1985年12月30日月曜日

槍ヶ岳

 TSMCの年末年始の合同山行で、どこへ行こうかと皆で考えたすえ、新穂高側から槍ヶ岳にスキー登山することにした。先発隊はKがリーダーでW、S、Hのペルー組だ。29日に入山し、槍平にベースキャンプをおいて、はじめに奥穂高岳を往復する。次に槍ヶ岳に登る際に、わたしとKちゃんが後発隊で合流する予定だ。わたしたちは30日に入山した。

12月30日

 新穂高温泉のバスの終点から、蒲田川右俣の林道にそって進む。すぐ雪道になり、スキーにシールをつけた登行に切り換える。白出沢を横切る箇所では、デブリが堆積していて、スキーではあるきにくい。ひときわ大きい滝谷出合のデブリを越えて、川が左に曲がり傾斜を増すと、槍平の雪原に出た。先発隊のテントが見つからず、待っていると、下から先発隊の4人が登ってきた。ところがHの様子がおかしい。


 話を聞くと、つぎのようなことだった。先発隊は、予定通り奥穂高岳に登頂し、昨晩は穂高小屋の近くに雪洞を掘ってビバークした。その就寝中に屋根から落雪があり、その下敷きになってHが肋骨を圧迫骨折したのだそうだ。Hは胸のまわりにポリウレタンのマットを巻いて、細引きで固定している。明日、Kが新穂高まで付き添って下山することになった。自力で歩けるのが不幸中の幸いだ。


 けが人を出してしまったが、夜は遅くまで宴会して、入山草々アルコールが枯渇してしまった。


12月31日

 今日は槍平の周辺でスキーをやることにした。大喰沢の辺りまで登り、ダケカンバの間を気持ちよく新雪滑降した。

 午後に川上が戻ってきた。酒を沢山背負ってきてくれた。おかげで、昨晩以上に派手に宴会をやることができた。


1月1日

 今日は槍ヶ岳に登頂する。二日酔いの頭を押さえながら、飛騨沢への道をスキーで登る。傾斜が急になってきたところでスキーをデポし、アイゼン登行に切り換える。風雪の中の行動だが、視界は良く、ルートは明瞭だ。


 西鎌尾根に出るとさらに風雪が強まった。槍ヶ岳の姿は見えない。そのまま視界は晴れず、肩の小屋についても槍の穂先は見えない。寒いので小屋の中に入ると、沢山のひとが風を避けていた。久美ちゃんは、昨夜の睡眠不足で完全にバテテしまい。穂先への登頂は諦めてしまった。穂先の岩にはエビノシッポがたくさん付いている。鎖場は、夏場ほどではないにしろ、多くの人がとりついている。山頂ではまったく視界がなかった。


 そそくさと下山し、槍平のテントへと急ぐ。


1月2日

 今日も槍平のまわりでスキーをして遊んだ。

1月3日

 登ってきたルートを下山して、新穂高温泉から下山した。


1985年12月15日日曜日

笛吹川東沢乙女ノ沢

  昨冬断念した黄蓮谷の氷瀑だが、今年は奥秩父でやってみようと、SJと行く。バス終点の新地平から、徒歩2時間ほどで乙女ノ沢の出合に着く。(8:30)

 他パーティーに続いて、わたしたちも乙女ノ滝から登る。(9:10)SJは1万円で買ったバイルの性能が素晴らしいと、とても喜んでいる。滝のうえからナメが続き、コンテで行く。すぐにやや角度のある3段の滝になって、スタカットで登る。SJは今度はスナーグという道具が素晴らしいと感心している。80Mの大滝(Ⅳ-)は順番待ちになっている。氷瀑登りを始めたばかりのわたしたちは、他人の登り方が参考になる。わたしがリードして、30Mほど登ったところでビレイポイントを作ろうとした。しかし、持参のパイプスクリューはなかなか上手く刺さらなかった。次にSJが登ってきて、ビレイポイントを通過して上部をリードした。最初にスナーグを、次にコの字ハーケンを打って落ち口に出た。(14:00)大滝から上部は面白くないので、懸垂下降3回を交えて乙女ノ沢の出合まで戻った。(15:45)


1985年12月7日土曜日

谷川岳

 例年通り初滑りを兼ねて、天神尾根から山頂を往復する。今年は昨年のように二日酔いと寝不足でメロメロにならないよう注意して、余裕を持って山頂に行けた。前回山行で冬富士にのぼれなかったので、少しは反省したのです。やっぱりトレーニングをすれば調子は戻るのですねえ。やらなきゃだめだあ。山頂を往復してきてから、天神平でバリバリ滑る余裕がありました。


1985年11月23日土曜日

富士山

 富士吉田駅から歩いて山頂をめざすトレーニング山行。体調わるく、からだに力が入らない。山頂まで行けなかった。自分の体力の無さが情けない。


1985年11月1日金曜日

城ケ崎

 シーサイドというエリアには行ったことがなかったので、行ってみたがスケール(高さ25M)に圧倒されてしまい、手も足も出なかった。



<リトルジョン> 5.8 L

 しかたなしに、またあかねの浜まで転戦して、お茶をにごした。この程度のクライミングをするなら、本番のほうがまだ楽しめる。もう一ノ倉沢の岩登りシーズンは終わっているが、もっと創造性のある山の味わい方をする必要がある。


