1971年1月31日日曜日

丹沢主稜 1970年9月12日、13日

この冬にわたしは同級生のHOと丹沢主稜へ行きました
その後兄が主稜に行きたいといいだしたので今度は兄と一緒に行くことになりました

昨年兄と日帰りで主脈へ行ったときは兄の新聞配達が遅れ家を出るのが遅くなりました

そのため家に帰ってくるのがとても遅くなりました

今度は同じことを繰り返さないよう家を早く出ることにしました


上星川駅から下りの1番電車に乗りました

7時30分に大倉に着くと気が急きすぐに出発しました

重荷にめげずに大倉尾根を登り塔ノ岳(1491m)に10時30分に着きました

順調に登れたので少し安心して水場を往復することにしました

山頂から標高差100mほどある水場で往復に30分ほどかかりました


12時に塔ノ岳を出発しました

雨でどろんこになった尾根道を丹沢に向かいます

家の人はいま昼飯を食べているころかなと思いながら丹沢山(1567m)をすぎました

不動ノ峰(1614m)に登り棚沢ノ頭(1590m)を通り鬼ヶ岩(1608m)を下ります

3時に今日の宿泊地である蛭ヶ岳(1,673m)の山荘に到着しました

夕方には雲が晴れて周囲の山が良く見えました


翌朝起きてから今日のコースを決めました

一旦主稜へ向かい檜洞丸へは登らず手前の金山谷乗越から檜洞沢を下ります

ユーシンに出てそこから林道を歩いて玄倉まで行くことにしました


蛭ヶ岳から北へ向かっている主脈と別れ主稜へ入ります

初め仏谷の源頭となる尾根を急下降して登りかえし臼ヶ岳(1460m)に着きました

丹沢もこの辺は山深く神秘的な感じがあります


コブを四つ、五つ越すと金山谷乗越でここから檜洞沢を下ります

沢にはいくつか堰堤がありますが滝はありません

ゴロゴロとした大岩の間を下って行くと岩の陰に大きなシカの死体がありました

外傷は見当たらず毛並みもきれいな状態を保っていました

どうしてこんなところで死んだのかと不思議でした


ザンザ洞出合をすぎてまもなくユーシンに着きました

一休みして玄倉林道をゆっくり歩いて玄倉に着きました

次のバスの時間までしばらくあるのでさらに神縄まで歩くことにしました

神縄に着くとちょうど新松田行きのバスが来たのでそれに乗って帰りました



1971年1月30日土曜日

源次郎沢 1970年5月20日

梅雨のはしりの平日で関西への修学旅行から帰ってきた翌日です
わたしはとにかく山登りに行くことに決めていました
行先は丹沢の源次郎沢です

大倉に着いたのは遅く午前10時30分でした

いつもより増水している水無川を眺めながら戸川林道を登り水無川本谷出合に着きました

今にも雨が降り出しそうです


本谷山荘の前を通り源次郎沢に入るとすぐに堰堤が2つ続きます

それを越えて行くと大雨の仕業なのか沢筋はかなり荒れています

いくつか簡単に登れる滝を越えていくと伏流になったのですぐに源次郎尾根に取り付きました

岩峰をすぎて花立に出たところで今日入山してから初めて他のパーティーと会いました

大倉尾根から塔ノ岳(1491m)に登り頂上から大倉へ駆け下りました

1971年1月29日金曜日

丹沢主稜 1970年3月26日、27日

横浜の家から見る丹沢は本格的な降雪があったようで稜線が白く輝いて見えます
昨年行った丹沢山から蛭ヶ岳の稜線は今は一面雪景色でしょう
そう想像すると矢も楯も堪らず行きたくなってきます
先月山行をともにしたHOに持ちかけて今度は初の泊りがけで主稜へ行くことにしました

朝9時にHOと上星川駅で待ち合わせました
途中渋沢駅から大倉へ行くバスの連絡が悪く大倉に到着したのは11時頃でした
大倉尾根の堀山(943m)から上は単調な急登が続きつらいです
今回は泊りがけの装備が重く余計につらく感じられます

