ進む。ところどころラッセルがあるが、吾妻小屋から1時間ほどである。そこから高山へは、明瞭な切り開きと、鳥子平が150で土湯が0のツアー標識が始まる。本格的なラッセルであるが、昨夜飲み過ぎた影響で調子が出ない。ラッセルをプレート5枚ごとに交代し、30枚になったところでちょうど山頂に着いた。

山頂から望見すると、高山下りのルート上は樹林が濃くて、快適な滑りは期待できそうもなかった。高山からは尾根の左側を斜滑降気味に下る。小規模な表層雪崩が、シュプールにつられて発生するので、嫌な感じだなと思い、小灌木の脇で立ち止まる。すると、これから滑ろうとしていた前方の斜面に、ギシッという鈍い音とともに、幅15m、長さ50mほどの表層雪崩が起きた。昨日より規模が大きく、お互い巻き込まれなくて良かったと強運を喜ぶ。

静かな小さい沼を左側から通り過ぎ、緩斜面に入る。ほとんどスキーが滑らないので、歩行を強いられた。それでも下へ行っても雪は途切れない。林道に出る手前で熊撃ちに出会う。短いスキーをはき、犬を連れている。それほど山深くないので、熊撃ちに遭うとは意外だった。土湯温泉近くまでスキーで下ることができた。

土湯の町は、日曜日にもかかわらずひっそりしていたが、共同浴場は盛況だった。ビールを飲みながら入浴し、上がって飯を食べてから下山した。


1992年1月2日木曜日

裏岩手山から八幡平 1991年12月30日~1992年1月2日

 天候は全日程を通じて弱い冬型と予想された。雪不足を懸念していたが、入山直前に降雪があり、スキーツアーには支障がない程度に積もった。5、6年前に今回と同じルートの山行を計画したが、悪天のため三ツ石山荘から松川温泉にエスケープした。そんな経験があるにもかかわらず、またここへ来ようと思ったのは、さらにその2年前に、八幡平から秋田駒へツアーしたときの好印象があったからである。

12月30日 薄曇⇒風雪

網張スキー場にも今シーズン初めて本格的な降雪があり、圧雪車がさかんにゲレンデを整備している。そのゲレンデを滑るスキーヤーの動きには、ようやくスキーシーズンに突入した喜びがあふれているように見える。

リフトの終点の犬倉山近くから、1986年冬の記憶をたどり、双子峠のスキーツアールートへ向かう。(11:00)古ぼけた道標に導かれてそのルートに入ると、いきなり股までのラッセルとなる。これから後生掛温泉までの長い道のりを思い、気が遠くなってしまう。こまめにラッセルを交代しながら双子峠まで行き、小休止する。

大松倉山は大した登りではないが、稜線から右下に離れて三ツ石山荘へ下るところがポイントである。強い北西風にまともに向かっていく歩きは厳しい。なんとかプレートを見つけて細い切り開きを下っていくと木のかげになり風が弱まる。先のほうに三ツ石山荘も見えホッとする。しかしラッセルは続く。

三ツ石山荘には中年4人連れの元気のないパーティーがいた。(14:00)そのひとりがそのストーブに取り付いて、懸命に燃やそうとしていたが、この山荘が湿地帯の中にあるためか、ストーブは良く燃えない。そのあきらめた様子からすると、昨日からの降雪に閉口して、どうやら下山の算段をしているようだ。天気予報では、明日以降も好天は望めない様子だ。こちらは毛頭下るつもりはない。

12月31日 風雪

今年もいろいろなことがあった。2月に海外研修に行くことのOKが出た。それからTOEFLとGREの勉強をして何度も試験を受けた。秋からは大学院の出願準備が加わりさらに忙しくなった。その1年も今日で終わる。