<カームフライデー> 5.9 TR


1985年10月27日日曜日

小川山

 紅葉の盛りの小川山も美しい。思えば新緑の小川山で始まった今年の岩登りシーズンも、終わろうとしている。楽しい岩の時代である。

<屋根岩2峰セレクション> 5.8

バードウォッチングエリア

<オオルリ> 5.8 L

<キビタキ> 5.10C TL 3T


1985年10月19日土曜日

広沢寺

 この頃は毎週クライミングで、全く岩づいてしまっている。しかし、行くたびに、ちょっとずつもの足りなさがのこる。

 右クラック(Ⅳ)と左凹角(Ⅳ+)の2本をリードした。Kちゃんは左凹角に取り付いてすぐに滑落し、岩にすこし頭をぶつけた。気持ちだけがはやっていて、良くないパターンだ。


1985年10月13日日曜日

御岳ボルダ―

 先日のフリクラコンペでの、自分のクライミングがもの足りなかった。それで、ボルダリングをやろうと思った。単なる石ころ登りだが、みんなでやったら面白かろうと思い、身近な人を誘ってやってみた。


1985年10月10日木曜日

城ケ崎

 とうとう第10回という節目を迎えた記念すべきフリークライミング・コンペが、快晴の東伊豆城ケ崎海岸あかねの浜で行われました。参加者はフリクラコンペ史上最高の18名(うち2名は会員外)を数え、今シーズンの会員のクライミング熱の盛り上がりと相俟って、緊張と興奮はいやが上にも高まりました。

 コンペ会場となったあかねの浜は、小ぢんまりとした入り江で、朝到着した10時頃は誰も取付いているパーティーはなく、思うままにルートを設定することができました。4本のルートにトップロープをセットして、ルールの説明を行ったあと、11時よりコンペをスタートしました。


 今回からルールを改正しましたので、それについて少々。


  1. トップロープ方式(5.6~5.10A)によるタイムレース

  2. グレード下位のルートから順にトライする。

  3. 同グレードのルートの完登者が複数の場合は、タイムの早いものを上位とする。


 以上に加えて、参加者が多く、コンペの時間が足りなくなる恐れがあったので、

  1. 自信のあるものは、下位グレードのコースをパスしても良い


というルールを付け加えました。


 さて、コンペが始まると下位グレードのルートをパスした人はいませんでした。そのため、5.6から5.8+の3ルートを終了した時点で午後5時の終了予定時間になってしまいたした。そのため、コンペはここで終了し、登れたルートのグレードとタイムで順位をつけました。


ルート①イソギク(20M、5.6)

 ジェードルを10M直上して、右のバンドに上り、そのまま右にトラバース(歩ける)。最後はクラックにジャミングを決めて、そこを乗越すとハングした岩があり、そこにタッチして終了。


ルート②ツワブキ(20M、5.8)

 カンテ状のフェースを直上するとかぶり気味になり、乗越すとテラス。ここからルートが2本あり、左はフィンガークラック、右はジェードルからハンドトラバース。どちらも最後は立木を握って終了。左はフィンガージャムがポイント。


ルート③毘沙門天下部+広目天上部(20M、5.8+)

 ハンドクラック(レイバック)からハング下を直上する。垂壁下のフレークをハンドトラバースし、下り気味にカンテを回り込む。フェースを直上して、最後はハング下のクラックにジャミングを決めて乗越す。


 結果は、ルート③を最も早く(2分28秒)登ったわたしが優勝した。2位はT(3分13秒)、3位W(3分41秒)となった。


<クライミング寸評>

H あいかわらずのネチネチした、つきたての餅のようなクライム。お尻をプリプリさせながら2本目をこなしましたが、3本目は痛恨のリタイア。直前の減量に失敗したのでしょうか。はたまたSJ欠場のショックでしょうか。いまひとつ元気なく、昨年5位の成績からするとやや不本意な結果に終わってしまいました。ひきつづき来年に期待しましょう。


M 昨年のヒロセぶりを発揮したのがこの人。真新しいフィーレをきりりと履いて、3本目までパリッと登った益荒男ぶりは、とても○○才とは思えないまばゆさでした。職場の相棒まで会に引き込み、ますます山にのめり込んでいく独身○○年。今後会のリードオフマンとしての期待をいだかせるような会心のクライムでした。あっぱれ。


O フリークライムの実力は会随1と目されながら、気の良さからいつもトップを人に譲ってしまうこの人。クライムは安定しているがややスピードを欠き、3本目4位だったが、もっと難しいルートで今後エンジン全開するでしょう。


K 前夜伊豆急電車の中で派手に宴会しながら城ケ崎についた川上君。なんと見るも無残に蚊の襲撃にあい、鬼面のようになって岩にとりつきましたが、ファイト不足は否めませんでした。それでも5位。「来年は絶対朝行くぞー」(本人談)


Y ライバルを僅差でかわしてしまったがために賞品がもらえず、くやしがっていたのがこの人。「賞品が欲しかった」と順位に執着しないいさぎよさを見習いたい。


H もしある要素をハンディとしてこのコンペに取り入れたら、この人が明らかに1位でしょう。一同脱帽。ペコリ。今後とも我らを魅了せんことを。


T 最近メキメキと力をつけてきた成長株の1人。トレーニングを積むことにより、一層素質が引き出されるでしょう。期待します。


OS かつて(ほんの数年前)は岩にのめっていたこの人も、いわゆるハードフリーの波をかぶっていなかったのでしょうか?隠居するにはまだ早い。


U(W予定) ここのところ元気のないTSMC女性陣に強烈なカンフル注射をうってくれました。2本目のフィンガークラックを難なくパスし、3本目もきれいなフットワークであれよあれよと最後のハングまで行きました。が、ここでギブアップ。残念でした。おしかった。来年もまたきっといらしてください。


