1990年12月31日月曜日

ホワイトバレースキー場 1990年12月29日~31日

 スキーがおぼつかない大人や子供と忍耐のスキー。

久美ちゃんの仕事上の知り合い夫婦がスキーへ行ってみたいという。ではということで上越へ行く。その日が帰省ラッシュのピークとも重なって高速は大渋滞でスキー場まで5時間以上かかった。

スキーが初めてなので雪が降る中ではなかなか上手く教えられない。渉もいるのでずっと面倒も見られない。ということでまた裂き状態。もちろん自分自身も滑る時間がないのでいらつく。という感じで大みそかに帰ってきた。

1990年12月18日火曜日

城ケ崎ファミリーロック 1990年12月18日

 今年の11月から職員組合の執行委員をやっている。毎週最低1回3時間程度の委員会で議論をする。それ以外にも頻繁に招集がかかり、色々な雑用をやらされる。

職員の海外研修プログラムというのがあって、1992年度1年間、アメリカの大学院へ留学する希望で応募の準備をしている。英語の勉強だけでなく、色々調べたりもしなくてはならないので、このごろとても忙しい。

国際部での仕事に加えて、職員組合の活動と、大学院留学の準備とでとてもストレスがたまる。それで、職員組合の合宿が伊豆であった機会に、帰りがけ城ケ崎へいくことにした。書記局の連中も何人か一緒に行くことになった。

このごろは山に行くことはおろか、トレーニングもしていないので、ろくに登れるわけはない。しかし帰りがけに城ケ崎へ寄れば、組合の合宿だけのために伊豆にきたのではないと、いくぶん気持ちが救われる。

それにしてもブラザークラック(5.9)も登れなくなっているのは情けなかった。


1990年11月12日月曜日

高水三山 1990年11月12日

 藤森がやけに山に連れて行ってくれとわたしにせがむ。どうやら社学の若手の行事で、何を計画したら良いのか分からず、わたしを頼って来たらしい。それなら、ということで、渉も一緒に連れて行けるような近場を計画した。

御岳駅の裏から、すぐに急な道を登って行く。奥多摩渓谷を眺めながらどんどん登ると、木立の中に祠があり、休憩する。次に目指すピークが良く見える。そこに着くと、雑木林の中で、沢山の人が弁当を広げていた。わたしたちもそこに加わり、景色を楽しみながら昼食をとった。陽だまりで休みながら歩き、最後は軍畑駅に降りた。

今日参加した若者のうち、何人が山登りを好きになっただろうか。

社学の若手職員と


1990年11月3日土曜日

幕山 1990年11月3日

 TSMCのフリークライミング・コンペが幕岩であるので、その前日に3人で幕山に登り、6回目の結婚記念日を祝った。

幕山への登山道は、しとど庵という食堂兼宿舎のすぐ先から始まる。そこは幕岩の一番右側だ。渉を背負って登山するのは、伊豆が岳に続いて2回目だ。子供をかついで歩くのは、なかなか汗をかくものである。

灌木のつづら折りをすぎると、ススキの中の道になる。人の声が聞こえ始めると、すぐに平らで眺めの良い山頂に着いた。草におおわれた感じのよいところである。酒を酌み交わしている人たちもいる中、ミカンやせんべいを食べてくつろぎ、また来たいなあと思いながら下った。

翌日は雨が強く、コンペは中止になった。飲み会が始まったがそれには参加せず、早めに帰路に着いた。


1990年10月21日日曜日

氷川屏風岩 1990年10月21日

 毎年国際部にやって来るアメリカからの交換留学生の中には、必ずフリークライミングが好きな連中がいる。今年もその中の2人を連れて、氷川屏風岩へ行った。ここは岩がしっかりしているし、眺めも良く、山らしい感じがするからだ。

岩を登りはじめると、キースは何かくたびれたような、圧倒されたような感じだった。冷たい風が吹きつけてきたこともあり、早めに切り上げた。

なぜか沈んだ感じの2人であった。


1990年9月24日月曜日

瑞牆山(百名山46峰目)