途中で昼飯を食べて気合いを入れなおして塔ノ岳(1491m)まで登りました
先月来た時よりもはるかに積雪が多いので驚きました
こんなところでモタモタしていられません
ここから先の行程がどうなっているのか心配ですぐに出発しました
今日は蛭ヶ岳山荘で泊まる予定なのです

足元は雪であたりは霧が出て視界の悪い中を竜ヶ馬場をすぎ丹沢山に着きました

明日の行程を考えると蛭ヶ岳まで行きたいところです

HOが疲れているようなので丹沢山の「みやま山荘」に泊まることにしました

暖房の効いた小屋の中で夕食を自炊してたべました


翌朝起きると外は雪が降っていました

そんな天気の中を歩いたことがなかったので少し心配になりました

しかしその雪も朝食を食べ準備をして出発する頃には止みました

天気は確実に回復しているようで小屋の近くから富士山が見えました


丹沢山の先のつるべ落としをすぎ不動ノ峰に登り返して一服入れます

蛭ヶ岳への稜線上は途中雪が凍っているところがあったので慎重に通過しました

雪道に神経を配りながら歩いていると以前よりもあっけなく蛭ヶ岳の山頂に到着しました

蛭ヶ岳山荘で熱湯のようなおいしいお茶を飲みました

雪の中を歩いてきたので暖かい飲み物がとてもおいしく感じらました


元気が回復したところで檜洞丸(1601m)へ向けて出発しました

蛭ヶ岳下の急坂は道が凍っていて危険でした

そこを慎重に下り、臼ヶ岳(1460m)から何回も小さな頭峰を上り下りしました

そして檜洞丸に着き青ヶ岳山荘で休憩しました

それから石棚山稜を箒沢へと下りました


1971年1月28日木曜日

表尾根ー鍋割山稜ー小草ノ平沢 1970年2月11日

これまで何回か山登りに出かけましたが、友人を誘って行ったことはありませんでした

昨年には沢登りへも行き、尾根歩きとは違う山登りの楽しさを知りました
また先月は丹沢山へ行って冬景色の美しさに目を見張りました
そんな山登りの楽しさを、バスケットボール部に所属する友人のHOに話しました
すると彼も行ってみたいというので、連れ立って出かけることにしました

HOはわたしよりも山登りの経験が少ないので、初心者向きのコースにしようと思いました

これまで行ったことのある表尾根と鍋割山稜への縦走することにしました

それに小草ノ平沢という小さな沢の遡行を合わせることにしました

沢登りをプラスすることによってさらに楽しい山登りになると思ったからです

行動時間は長くなるけれど彼はわたしと同じくらいの体力があるから大丈夫と思いました


大秦野駅(現秦野駅)からヤビツ峠まではバスで登ります

ヤビツ峠からダラダラと林道を下り、30分ほどで表尾根に取り付きます

いきなり二ノ塔への急登になり、HOはだいぶ苦しいようです

ここで彼がバテては困ると思い、登るペースを落としました


二ノ塔から三ノ塔(1205m)へと過ぎ、塔ノ岳(1491m)へは予定通り着きました

外は寒いので尊仏山荘に入り弁当を食べました

熱いほうじ茶がおいしく感じられました


塔ノ岳から大倉尾根を金冷しまで下り、鍋割山稜へ向います

大丸から鍋割山(1273m)の間はアップダウンもあまりありません

ブナの大木の間をのんびりと行くと自然のままの美しさがくっきりと感じられます

鍋割山のあたりは立木が少なく、一面茅が生えているので見晴らしがいいです


そこから南へ樹林の中を駆け下ると後沢乗越です

乗越を左に下り、四十八瀬川に出会うところで水を補給しました


林道を勘七ノ沢の出合まで下り、ここから勘七の沢に入ります

F1の手前まで遡ると、右からうす暗い小草ノ平沢が出合います

7m、5m、3m、4m、2mと小さな滝が続きます

真冬なのでひょっとして滝は氷結しているのではないかと期待していました

ところが、全く凍っていませんでした


小草ノ平沢に入ったあたりから、HOがだいぶくたびれてきました

ときおり両手を両ひざについて立ち止まるようになりました

水流は少ないのですが、冷たい水に落ちやしないかと少し心配になりました

小さな沢なので、しばらく行くともう源頭部のガレ場となりました

少し薮をこぐと大倉尾根の堀山ノ家のところへ出ました

そこから大倉尾根を大倉へと下りました



1971年1月27日水曜日

丹沢山 1970年1月25日

家の近くから富士山、大山、丹沢と続く山並みが見えます
空気の澄んだ冬の日にはとりわけくっきりと見えます

1月中旬を過ぎると、わたしにはそこが少し銀色に光っているように見えました
そうなると、それをじかに確かめてみたい気持ちが起こってきました
いてもたってもいられずに行ってみることにしました