TT 荒削りながら岩に対するファイトはピカイチ。3本目のスピードが足りず、トップはのがしたが、トータルタイムでは1位。難ルートになればなるほど持てる力を発揮するでしょう。

フルヤマサコ あーらお久しぶりのお母さんクライマー。待ちに待ったカムバックです。岩から遠ざかっていても、まだ力は充分残っていました。「来年は頑張るわ」のひとことがうそに聞こえない人柄。まわりの男が小さく見えまーす。


T 1本、2本と着実にこなし、3本目いい線までいきましたがギブアップ。昨年6位、今年8位。伸び盛りの君に必要なのは「ファイト」です。


M 登れませんでしたが、賞品を貰いニコニコして帰っていきました。入会するそうです。雪と岩の万歳楽があなたを待っています。


K 昨年の悔いを見事に晴らす3本完登の堂々7位。中年台風の目となって、次第に勢力を増しながら北上中。今冬には滝谷に上陸の予定。


KT ルール改正(最も難しいルートを最も早く登れた者が1位)の恩恵にあずかり、なんとか1位。最近太ったという悪口にも、本人はあまりめげていない模様。


K 2本目をなんとか登り、3本目もの期待を持たせたが、派手に落ちて10位。その気になればもっと力を出すでしょう。


W パワーは当会随一見ていても岩場が壊れるのではないかと思われるような力感。フリークライムに対する欲が出て、登りこめばさらにいい線いくでしょう。よきパートナーを得て岩に対する夢は無限に広がります。


M 昨年4位ながら、テクニカルなムーブに慣れていないためか今年は残念な成績でした。まだまだやれますとも。ぜひやってください。


さらなる前進に向けて-来年はルールをさらに整えて、誰もが、安全に、楽しめる、フリクラコンペにしましょう。「登ろう 明るく たくましく」‘86フリクラコンペ標語でした。



1985年9月9日月曜日

穂高岳屏風岩

1P目。(5:30)下部岩壁の中でも、ひときわ白く磨かれた花崗岩のスラブがある。その下端に、左上する顕著な凹角がある。ここが全16ピッチからなる東壁ルンゼルートのスタート地点になっている。上部から落ちてきた木くずやゴミが散乱し、やや気をそがれる出だしである。しかし、20Mの凹角に取り付くと、もう壁の中に吸い込まれたようになる。フリークライムであっという間にピンの多いビレー・ポイントに着く。ブヨがうるさい。(T)

2P目。左上するルンゼの登攀。左のスラブとルンゼはしっとりと濡れてツルツルだ。右上のハング帯を利用してバック・アンド・フットでと試みるが、足元がツルツル滑る。2、3度上り下りして、体全体をルンゼの中に押し込んで、毛虫のごとくずらしてなんとかよじ登った。(W)


 3P目。大テラスから真上にボルトが連打されているが、これは誤ルートと見破る。フェースをフリーで右上して、小カンテを越えるところからA1になる。単調なボルト・ラダーを三日月レッジの左まで直上し、右にアブミ・トラバースして三日月レッジに立つ。(T)


 4P目。A1のアブミの掛け替え。ボルトのリングが楕円形に伸びているところもところどころあるが、信頼して(?)快適にザイルを伸ばす。天気も体調もいいが、単調だ。(W)


 5P目。狭いレッジでトップを入れ替わり、左上するバンドをA1でカンテのむこうまでたどる。カンテ沿いにやや微妙なフリー(Ⅳ+)で直上し、水平バンドに出る。バンドを左にトラバースし、灌木でビレーする。(T)


 6P目。草付帯に入り、傾斜は緩む。緊張感からは解放されたが、確実に大腿四頭筋を張らせてT3に登った。(W)(8:30)


 7P目。この屏風岩登攀では、消極的になるまいと気を張ってきた。その意欲も、下部岩壁のウォーミングアップで上り調子になる。(8:45)A1と微妙なフリーで、チムニーからフェースに移り、高度感も増す。かぶり気味を右に乗越してビレー・ポイントをとる。そのまま右へルートをとると東稜になる。(W)


 8P目。ビレー・ポイントからかぶったフェースをフリーで越すが、悪く感じられたのは自分の非力のためと痛感させられる。その後のA1も、リングの無い、赤さびの年季の入ったボルトに神経をすり減らされる。こんなに悪いのは、ルートを間違っているからかと思った。しかし、ボルト・ラダーは第1のハングに向って伸びているので、正しいルートに違いない。ランニング・ビレーを小刻みにとりすぎ、使い果たしてしまったので、ハング直下でアブミ・ビレーすることにした。(T)


 9P目。40Mザイルでは足りず、最初のハングの真下でビレーするTをかわして、2Mほどのハングに取り付く。自宅近くの公園の雲梯で、アブミの掛け替え練習をしてきた。それでなんとかなると考えた。