ひとり百名山はある意味現実からの逃避である
忙しい毎日から離れて一人の時間を持つために山に行く

昨日は金峰山に登った
じつにあっけなかった
そして富士見平小屋の下の林道の終点で車中泊した

きょうは岩山なので少しは手ごたえがあるだろう
朝食を食べて歩き出す
富士見平小屋から左にトラバースする道に入った

沢を横切ると瑞牆山の山頂に至る斜面を登っていく
ところどころ大きな岩が重なったようになっている
登山道はその岩をすり抜けるようにして続いている
簡単な岩登りである

岩を跨ぐようにして登り山頂に着いた
まわりに岩峰が望まれて高度感がある

山頂から注意して下り車まで戻った

1990年9月23日日曜日

金峰山 (百名山45峰目)


国際部に異動してから仕事の内容に興味を持つようになった
仕事をうまくやる上でわ英語力が不可欠である
それで英語の勉強もするようになった

子供は二歳でかわいい
一緒に遊びたいな時間があまりない

労働組合の役員になった
それで時間が取られる

それでも山には行きたい

富士見平小屋の下の標高1750mまで林道を使い車で入る
そこから歩いて大日岩まで1時間ほど
天気が良いがあまり遠目は効かない
稜線には大岩がごろごろしている
風もない稜線をさらに1時間歩いて金峰山の頂上に着いた

ほとんど山に登った気がしない


1990年9月9日日曜日

城ケ崎あかねの浜 1990年9月9日

 やっとTSMCの連中と一緒に登る気になり、なつかしのあかねの浜へ出かける。以前は難なく登ったツワブキ(5.9)やイソギク(5.6)を結構苦労して登った。


1990年9月2日日曜日

荒川上流河原歩き 1990年9月2日

 誰かがどこかで三峰口の荒川の河原に、ボルダリングに良い岩があると言っていたのを思い出した。先週の大菩薩嶺があまりに呆気なかったので、趣向を変え、そこへ行ってみることにした。

秩父鉄道の三峰口から荒川にかかる橋まではすぐである。しかしここから河原へはどうやって降りるのだろう。製材所のようなところの裏手に踏み跡があったので下ってみる。急な下り道はどうやら河原まで続いている。最後は河原の大岩の上にトンと降りる。川は水量が少なく、遡行に支障は無さそうだ。夏の間に集中豪雨や台風による大雨でもあったのだろうか、河原にはゴミが少ない。左岸右岸に目を走らせながら遡上していくが、ボルダリングに適した岩は見当たらない。ところどころシュリンゲが垂れ下がった露岩はあったが、大きすぎてボルダリングには向かない。

1時間半ほど遡行して大洞発電所の入口に出た。目当てのボルダーには出合わなかったが、ここで遡行を切り上げる。先週に続き新座に昼に帰りつく。また不完全燃焼の山行をしてしまった。


1990年8月25日土曜日

大菩薩嶺 (百名山44峰目)

この山にまつわる記憶はすべてぼんやりとしている
登山口に車を置いて登り始め山頂に着いたことは間違いない
しかし記憶に残っているのは山頂から何の眺望も得られなかったことだけだ
この山が百名山に入っていなければ私はここに来なかっただろう

1990年7月1日日曜日

皇海山 (百名山43峰目)


皇海山は地味な山だ
麓からもっと遠くからも見えないのでその存在を知らなかった
百名山の中に入っていなかったら登らなかっただろう

川越からは近いのでちょっと油断して朝急に車で出かけた
それでも日帰りでは登れない
途中庚申山で一泊して翌日皇海山に登る計画だ

桐生あたりから渡良瀬川をずっと遡っていく
足尾銅山の手前で左手に入り庚申山の麓に行く
標高900mのところで林道は閉鎖になっている
そこから車を置いて歩いて行く

林道を一時間ほど歩き、さらに沢沿いに一時間半ほど登ると庚申山荘に着いた
今夜の宿泊客は私だけらしい
食料をあまり買わないできてしまった
夕食を食べたらほとんど食料がなくなってしまった

翌朝はほんの軽い朝食を済ませて出かけた
庚申山を過ぎると道がどんどん険しくなってきた
鋸山を過ぎると道がわからなくなってきた

ともかく鍛え稜線通しに行けば皇海山に着くことはわかっている
そうは言っても倒れた木や生い茂った熊笹が道を阻んでいる
樹林帯で眺めは効かない
それでも一度皇海山の特徴ある山頂が見えた
禅僧のような佇まいだ