前回雲取山を目指した時は、電車の乗り継ぎで時間を取られ目標が達成できませんでした

そこで今度は同じ失敗をしないように一番電車で出かけました

7時に大倉に着き、すぐに登りはじめます


ほとんど疲れを感じないうちに花立に着きました

ここから道がブナの大木の間を通るようになります

その木の枝に付いた霧氷が太陽の光に反射してきらきらと輝いていました

こんなに素晴らしい景色を見るのは初めてでした

ひとりで見ているのが勿体ないような気持ちで、自分はとてもラッキーだと思いました


足元には少し雪が積もっていますがキャラバンシューズで歩いても支障はありませんでした

塔ノ岳を越え、日高(ひったか1461m)の峰、竜ヶ馬場とすぎて、丹沢山に着きました
もっと先までこの雪景色の中を歩き続けたい気がしました
しかしこれ以上先へ行くと帰る時間が足りなくなるのがはっきりしていました
また来ようと心に決めて大倉へと下りました

1971年1月26日火曜日

鷹ノ巣山から六ツ石山 1969年10月

これまで登った山で一番標高が高かったのは、丹沢山塊の蛭ヶ岳(1673m)でした
もっと高い山に登ってみたいと思い、日帰りで登れそうな雲取山(2017m)を選びました
ところが横浜から奥多摩へ行くのに予想以上に時間がかかりました
氷川駅(現奥多摩駅)から鴨沢へ行く早いバスに乗れなかったので雲取山はあきらめました
蛭ヶ岳よりほんの少しだけ高い鷹ノ巣山(1737m)に登ることにしました

バスを水根で降りて、水根沢にそった水平に近い道を行きます

ときどき前方に水根山が見えます

脇の沢の水が少なくなってくると道は急になり、水根山に着きました

ここから道なりに行けば鷹ノ巣山になると思って歩きました

ところが巻道に入ってしまい鷹ノ巣山の頂上を行き過ぎてしまいました

また道を戻ってようやく鷹ノ巣山に着きました


記念すべき自己最高地点に登ったのですが、霧で視界が悪く眺望がききませんでした


昼食を食べてから、石尾根を氷川駅へ向かって下山します
六ツ石山(1479m)に着く頃には霧も晴れました
奥多摩湖の向こうに御前山や大岳山が見えました

1971年1月25日月曜日

新茅ノ沢 1969年10月5日

先月家族で大山へ行きました
登頂するでもなく、大山川の遡行は魅力的でもなく、楽しくありませんでした
もっと楽しい山登りができないだろうかと思いガイドブックをよく読んでみました

新茅ノ沢は丹沢表尾根の水無川の支流で、鳥尾山を水源にした短い沢です

沢筋は変化に富んでいて遡行が楽しそうです

初心者が1人で登っても危険そうではなかったので、行くことにしました


渋沢駅から大倉行きのバスに乗り、終点で降ります

水無川を左岸へ渡り戸川林道に出て、その林道を上流に向かいます

1時間ほど歩くと新茅橋があり、そこが入渓点です


沢へ降りるとすぐゴーロ(岩がゴロゴロしたところ)になります

大小を交えた滝が次々と現れ、それらを直登します

大滝(12m)は今の自分には難しそうだったので、直登をせず巻道から上ります

そこからガレをつめて鳥尾山に着きました


まだ時間があったので、塔ノ岳まで表尾根を歩き、そこから大倉尾根を大倉へと下りました


1971年1月24日日曜日

大山 1969年9月18日

父の発案で、めずらしくわが家の家族全員で出かけました
主たる目的は中腹の阿夫利神社への参詣で、頂上を目指す登山ではありませんでした
それなので、登ったのは下社まででした