天候は良くないが、大荒れにはなりそうもないので出発する。(6:50)三ツ石山へはラッセルである。1986年に来た時は、この斜面を少々登った後、天候悪化を懸念して松川温泉へ下山してしまった。今回はこれから天候は大崩れはしないようだが、風が強く、視界が100mぐらいしかない。大斜面を左上し、西風をまともに受けながら稜線を行くと、山名の由来となった大岩に出た。氷漬けの岩を左から巻くと、三ツ沼へと続く夏道が白く浮き上がって見える。それを見て、これからしばらくラッセルをしなくていいな、と思わずにっこりしてしまう。

沼地を過ぎるとほんのひと登りで小畚山だ。(9:30)ここでも道は鋭角に北上するが、その先にはトレースが見えている。これはいい。平坦な地形のところでホワイトアウトしていないとホッとする。川上は昨夏ここにピロリンと来たというので、二重に安心である。立ったまま休んでいると、手先の感覚が無くなってきたので、その手をズボンの中に入れたまま滑る。ところどころ風当たりが強く、歩行が不自由になる。手袋などを飛ばさないように注意がいる。

大深岳への登りは、樹林帯から平坦な裸地へと変わる。東側は松川の支流の湯ノ沢に切れ落ちているが、地形が明瞭なので、転落しないように注意しながら右寄りを歩く。ヒョッコリと道標が現れて、大深岳に着いたことを知る。なつかしい。川上の高度計を頼りに、大深山荘の標高まで下ったが、見当たらない。荷物をおいて、そのあたりを探すと、アオモリトドマツを背負った傾斜地に、見覚えのある山小屋があった。(12:40)

ここのストーブは良く燃える。階下には薪がたくさん置いてある。年の暮れと、大深山荘への再訪と、互いの健康と、その他もろもろを、豚の味噌焼きと酒で祝う。

1月1日 曇

明け方、茶臼岳の肩に初日の出が淡い紅をのぞかせたが、間もなくどんよりとした雲に呑み込まれてしまった。視界、1点の光明。

さあ、今日もラッセルのスタートである。(7:30)嶮岨森までは視界も比較的良かった。一昨日来の強風は弱まり、ただ吹きだまりに新雪が飛ばされている。ラッセルにも慣れて、苦痛ではなくなってきた。

諸桧岳への登りは、とても長いような記憶があったが、実際には呆気ないほど短かった。頂上からは木間越しに茶臼岳が見える。(11:10)頭上の雲が切れ始め、青空がのぞくようにさえなってきた。しかしそれは束の間のことだった。

畚岳に登り返す頃から、また降雪がはじまり、スカイラインの上のラッセルにはうんざりした。見返峠近くのドライブインや駐車場が新しく、大きくなっていた。ここからひと登りで八幡平の南端に出る。ここから陵雲荘まではすぐなのだが、ガマ沼に出てしまったので、小屋に着くまでもう一汗アルバイトすることになった。(14:00)

小屋に入り、早速ストーブを点けようとしたが、煙突に氷雪が詰まっていて、使えなくなっていた。それで、川上が梯子を掘り出して煙突のところまで登り、氷雪を掻い出して使えるようにした。後生掛温泉から登って来たパーティーと同泊になったが、その連中がやかましいうえに、酒と食料をふんだんに持っているので腹が立つ。しかし、明日はおれたちは後生掛温泉だと思うと嬉しい。

1月2日 曇

視界はないが空が明るい。(7:10)八幡平の頂上に立つと、冬のブロッケンが見えた。さらに、連なるモンスターのむこうに安比岳が見えた。ここから後生掛温泉までは、スキーで滑っていきたい気分だが、実際には新雪をラッセルしながら下ることになった。部分的に滑れるところもあるが、ブッシュが邪魔だ。高度が下がってくると、焼山方面が良く見える。山を取りまくブナ林が美しい。蒸の湯の湯気をくぐり、トレースに導かれて林道を下ると、後生掛温泉に出た。(10:00)家族連れのスキーヤーがいたりして、麓はすっかり正月の雰囲気だった。