黙々とヤブコギを続けて山頂に着いた
山頂にも木が生い茂っていて眺望は効かない
ただここがあの山頂なんだと思った

下山を始めるとようやく空腹を感じだした
朝食の後は水しか飲んでない
庚申山を下る頃には空腹のため足がふらふらしてきた

ようやく林道に出て少し歩いたところの道端で食事をしている人たちがいた
何かおいしそうな物を食べている
もう我慢ができなくて恥を忍んで「何か食べるものを分けてもらえませんか」と頼んだ
その人たちはちょっとびっくりした様子だったがゆで卵やパンをくれた
それを歩きながら食べた

これまで山登りをした中でこういう経験をしたことはなかった
バカだなあと思った

1990年6月10日日曜日

月山 (百名山42峰目)

月山は残雪が豊富なのでサマースキーができる
それをしに行った

山麓の姥沢に駐車場がありそこ姥沢からリフトが一本伸びている
リフトの終点が1500mほどで山頂が標高1984mだ

登山道は笹原の中に切られている
そこをスキー靴のまま歩き一時間ほどで山頂に着いた
山頂は石垣で囲まれ城のようだ

強い風に雲が飛ばされてきて周りの景色が見えない
もっとも見えたとしても周りには月山ほど高い山はない
それでも晴れていれば遠くに蔵王や鳥海山が見えただろう

そそくさと下山してまたスキー場でシーズン最後の滑りを楽しんだ


1990年5月27日日曜日

富士山 1990年5月27日

 1988年に国際部へ異動し、長男の渉が生まれ、1989年に新座へ引越し、レガシーを買ってから、わたしの山登りは変わった。公私に忙しくはあるが、車で山へひょっこりと行ける。

川上哲の結婚式と披露宴の翌日未明に新座をたち、深夜に2時間半のドライブで富士山の5合目に着く。車の中で仮眠していると、6時頃明るくなってきた。出発準備をしていると、ちょうど若林・島津ペアが登ってきた。最近わたしは運動不足なので、体調充分の二人よりもペースを落として登ることを心に決める。

それにしても残雪が多いのに驚く。吉田大沢の6合目あたりでスキー歩行を始める。ゆっくり登っているつもりでも、スキー歩行は早い。天気がよく、雪が相当腐ってきたが、ズンズン登る。まだ上から滑り降りてくる者はいないので、気はせかない。若林さんはどういうつもりなのか、ハイペースで登って行く。9合目あたりまで来ると、シールの裏に雪が付くようになって、登るスピードが落ちた。スキーをはずし、ザックに着けて背負って登ることにする。そして歩行を始めると足が重かった。かなりばてて山頂に着く。

息を整えて滑降開始だ。9合5勺にいる若林さんめがけてツバクロ沢を滑る。重い新雪に足を取られないよう注意して滑る。若林さんと少し話をしてから、今度は吉田大沢を滑る。下るにつれて雲が出てきて、あっという間に視界がなくなる。大きなターンでザラメ雪を滑り、最後は残雪を拾いながら下る。滝沢林道のすぐ上まで下ってスキーをはずした。


1990年5月6日日曜日

両神山 (百名山41峰目)

ひとり百名山の友は車だ
山頂に一番近い登山口までそれで行く
今日は急斜面にある白井差の集落まで行って車を置いた

すぐ歩き出す
足許には日陰の花ニリンソウが咲いている
沢沿いの道は急斜面になり上から石が転げ落ちてきそうだ
日当たりのいいところにツツジが咲いている

山頂へ続く稜線に出た
険しいので注意して進む
ほどなく山頂1723mに出た
360度の展望が楽しめる
けど気は抜けない

再び足許に気をつけながら白井差へと下った



1990年4月8日日曜日

武尊山 (百名山40峰目)


稼ぎと割り切っていた仕事が楽しくなった
それであまり遊びに行かなくなった
遊びとは山登りやスキーである

そうはいえ時折は遊びに行きたくなる
ふだん鍛えていないので百名山に行くのがちょうどいい
そう割り切って百名山を完登することに目標を定めた
その記念になったのは上州武尊山だ
季節はまだ春なのでスキーができるだろうと踏んだ

ほたかスキー場の最終リフトから歩きだす
すでに標高は1600m近くなので山頂2,158mまでは標高差500mほどしかない
ゆるやかな樹林帯をスキーにシールをつけて登っていく
ブナの林相がきれいだ