下社ではばったりとナガセのおじさんに会いました

おじさんといっても親類ではなく、父の仕事上の知り合いでした

小学校低学年の夏休みに、茅ケ崎にあるそのおじさんの家へ遊びに行ったことがありました

茅ケ崎の駅からかなり歩き、着いたところは田んぼの傍らの古い家でした

田んぼの彼方に大山が良く見えたことを覚えています

そんな思い出のあるナガセのおじさんと、大山で再会したのだから奇遇です


家族が阿夫利神社でのお参りをしている間、兄とわたしは大山川を遡行しに行ってみました

先月どこへ沢登りに行くか調べた際に、大山川も初心者向きの沢であることを知りました

それでちょっと行ってみようと思いました


下社から見晴台に向かう水平道の中間付近に祠があります

そこが大山川の入渓点です

登山道から二重ノ滝が見えるので、すぐにそれと分かります

滝を登りながら20分くらい遡行すると、もう水流が無くなってきました

これより上は滝もないはずなので、来た道を引き返して下社に戻りました


お参りを済ませた家族と下社で合流し、帰りは女坂を下りました

途中大山町のお土産屋でとろろそばを食べました

全体的としてつまらない山登りでした


1971年1月23日土曜日

葛葉川本谷 1969年8月10日

初めての沢登りの経験でした

これまで大山、表尾根、主脈と丹沢・大山での足跡を広げてきました

夏になり、涼しさを求めて沢登りというものに挑戦してみることにしました

葛葉川本谷を選んだのは初心者向けの沢、とガイドブックに書いてあったからです

滝が連続し、しかもそのすべてが直登できるというので楽しめそうでした


たしかに滝を登るスリルはありましたが、期待していたほどの感動はありませんでした

1971年1月22日金曜日

丹沢主脈 1969年6月15日

先週行った丹沢表尾根が楽しかったことを兄に話しました
すると兄はじゃあ来週は表尾根よりもっとすごい丹沢の主脈を縦走しに行こうといいました
あまりに急だったのは弟に負けたくないという兄の気持ちの表れではなかったかと思います
丹沢主脈縦走は表尾根より時間がかかるので家を早く出発しようと約束しました

当日は兄は朝の新聞配達から帰ってくるのがだいぶ遅くなりました
これから丹沢主脈に出かけるのは無理かなと思いました
ところが兄は当然行くという感じで強行することになりました

ヤビツ峠に8時30分に着きました
表尾根を超スピードで歩き塔ノ岳に12時15分に到着しました
休憩をとらずにそのまま丹沢山に向かいます
霧で視界が悪い竜ヶ馬場(1504m)で15分休憩しました
それから丹沢山(1567m)、不動の峰(1614m)と過ぎていきます
そして丹沢山塊の最高峰である蛭ヶ岳(1673m)に着きました

これで「丹沢山」がわたしが最初にのぼった日本百名山になりました
霧の晴れた蛭ヶ岳の山頂で立ったまま休みました
何しろ時間がもったいないので心残りの蛭ヶ岳から下りはじめました

姫次(1433m)まで下ると塔ノ岳から蛭ヶ岳までの稜線が雲に覆われているのが見えました
八丁坂を過ぎ、黍殻山(1273m)を巻き最後のピークである焼山(1060m)に着きました
てっぺんには鉄塔があったのであがって遠くを見渡しましたが良く見えませんでした
暗くなる前になんとか長野に下り着き、19時15分頃のバスに乗って横浜へ帰りました
 

1971年1月21日木曜日

表尾根から鍋割山 1969年6月8日

わたしは小学校の林間学校で丹沢山塊の東端にある大山に登りました
その後ふたつ年上の兄とその大山に2度登りました
その程度の登山では登山靴もリュックサックも必要ありません
ふつうの運動靴とナップサックで登っていました

兄がひと足先に高校に入学して山好きの同級生と友達になりました
その友人から聞いてきた山登りの話は面白そうでわたしも引き込まれていきました
わたしも山登りをもっと本格的にやってみたいと思うようになりました