 そして今、なんとかしなければ落ちる。

 最初のピンにアブミをかけて31年のすべての人生をぶら下げた。しかし、その先の張り出した突端にある4㎜ほどのチロッとさがったシュリンゲに次のアブミが届かない。

 片腕の前腕の力がなくなって伸び切ろうとするところ、「かかった!」

 チロッと下がった1本のシュリンゲの他は、すべてぶっち切れている。この1本もいつぶっち切れるか分からない。しかし、そんな不安をいだいている暇も、真下を眺めて横尾谷まで何もさえぎるもののないことに、感心している余裕もない。

 つぎのピンにアブミをかけるのだ。

 心細いシュリンゲの輪は、今軽すぎたかもしれない31年の生きざまをぶら下げて、ギューギュー鳴いているのだ。

 「早く!早く!」気持ちがあせる。

 もう少し上体を伸ばさないと、次のアブミが届かない。

 「苦しいところ、酷なようだけど、フイフイをかけられないですか」と静かにアドバイスしてくれるT。

 しかし、1CM足りない。2CMでも3CMでもない。1CMなのだ。前腕で思い切り上体を引っ張り上げるが届かない。フイフイのシュリンゲがわずかに短い。

「ランニング・ビレーをとってください」

適確にしかも必要なアドバイスをしてくれるT。そして静かに。

前腕がバカになって力が出なくなる。だめだと弱音は吐きたくない。しかし、腕が動かない。

頼るものは自分の他何もない。ブラブラと、チロッと下がったシュリンゲにだらしなくすべてを託すのみ。

再再度、左前腕に体重を委ね、左手をいっぱいに伸ばして、右寄りのフェースのへの出だしのピンにアブミをかけようと...。

「カチャ!」「かかった!」

横尾谷の吸引から一歩前進だ。

リンゴは木から落ちてはならないのだ。徹底的に引力にさからうのだ。

腕の力はまったく抜けてしまった。しかし、意志は上へ上へと向かった。意志が引力に勝ったと思った。

公園の雲梯で軽々と乗越せるほど東壁ルンゼは甘くなかった。

ハング上部はフェースから凹角へと、フリーと人工の登りとなる。ハング越えに続いて微妙なフリーで難しい。しかし確実にザイルを伸ばす。

不安定な姿勢で確保してくれているTの疲労が頭をかすめた。時間がかかりすぎた。

「ビレイカイジョ!」

唇が、ノドがパサパサなのを意識した。(W)


 10P目。フェースから左へトラバースしたあと凹角に入る。壁を見渡す余裕があれば、ルートファインディングはさほど困難ではない。(T)


 11P目。『日本の岩場』(RCCⅡ)のルート図では、このピッチはⅢとあるが、ピッチの切り方が違わなければⅣ+はあると思われた。左上の草付帯に向って凹角をA1で抜けてへの字ハング下のテラスに出た。平らで安定した4、5人立てるテラスだ。(W)


 12P目。への字ハングは完全なルーフにはなっていないが、ここまでの何ピッチかの厳しいムーブの後には、なかなか手強い箇所になりはてる。アブミ・トラバース気味に右上していくと、壁がおおいかぶさってくる。もはやフイフイが大事なお友達の1人という情けない状況だが、すでに両腕はケイレンしていることでもあるので、この際大活躍していただくことにする。ハング出口で遠いハーケンをつかんでフェースへ移りたいところだが、足などは宙を蹴ってわなないてしまう。あれやこれややってるうちにフェースに乗れて、あとは、草付まじりをフリーとA1で40Mいっぱいにザイルを伸ばす。(T)


 13P目。小さな草付のレッジからトラバースして灌木帯に入り直上する。太く確実な根っこに思いっきりつかまって階段状をかみしめて登った。(15:10)


 終了点から明瞭な踏み跡をたどり(ゴミ多く不快)、屏風の頭へ向かう。途中色づいたナナカマドの赤い実が、まだ夏のほてり止まぬわたしたちに、秋の訪れをさりげなく知らせてくれた。季節はあからさまに押し寄せてくるのではなく、こうして兆すものなのだろう。屏風の頭から屏風の耳へと向かい、耳直下から右下の踏み跡をひろってルンゼを下り、涸沢街道に出た。

屏風岩で


1985年7月27日土曜日

甲斐駒ケ岳赤石沢

 来年夏のペルーアンデス遠征に備えて、会としてかつてないスケールとレベルで岩壁登攀を行った。計画段階で、入下山日が同一の者を固定したザイルパートナーとし、そのパーティーの希望と、同じルートに同日に2パーティーが取り付かないように調整した。また、装備や食料等はすべて各パーティー単位で準備することにした。

7月28日 晴 奥壁左ルンゼ パーティーW、H

 4時に7合のテント場を出発。8合の鳥居で見るモルゲンロートは、その日の猛暑を予告するかのように山の端を染めていた。


 8合目岩小屋前から第1バンドの踏み跡を下る。中央稜を回り込んでさらに下ると、階段状のフェースを登った。F1直下のハング下が取付きとなる。5時過ぎ、すでに奥壁は朝陽を受けて赤く染まっている。7月中旬に行った城ヶ崎のあかねの浜での、炎天下での苦しいクライミングを思い出しながら準備にかかる。


 1P目、まずはHがリードする。(5:30)小ハング下の外傾したバンドを越えてフェースを右上する。しかし、小カンテに移るところでつまってしまった。足がもう少し長ければ、腕がもう少し...。そんなことを言ってもしょうがないけれども...。