前武尊まで登ると起伏の少ない狭い稜線になる
帰路はほとんど滑るところがないなと思いながら登る

山頂はガスに巻かれていて祠が目立つばかり
早々に下山する
気持ちよく滑降できるところはほとんどない

樹林帯をストックで漕ぎながら下り人気のないスキー場の上部に出る
ようやくここから気持ちよく滑ることができた


1990年4月1日日曜日

伊豆ヶ岳 1990年4月1日

 渉もそろそろ達者に歩くようになってきたので、いよいよハイキングに行くかということになった。手始めに近場の奥武蔵・正丸峠へと出かけた。

家から2時間ほどのドライブで正丸峠に着く。ここに車を置き、昼食をとる。渉を背負子で担いで歩き出す。スギやヒノキが植林された尾根道を、1時間ほど歩くと伊豆が岳に着いた。頂上の手前で岩場になる男坂を行ったが、鎖場はスリルがあった。ここで渉は怖がって少しメソっとなったが、あやすと笑った。

頂上は南北に細長く、両側が崖で、幼児にとっては不安定なところだ。久美ちゃんはさかんに「危ない、危ない」と言っている。

そんな頂上なのでゆっくりできず、すぐ下山する。女坂を下り、1時間弱で正丸峠に戻る。背負子で渉をしょって歩いたせいで足がくたびれた。


1990年3月11日日曜日

丸沼高原スキー場 1990年3月11日

 大学職員の友人に誘われて行ったのだが、泊まったペンションが最悪。風呂、食事、寝るところ、すべて汚く、狭く、使いづらい。ゲレンデは急すぎて、子供連れには向かない。


1990年2月3日土曜日

菅平スキー場 1990年2月3日~5日

 大学の文化スポーツ協議会のスキーツアーに参加した。今回は久美ちゃんと渉はお留守番。SAJの指導員によるスキースクールに入って、みっちり滑った。


1990年1月28日日曜日

湯沢パークスキー場 1990年1月27日、28日

 わざわざ地味なスキー場に行く。それは渉とスキーを楽しみたいから。湯沢パークスキー場で、初めて渉をおんぶして滑る。リフトが支柱際を通るとき滑車がガチャガチャいって、ちょっと怖かったかな?


1990年1月15日月曜日

八ヶ岳遭難救助 1990年1月14日、15日

 日曜日に家で休んでいると、TSMCの佐藤泰さんから電話があった。三須さんが赤岳主稜で滑落したので、これから救助に行く。家にいるのなら一緒に来いとのこと。当然行かなければならない。

深夜新宿駅に集合し、わたしのレガシーも含めて、車3台に8人が分乗して、赤岳鉱泉へ向かう。途中美濃戸口でチェーンをつけ、美濃戸に午前3時半に着く。そこで1時間ほど酒を飲み、1時間ほど仮眠した。

ほとんど寝られないまま、7時に行者小屋に向けて歩きはじめる。情けないことに、歩き出して30分もすると、わたしの足はもつれだした。それもそのはず、前回山に行ったのは、丁度1年前の今頃、古谷雅子さんと留学生のスティーブと一緒に木曽御岳だった。救助隊のメンバーなのに、皆と一緒に歩けない。キジを撃つことにして、林の中で息を整えた。

道が深い森に入り、平坦地になったところで、三須さんが道路端に腰を下ろしていた。それほど悲壮感はないように見受けられた。実際には、救助隊が来てくれたことがとても嬉しかったそうである。

背負子を2台連結してタンカを作り、その上に三須さんを寝かせて6人で運んだ。沢沿いを通る道は狭く、運搬は難儀だった。そのうちに三須さんは「自分で歩ける」と言いだしたので、そろそろと美濃戸まで歩いて下った。

麓の町まで出て、大きな病院で診てもらったところ、膝のお皿が割れ、肩を骨折しているとのこと。命に別状がなかったのが何よりである。

眠い目を擦りながら渋滞の中央道を上り、与野の三須さんの家まで送っていった。


1990年1月4日木曜日

那須 1990年1月4日~6日

妻・長男

前回天神平へは恐る恐るだったが、今回は雪の上で渉を歩かせたり、そりにのせたりした。泊りは国民宿舎にしたが、温泉が広々として眺めが良かった。