先月兄と陣場高原に行ったのは、その友人がとても楽しいコースだから、と薦めたからでした
たしかに面白い山登りでした
上案下の山里らしい雰囲気、変化のある稜線をたどる面白さ、
「こんなに歩いたのか!」と来た道を振り返る心地よさ
陣場高原で山歩きの魅力に取り付かれました

兄が山登りにはそれ専用の靴が必要だと母親にねだりました

兄が買ってもらうならわたしもと思いました

ところがどこでそういう靴を売っているのかも、いくらぐらいするのかも知りませんでした


ある時家族で伊勢佐木町の丸井へ買い物に行きました

そこでキャラバンシューズという登山用の靴を売っているのを見つけました

アッパーはダークブルーのナイロンで、分厚く黒いゴム底には滑り止めの金具が数個付いています

靴に顔を近づけるとナイロンかゴムか接着剤か、何か独特のにおいがしました


そこに並んでいたキャラバンシューズには高いのと安いのがありました

兄の足の大きさに合う高いタイプはサイズ切れだったので兄は安いタイプを買うことになりました

わたしはサイズが合う高いタイプを買ってもらうことになりました

わずか千円の違いでしたが兄よりも高い登山靴を買ってもらえたことを喜びました


キャラバンシューズを買ってもらったのでそれを履いてどこへ行くか考えました

これまで大山には3回登っています

大山と違って陣馬山から高尾山の縦走は変化があって楽しかった

今度はまたどこか別な山に自分ひとりで行きたいと思いました


ガイドブックを買って読むと丹沢の表尾根は最もポピュラーなコースだと書いてありました

それでそこへ行ってみることにしました


大秦野駅(現秦野駅)からバスでヤビツ峠(761m)まで行きそこから歩きはじめます

ヤビツ峠から二ノ塔(1,144m)への登りはけっこう急でした

これはたいへんだと思い、そこからもっとゆっくりしたペースで歩くことにしました


大きく見えた三ノ塔(1,205m)を過ぎてもアップダウンがまだ続きました

かなり疲れて塔ノ岳(1,491m)に着きました


下りは鍋割山(1,273m)をまわって行きました

鍋割山から後沢乗越(810m)通りすぎ中山峠(390m)から林道を歩きました

三廻部部落でトラックが一台通りかかりました

運転手の人が「乗るかい。」というのでありがたく乗せてもらいました

途中でそのトラックを降りてあとは渋沢駅まで歩きました


1971年1月20日水曜日

陣馬山から高尾山 1969年5月3日

4月から高校に通うようになった兄が高校で山好きの友人に出会いました
その友人に勧められたのがこの陣馬山から高尾山への縦走コースでした
わたしと兄はこれまで丹沢の大山に3回登ったことがあります
大山以外の山へは行ったことがありませんでした
それで今度は違う山に行ってみようということになりました