 Tと交替する。垂直の小カンテからさらに垂直に近いスラブへと移る。ボルト・ラダーをA1で順調に稼ぎながら、しかしボルトのピッチがかなり長いようだ。案の定、アブミの最上段に上がって、さらに腕をいっぱいに伸ばす動作の繰り返しとなる。セカンドの2人は9㎜の45Mザイルでそれぞれ確保されて、同時に登った。


 2P目、レッジから急峻なスラブを左上して流水溝に入る。わずかに濡れている。岩はしっかりしているので、思い切ってかつ、微妙なバランスも要求されるフリークライミングだ。広く安定した第2バンド上で、Tはドッカと腰をおろして確保していた。セカンドの気軽さもあって、かなりがむしゃらにスピードを上げてW-Hと続いた。


 3P目、F2落ち口の左下からのフェースを約5M登った付近にHがビレーポイントを取って、Wがリードする。そこから右上するクラック伝いにF2直下のピナクルを2つ越える。草付と濡れた弱い岩に注意しながらⅣ~A1でハング下を右上に抜けるとビレーボルトが2本打ってある。左上にもビレーポイントがあり、そこで3P目を区切った。H-Tが次々に登り立ち、4P目を再度Tに委ねる。


 フェースを左に下り気味に約5Mトラバースして、流水溝に入る。そのトラバースは少々かぶり気味で、顕著なフットホールド、ハンドホールドがない。そして濡れている。Tがフレンドを利用して、微妙にしかし確実に越した。左ルンゼの中で最も傾斜の強い流水溝をフリー(Ⅴ)とA1で直上する。


 F3の傾斜の緩いクラックを、足を突っ込んで、ハンドホールドを外に求めて快適に登ると2.7バンドだ。炎天に終始照らされて、息もあがり気味となる。核心部ともいえる4P、5Pを継続してリードしたTに再再度がんばってもらう。


 「誰もリードをしなくちゃ、みんなでセカンドをやるか...」とTに言われてみると、まだまだ消極的な自分を戒めた。とはいうものの、意欲の盛り上がりがいまひとつなのだ。体調はいいのだが...。Hもいまひとつパッとしないようだ。


 6P目、2.7バンドでルンゼはふさがれた感じになり、左に狭いF4 がある。Tがフレンドで確実なプロテクションをとりながら、急峻なルンゼをリードしていく。途中から右の垂直の狭いチムニーを登って、チョックストーンを越え、さらにルンゼ内の大きなチョックストーンを越えると、傾斜の緩いガレのルンゼとなる。コンテ登行で7P目F5のチムニーまで登り、そこにビレーポイントをとる。


 Wがリードする。この辺りからはまるで「雷おこし」がパラパラになったように風化が激しく、ピンはまったく残っていない。フレンドをかますにも苦労する。がっぷりとかぶったチムニーを、からだまるごと雷おこしに吸着させて、じわじわと登る。最悪の岩質だ。最後のガレのたい積に注意しながら乗越すとルンゼ登攀の終了となる。Tに続いてHがホッとした顔で上がってきた。


8P目、そのままWが先行して、ハング下の逆層スラブを15Mほどトラバースして、急な草付の踏み跡を登り、灌木でビレーして終了となった。(12:30)全装備をはずして中央稜に出る。岩稜伝いに登ると、稜線に出る最後の所でハードフリーとなる。Tは左上するクラック沿いに、ノーザイルで微妙な動作で抜けた。W、Hは右側のクラックの入ったかぶり気味の所を、腕力を頼りに一気に乗越して終了となった。(13:20)装備をはずして草付から上部にこれほどのきわどい所があるとは予想もしていなかった。これを抜けると、ヒョッコリと稜線に出るから、最後までザイルをはずさないのが確実だろう。


 ザックをデポして本峰までひなたぼっこに出かける。山頂の気温は21~22℃もあった。単純計算しても下界の猛暑はすさまじいことだろう。水は3人で5L持ってきたが、まだ足りないと思うほどだった。


 こうして暑い暑い甲斐駒の“ひと夏の経験”は3人のクライマーに燃えて尽きない何かを与えてくれた。              

(W記)


7月29日 晴 前衛壁Aフランケ赤蜘蛛ルート T、H

 昨日と同じく早朝に七丈のテント場を出発し(4:20)、8合目岩小屋から下降。8丈沢左俣にいったん降り立ち、右岸を巻く。Aフランケ下部へのバンドへの入り口を見逃してしまい、基部の岩小屋まで下降する。ここまでは1ヶ所八丈沢滝の落ち口上のスラブ(2~3M)のトラバース(Ⅲ+)がいやらしいが、明瞭な踏み跡がある。


 岩小屋よりスラブ(Ⅱ)を登り、途中水を補給して、赤蜘蛛ルートの取付きに着く。

(6:30)