陣馬山の麓へ向かうバスを八王子駅で1時間待ちました

上案下でバスを降り林道を和田峠まで登ります

和田峠から道が山登りらしくなったと思っているいうちに陣馬山(854m)の山頂に着きました

その展望の良さに感心してしまいました


ここから尾根道を西に向かって縦走していきます

明王峠、堂所山(731m)、景信山(727m)、城山(670m)といくつもピークを越えていきます

最後に人ごみで埋まっている高尾山(599m)につきました


せっかくいい気分で縦走してきたのに、騒がしくて興ざめでした

長くいる気がしないのですぐに下山を始め高尾山口駅から家へと帰りました


1971年1月19日火曜日

大山 1969年4月17日

山へ行きたくなったので、また大山へ兄とでかけました

僕が山に行くときはいつも天気がいいな、などと考えながら歩きました

そうしているうちに、下社にきました

歩いている時は暑かったので、売店でサイダーを買いました

そして売店の前の縁台に座って飲み始めました

次第に冷たい風が吹いてきました

冷えたサイダーを全部飲むのにひどく時間がかかりました

お金と時間がもったいなかったと悔やまれました


山頂に着いて、また西側の眺望を楽しみながら、母が作ってくれたおにぎりを食べました

おにぎりは新聞紙にじかに包まれていたので、米粒に新聞のインクが付いていました

おまけに気温が低かったのでおにぎりは歯にしみる冷たさでした


下山は前回と同様に明るい見晴台のコースをとりました

見晴台からススキの原を過ぎて下社に向かうところで、兄と銀玉鉄砲を撃って遊びました


下社から女坂の石段を下っていくと、道端にキャラメルの箱が落ちていました

何気なく拾うと、その中に100円玉が5個入っていました

どうしようかなと思いましたが有り難く頂戴することにしました


1971年1月18日月曜日

大山 1967年11月下旬

冬に入ると空気が澄んできて自宅の近くから西の方の山並みがよく見えるようになります
その景色を眺めているうちに大山へまた行きたくなり兄と一緒に出かけることにしました

朝陽が当たらず冷え冷えとした空気の中を一歩一歩上りました

女坂の石段は急ではありませんが、同じ足運びを何段も繰り返すので単調です

下社に着くと視界が広がり相模湾や江の島が眺められホッとします


雪化粧した富士山が見える所を過ぎると、間もなくヤビツ峠からの道と合流します

もうすぐ頂上です


山頂に着くと一年前に見たあの大パノラマをまた見たくて急いで北面に行きました

10センチ近い高さの霜柱をザクザクと踏んでいくと、前とは全く違った風景でした

山頂の木々は葉を落としたので目の前の丹沢の峰々がさらに大きく高く見えました

丹沢も高い峰の頂上付近は雪で白くなっていました


帰りは見晴台経由で下社に降り、そこから男坂を下りました

去年はバテバテで下山しましたが今年は余裕をもって降りてくることができました


参道に並ぶ店でついお土産を買いすぎてしまいました

所持金を確かめてみると、帰りの交通費が足りないことが分かりました

節約するために小田急の伊勢原駅までの6キロはバスを使わずに歩いて行くことにしました


1971年1月17日日曜日

白石沢キャンプ場 1966年夏

父は海が好きで毎夏家族5人で一度は神奈川県内の海水浴場に日帰りで出かけました
ところがこの年は珍しいことが起こりました
神奈川新聞社主催の親子キャンプに申し込み、家族そろって丹沢の白石沢へ行ったのです

それまで家族で泊りがけの遠出をすることはほとんどありませんでした
なので、わずか2、3泊のキャンプでしたが、とりわけ印象深く覚えています

わたしたちを乗せたバスは酒匂川から支流の中川川へと狭い道に分け入りました

対向車が来るとバスはすれ違うために崖っぷちギリギリのところを走ります

そのたびにわたしはバスもろとも谷底に落ちるのではないかと肝を冷やしました


やっとのことで山奥の箒沢という集落につきました

そこから1時間ほど林道を歩いて白石沢のキャンプ場に着きました


小さなバンガローで寝起きしました

ここに家族全員で来ているというだけでうれしくなりました

それに加えて山の中で目にするもの、聞くもの、肌で感じるもの、すべてが新鮮でした


夜に屋外広場でやったキャンプファイヤーには虫が沢山飛んできました

そのあとレストハウスの中で行われたキャンドルサービスの雰囲気は心にしみました

リーダーが歌ってくれた山の歌は、どれも今まで聞いた歌とは全く違う響きがしました


白石沢の河原は石がゴロゴロしていて、泳ぐことはできませんでした

それでも体の芯が冷えきるまで水遊びを楽しみました

子供たちが楽しんでいる間、母は所在なさげにぼんやりしていました

家ではいつも忙しそうにたち働いている母ですがここではやることがないのです


広場でみんなでバレーボールをして遊びました

兄は夢中でボールを追いかけていって木株に足を引っ掛けてケガをしてしまいました

父と一緒に医者のいるところまで下山し、夕方帰ってきました

山の中の診療所とて、麻酔なしで5針ほど縫合したそうです

父は何やら不機嫌そうな顔をしていました



1971年1月16日土曜日

大山  1966年7月25日

くたくたになって下社まで降りてきました
最前列右から3人目が私

はじめて本格的な登山をしたのは小学5年の時でした
林間学校で夏休みに神奈川県の大山に登ったのです

まず上星川駅から相模鉄道に乗り終点の海老名駅まで行きました
そこから小田急線に乗り換えるためにホームに立つと大山が大きく見えました
家の近くから何度も遠望したあの形ですが、そばに来て見ると圧倒な大きさです

伊勢原駅で小田急線を降りてさらにバスに乗って山の麓へ行きました
谷が狭まってきたところでバスを降りました
旅館や土産物店が立ち並ぶ前の道を上っていくと今夜泊まる宿に着きました

大山登山の前夜は山麓の先導師(せんどうし)旅館に泊るのが昔からの習いです

先導師というのは今でいえば登山のガイドのことです


大山講というのが江戸時代に盛んになりました

江戸をはじめ関東の各地から大山に参詣登山にやって来る人が増えまし

それらの人々を案内するのが先導師で、その人が経営する宿が先導師旅館です


私は外泊が嬉しくてはしゃぎまわり、夕食の時に最高潮に達しました

ご飯を口にいっぱい頬張ったままお代りに立ち、担任のI先生に叱られました


翌朝はあいにく小雨でしたが登山は予定通り行うことになりました

担任の先生をリーダーとしてクラスごとに山頂への道を登ります

途中、登るのがつらくなって次々と脱落していく生徒もいました

私は体がいつもの調子ではありませんでしたがなんとか登っていきました


旅館で作ってもらった昼食を途中の樹林帯で食べました

みんなでワイワイ食べていると誰かがおにぎりを落しました

それが斜面をころげ落ちていくのを見て「おむすびころりんだ!」とみんなで大笑いしました


最後の坂を登りつめ大山の1252mの頂上に着きました

やっとたどりついた山のてっぺんに立派な神社が建っているのが意外でした

どうやってこの大きな材木をここまでもちあげたのでしょうか?


山頂の西側へ行くとすばらしい景色が広がっていました

雲海の上に箱根火山群、富士山、丹沢連峰などたくさんの峰々が見えました


下山を始めると疲れがどっと出てきました

途中下社で記念撮影をしましたがくたびれてみんな笑顔になれませんでした

それでもなんとか頑張って先導師旅館まで帰りつくことができました


スキー 1965年12月30日~1966年1月3日 秋田県

ひょんなことからスキーを初経験することになりました
小学4年生の冬に秋田県ででした

スキーに全く関心が無かったのにどうしてそういうことになったのか?