 1P目。出だし2本目のピンが遠くてちょっと苦労するが、A1で20M。2P目はすばらしい大ジェードルのクラック。このルート唯一のフリークライム(Ⅳ~Ⅴ)を楽しめるピッチ。3P目。同じく大ジェードルからフリーからA1で20M登ってアブミ・ビレー。4P目。V字ハングを左からA1で抜け、かぶった壁をさらにA1で直上。5P目。20Mの岩の不安定なフェース(Ⅲ)から大テラス。ここはルート中唯一の安定したバンド状のテラスで、残置ザイルがあった。6P目。恐竜カンテ左の凹角からジェードルへフリー(Ⅴ)。7P目。白稜ルートと別れ、恐竜カンテ左の垂壁を直上(A1、35M)。ピンは多く、岩は安定しているが、下を見下ろすと高度感がすさまじく、思わず息をのむ。アブミ・ビレーのポイントは、ハーケンが4、5本あったが、それでも不安な気がした。フイフイで完全にぶらさがってビレー。8P目。A1で直上し、カンテを右にまわりこみ、さらにA1で直上。A1に慣れていないため、ここまで来ると腕も足もくたくたになる。次のピンが遠く感じられはじめる。アブミにのって次のピンに立ちこむとき、体が壁から離れてしまいそうで怖かった。灌木のあるレッジでビレー。35M。9P目。ブッシュの中、A1を交えて1P直上。さらに2P木登りをして、Aフランケ頭の岩小屋前に出て終了。(14:30)


7月31日 晴 前衛壁Aフランケ同志会左フェースルート T、H

 七丈から八丈への通い慣れた黒戸尾根の道を早暁とともに登りはじめる。(4:20)今日も暑くなりそうである。昨日激しい夕立が2時間ほどあったので、取付きまでのヤブの露に備えて、八丈岩小屋で合羽を着る。一昨日はAフランケ下部へ至るバンドの踏み跡を見落としたので、今朝は慎重に行き、うまく見つける。右フェース下の流水で水筒を満たし、バンドを左フェースルートの取付きまでトラバースする。(6:00)


 1P目の細かいスラブ(Ⅴ)は、右側の草付を登ってパスし、2P目から実質的な登攀を開始する。出だしはグズグズの草付跡で、始末が悪い。やむなくボルトを効いてなさそうなハーケンにアブミをかけて越す。木登りをして左上バンド(Ⅳ+)に至るが、フェースは脆く、スタンスが外傾している。残置ピンが少なく、ランニング・ビレーが取れない。バンドは松の木につきあたり終わる。3P目はA1の垂壁がである。途中で難しいフェースのフリークライム(Ⅴ+)が入り緊張する。4P目はピナクルテラスからA1で小ハングを越す。ボルトの間隔が遠くて、やや苦しい。脆いバンドでピッチを切る。後続する広瀬が小ハングでアブミを1台落したが、運よくピナクルテラスに引っかかった。取りに戻ってまた登り返す。5P目は、バンドから難しいトラバースを右に数歩した後、カンテを回り込む。その先をA1で直上し、灌木テラスで大休止する。


 草付バンドを10M左上し、核心部である6P目のクラック帯(Ⅵ-)に入る。ナッツでのA1を交えたフリークライムで、A字ハング下のテラスまで登る。このピッチでは、ロックスとフレンズが不可欠と感じた。7P目の出だしはハング下の濡れたスラブだが、残置ピンが多くやさしい。A字ハングは、A1のアブミ・トラバースのあと、ハングの出口でA2になる。出口のハーケンが遠いので四苦八苦していると、となりのルートを登っている女性から「コンニチワ―」とコールされた。そこで、瞬時に笑顔に改め「コンチワ―」と返事した。ハングの上部をA1で3M登るとスラブ状のビレイ・ポイントに着いた。つづくHが奮闘している様子が伺え、「ガンバレー」と声をかける。ハングから出てきたHの顔は真剣そのものだった。8P目はスラブ(Ⅲ)から強引にザイルを伸ばし、脆い垂壁をA1で越えて、45Mいっぱいで終了点につく。(15:30)


 時間がかかりすぎたことと、核心部をフリークライムで越せなかったことに悔いが残った。



1985年7月14日日曜日

城ケ崎

 夏の岩本番を前にして、ハードなクライミングがしたいという声に引きずられて、城ケ崎に行くことになった。

 あかねの浜は小ぢんまりしたエリアで、派手さはないが、ルートのグレードがいずれも5.6から5.9程度でわれわれにはちょうど良いレベルだ。岩場の向きも良く、日影になるのが遅い。ところがこの日は梅雨明けで、カラッと晴れて猛烈な日差しが降り注いだ。


<キャンドル> 5.7 トップロープ

<ツワブキ> 5.9 トップロープ

<広目天> 5.8+ リード

<持国天> 5.8 リード



1985年7月7日日曜日

川苔山逆川

 今年夏にパミールへ行くパーティーの壮行会として計画されたのだが、そのメンバーは1人も来なかった。先発組は奥多摩駅の近くで泊まって深酒をしたそうで、駅前で集合した時に皆元気が無かった。AMさんなどはいきなりもどしていた。

 川苔山の逆川は、林道を下ったところからすぐに滝をかけている、小ぢんまりとした沢だ。梅雨の雨に苔が洗われたようにきれいだ。ザイルが必要ない程度の滝が次々と出てきて面白い。しかし、最後山頂に出る沢の詰めが丁度ごみ溜めになっていて興ざめだった。


1985年6月15日土曜日

小川山

 先月初めて小川山へ行き、すっかり岩登りへの自信を失ってしまった。それで、北岳バットレスでのナイス・クライムをバネに、またやって来た。しかしまたさんざんな目にあった。