まずは、そのきっかけから話しましょう


当時の父の勤め先に、秋田県から出稼ぎに来ているKさんという人がいました

父はその人を東北なまりで「チクッツァン」と呼んでいました

父の実家の宮城県古川市とKさんの家のある秋田県雄勝郡は奥羽山脈を挟んで東西に位置していました

故郷をこよなく愛する父からすると同じ方言を話すKさんは親類同様で、すぐ懇意になったのです


そのKさんが年末年始に帰省する際に私と兄を秋田へ連れて行ってくれることになったのです

我が家は経済的に困窮していたのでそれまで泊りがけの旅行などしたことがありませんでした

なので秋田へ行けると聞き、二人とも喜んで出かけたのでした


暮れも押し詰まった寒い夜、私と兄はKさんと品川駅前へ向かいました

ここから東北へ向かう京浜急行の帰省バスが出るのです

駅近くの広場にお土産を入れた大きな荷物を抱えた大勢の人がバスを待っていました


私たちが乗った大型バスは暗い国道を延々と走り続けました

途中トイレ休憩で停車した時にバスの外へ出てみると、夜空にもの凄い数の星がまたたいていました

やがてバスは仙台あたりから山間部へ入り、作並街道を経て奥羽山脈を越え行きました


翌朝早く山形県の天童駅に着きました

そこでバスを降り、奥羽本線に乗り換えて秋田へ向かうのです

駅のホームで列車を待っていると、まっ黒いSLが雪の中を沢山の煙を吐き出しながらやってきました

短く汽笛を鳴らしてホームに停車すると今度は車体の下から勢いよく蒸気を吹き出しました

この様子がとても頼もしくて、これから見知らぬ雪国へ行くのも不安はありませんでした


私たちが乗ったSLは平野をしばらく走り、真室川という駅に着きました

父は家で酔って機嫌がいい時に、よく「真室川音頭」という民謡を歌っていました

何も知らず父の歌に合わせて手拍子を取っていましたがここがその真室川かと思いました


谷あいを走るSLの両側の雪はどんどん深くなり壁の間をすり抜けていくようになりました

あたりは一面の銀世界です

「真室川音頭」の中に「花の咲くのを待ちかねて」というのもなるほどと思いました


SLはどんどん山の中を登って行き、峠を越えると横堀駅に着き、ここで下車しました

駅舎から出ると、大きな家々はすっぽりと雪をかぶり、窓から光がもれていました

見たこともない夜の雪景色です


凍った街道を足元に気をつけながら歩いていくと、通りに面してひときわ大きな家がありました

これが清國(チヨクニと発音)という大関の生家でした

堂々とした体躯の力士に似つかわしい立派な家だと思いました


街道をさらに行き、少し脇に入った田んぼの中と思しきところにKさんの家は建っていました

街道沿いの民家ほどは大きくない木造平屋建ての農家でした


着いた日が大晦日だったので翌日はもう元旦でした

朝からストーブが焚かれ、部屋の中は思いのほか暖かでした

新年を迎えるお神酒が子供たちにもふるまわれ、みんな上機嫌でした

簡素ながらもおごそかで、横浜の家とはまた違った良い正月の雰囲気でした

食べるものは全てとてもおいしくてご飯とみそ汁を何杯もおかわりしました


Kさんの家には私たち兄弟と同じくらいの子供がいたので一緒に遊びました

その遊びの中の一つがスキーで二度やりました


一度目はKさんの家からしばらく歩いて行った山の中のスキー場でやりました

スキー場といってもリフトもレストハウスもなく、ただ立木のない山の斜面です

道具は竹で自作したスキーで、それを長靴にひもで縛りつけて滑るのです


私たちはもちろん上手く滑れず、何度も顔面から雪の中に突っ込みました

長靴の中は雪まみれになって足がかじかみました

背中や手袋の中にも雪が入って融け、じっとり冷たくなりました


もう一度は街道の橋のうえでやりました

ここは転んでも雪まみれになる恐れはありません

硬くしまった路面は竹スキーがよく滑ります

あまりによく滑るので左右の足が離れていき股裂きになりそうで怖くなりました


路上スキーをやったあとKさんの知り合いの家へ遊びに行きました

街道沿いの大きな家で、屋根から太い巨大な氷柱が何本も下がっていました

その家には子供が大勢集まっていたので、広い部屋でカルタや鬼ごっこをして遊びました


調子に乗りすぎた誰かが戸にぶつかり、派手な音をたててガラスを割ってしまいました

すると、その家のお婆さんがやってきました

私はてっきり怒られるのかと思いました


お婆さんはまず子供たちに怪我が無かったことを確かめました

そして「割れ、割れ、いくらでも割って構わね。うんだけんど怪我だけすんな」と明るく言い放ちました

それからお婆さんは割れたガラスを念入りに片付けていました


ある夜、ストーブを囲んでKさんから怪談を聞きました

ストーブの上に鍋が載せてあり、その中にはジャガイモがモミ殻と一緒に浮かんでいました

子供たちは茹であがったジャガイモを頬ばりながらKさんの怪談を聞きました


その話がどんな内容だったか覚えていません

覚えているのはその話がとても怖かったことだけです

私はすっかりおじけづいてしまいました


間が悪いことにたまらなく小用をしたくなってきました

便所はストーブから5メートルほど離れてたところにあります

そこへ行くことすら怖くてできなくなっていました

兄に頼んで一緒に便所まで来てもらい、用をたしているあいだ便所の前で待ってもらいました


Kさんの家で布団にくるまって寝ていると奥羽本線を走る夜汽車の汽笛が聞こえました

この印象的な秋田へ旅からどのようにして帰ってきたのかすっかり忘れてしまいました

突然記憶が蘇るのは横浜に戻ってきたところからです


私たちはKさんが寝泊まりしている出稼ぎの宿舎に着きました

その宿舎の前でしばらく立ち話をしました

その時、私はどうにも暑くて着ていたジャンパーを脱ぎました

横浜の冬はこんなにも暖かいのかと全く呆れてしまいました