<スラブ状岩壁>15日は登れなかったが、16日には登れた。

<マラ岩>頂上へは東面に回り込んでから1P20M(5.8)。きもちいいながめ。

<妹岩>ジャックと豆の木(5.10D)人工で半分。カサブランカは疲れ切ってだめ。

<小川山レイバック>川上が半分リードしたあと、引き継いでリード(5.9)。

<フェニックスの大岩>5.11Dは全く歯がたたず。

<砦岩>隠し砦の3悪人の最初のボルトまで人口を交えてリード。


1985年6月1日土曜日

北岳バットレス

5月31日

 海外遠征のためのトレーニングとして計画した山行である。K・Mの車で新宿を遅く発ち、167㎞走って広河原で仮眠する。(2:30)


6月1日 ピラミッドフェース

 仮眠場所を発ち(7:30)、白根御池に荷物をデポする。(9:30)天候は曇りで、雲低が低く、今にも雨が落ちてきそうな気配だ。それでもバットレスの下部岩壁ぐらいならやれるだろうと、身軽になって白根御池を出発する。(10:30)


 トラバースして大樺沢の二俣に着くと、沢いっぱいに残雪があるので一同びっくり。出発前はバットレスのルートのことで頭がいっぱいだったので、アプローチの状況まで神経が行かなかった。Wさんだけが登山靴で、とは全員靴底の軟らかい運動靴を履いている。雪の上を歩いているとビショビショに濡れてきて冷たいうえに、キップステップもできない。そこでWさんがステップを刻みながら、ずっとトップで登ってくれた。軟らかい雪なので滑落の危険はないが、運動靴は不安定で歩きにくい。


 雲が低く沢に垂れ込めているので、D沢の出合が判然としない。それでも目をこらしていると、第4尾根下部ピラミッドフェースの取り付きが雪渓の向こうに、意外なほどの明瞭さで浮き上がってきた。(12:00)取り付きの手前で登攀具を着け、T-M、H-W、S-Kのオーダーで登攀を開始する。(12:30)


 1P目は凹角から草付、2P目で左へトラバースし、3P目は横断バンドを目指して右上する。岩が脆い横断バンドまで取り付きから小1時間で来た。空から今にも雨が落ちてくる様子だが、行けるところまで行って、ダメなら下降もできる。メンバーの調子も、先々週の小川山でのハードフリークライムの甲斐あって、悪くなさそうなので、最後まで登ることにする。


 4P目はバンドからハングを左に回り込む。5P目はフェースからⅤ級のクラック。6P目のフェースを左上し、7P目はフェースからバンドを左にトラバースし、細かいフェースを左上してクラック下まで。8P目は、またⅤ級のクラックから左に回り込み、赤っぽい逆送の岩をよじって、第4尾根主稜の2P目に出て終了する。(16:20)


 ピラミッドフェースをフリーで登るには、2か所のⅤ級のクラックがポイントになる。ジャミングの練習をしておけばフリーで行ける。また外傾したスラブに立ちこむには、フラットソールの靴が欲しい。登山靴だとA0を使う強引な登攀にならざるを得ない。


 終了点から40Mのアプザイレンで第4尾根取り付きのテラスに降りる。さらにCガリー側の踏み跡を、脆い横断バンドまで下り、そこから3回のアプザイレンでピラミッドフェースの取り付きに戻る。(18:30)大樺沢を転びつつ、日没と競争で白根御池へ帰る。(19:20)


6月2日

 明日は雨になるだろうと、昨夜は焚火をして遅くまで宴会をした。しかし、今朝はまぶしい朝日で目覚めた。寝袋に入ったまま、テントから顔を出すと、バットレスが明るく朝日を受けていた。行くしかないので、朝食を腹につめこんで出かける。(8:45)


 今日わたしは第4尾根の下部・上部フランケをHと登る。他の4名は第4尾根主稜を登るので、脆い横断バンドまでは行動を共にする。


 今日もWさんが雪渓のうえにバリバリとステップを刻んでくれるので、あとの5人はアヒルのようについて行く。昨日とは打って変わって明るい雰囲気のバットレスを見上げながら、快適に取り付きへと向かう。とりわけ、昨日登ったピラミッドフェースは、すっきりした三角錐にいくつものハングをサイの皮膚のようにまとって、厚みのある姿だ。


 ピラミッドフェースの取り付きを出発し、(10:20)横断バンドまでスムーズに登る。(11:00)今日はできれば下部フランケから上部フランケまで継続したいので、先を急ぐ。横断バンドから下部フランケの3P目が始まるのだが、焦りの気持ちからルートを間違えてしまった。3P目だと思って、A1を交えてようやく登ったのだが、こんなに難しいはずはないと思った。Hがフォローしてからアプザイレンし、また横断バンドまで戻る。そして改めて壁を見つめてみると、もっとDガリー寄りにシュリンゲが何本かぶら下がっているところがあった。ここが下部フランケ3P目の出だしのⅥ-だった。(12:00)ここを難なく越え、次のⅤ-のハングをHがリードし、あとはつるべで終了点まで登った。(14:30)


 ここで第4尾根を登っているパーティーからコールがあり、お互いに終了したことを確認した。16:30までには白根御池に戻ることにしていたので、上部フランケへの継続は諦めて、昨日と同じルート下山した。


 今回ルートを一旦間違えてしまった原因は、Dガリーと下部フランケの位置関係を見誤ったためだと思う。Dガリーの上部まで残雪があったため、下部フランケのルートを本来より右寄りだと思ってしまったのだ。今度の機会には、Dガリーの大滝から取り付いて、下部フランケと上部フランケをすっきりつなげて登ってみたい。


<総括>

 梅雨前線がじりじりと北上してきたために、好天は望めなかった。「どうしようか」との声もあったが、ともかく行ってみようと出かけた。車で夜道を広河原に向かっていくと、「スーパー林道冬季閉鎖」の看板に何回か出くわした。またまた「どうしようか」の声があがったが、「その時はその時」とともかく行った。二俣から見上げた大樺沢は、びっしり雪に埋まっていた。運動靴で来てしまったほぼ全員は「ヤバイ」と思ったけれど、「我慢、我慢」と行ってしまった。


 そうしたところが、うまいことに全員2本登れたので、上出来だったと思う。


 しかし、ちょっと判断を間違えれば、天気が悪そうだから、林道が閉鎖だから、雪が多いから、行かない、ということにもなり得た。そして空しさが残っただろう。ギラギラする派手な闘志などいらないが、地味な粘りは心の隅に持ち続けたい。


 シーズン開幕戦で、上々の成果を上げられたことは素直に喜びたい。しかし、これで慢心することなしに、さらに素晴らしい登攀ができるよう、自分にできるかぎりの、息切れしない程度のトレーニングを続けていく必要があると思う。


 今回幸いにして登れた2本のルートも、けっして手中にできたなどと思ってはいけない。次はさらに満足のいくスタイルで登ろう、と思っていて丁度良いのではないだろうか。自分に力があるから登れたのではなくて、あの日は山がわたしたちに「登ってもいいよ」と微笑んでくれただけなのだ。



1985年5月18日土曜日

小川山

 今やフリークライミングの聖地のような感がある小川山へ、TSMCの岩登り実習で初めて行った。実習の講師は、登歩渓流会の玉田さんである。Kさんが都岳連で知り合い、講師を依頼したという。登歩渓流会には以前KSが所属していた。玉田さんは以前ナンガパルバットに挑戦し、雪崩で敗退したことがあるという。

5月18日

 廻り目平は快晴である。キャンプ場は気持ちの良いカラマツ林の中にあった。そこからほど近いガマスラブへまず行く。ツルツルの花崗岩なので、ソールのフリクション性能がものをいう。良い靴だとスッと登れてしまうところもある。ここの山崎祐和が来ていた。そのあとで檜谷清さんや長谷川恒夫さんの顔も見た。有名なガイドがここに集まっている。


 午後は涸沢2峰広瀬ダイレクトへ。3から4ピッチあるルートで、いわゆる本番に近い感じだ。どうも力が入らず、いい登り方ができない。玉田さんと組んで、セカンドでようやく登った。

 夜は久しぶりに焚火をして、酒を酌み交わした。いいキャンプ場である。


5月19日

 今日も良い天気である。まず、烏帽子岩末端のマラ岩へ。ホリデーという5.9のルートだが、1回テンションをかけて(ザイルにぶら下がって)しまった。2本目は妹岩のカサブランカへ。ここは5.10Aで、手を血だらけにして、何度もテンションを繰り返し、ようやく登り切った。その左隣の龍の子太郎は5.9で、スイと登れた。


 フリークライミングはなかなか難しいですね。休養して出直します。


1985年5月12日日曜日

氷川屏風岩

 A峰のA1(右)をトップロープのフリーで、A2のハングを25分で登った。

 ここのところ5週連続で山へ行っているので、疲労がたまってきた。


1985年5月2日木曜日

白馬三山

 この合同山行ではスキー滑降を中心にして行動した。滑走したのは杓子沢、大出原、白馬大雪渓である。連日天気が良く、ザラメ雪がグサグサになった。ザブザブのザラメで、快適な滑りとは云えなかった。

 リッジを登り、沢を下るという行動も想定していたのだが、気温が高くリッジ上の雪が不安定なので、それはあきらめた。次の機会に試みたい。


5月3日

 猿倉台地1,420M地点のBCを早朝に出発した。(3:45)小日向のコル(4:45)、樺平(6:00)、ジャンクションピーク(7:15)を経由して、杓子岳の山頂に着く。(7:50)山頂で、ジャンクションピークからスキー滑降するW氏と別れる。(8:00)Kと杓子岳西側の斜面を、ツボ足で杓子岳と鑓ヶ岳のコルまでで下る。(8:20)杓子沢の源頭は、小日向のコルからはよく見えなかった。今実際に沢の上から覗き込んでみると、適度な傾斜で、雪の状態も良く、スキー滑降できることを確信する。問題は、杓子岳と白馬鑓ヶ岳の側壁から発生するブロック雪崩ではないかと思ったので、杓子沢はすみやかに滑降し、一刻も早く安全地帯に逃げ込むことにする。


 滑降をはじめの沢の上部は快適だった。(8:30)

 下るにつれて軟雪になり、沢の中央の大きなデブリが邪魔になった。最後は双子尾根の末端を左に回り込み、樺平からの若林氏のシュプールと合流し、小日向のコルに少しの登りで出た。(9:15)


5月4日

 猿倉台地BCから小日向のコルを越え、鑓温泉に突きあげる沢を登る。鑓温泉から大出原に上がり、さらに後立山の主稜線まで登る。そこにスキーをデポして、鑓ヶ岳を往復する。主稜線から、大出原をスキーで飛ばし、鑓温泉につかる。

 また沢を滑り降りて、小日向のコルに登り返し、さらに猿倉台地まで滑り降りる。


5月5日

 猿倉台地BCから杓子尾根経由で杓子岳山頂に立ち、主稜線を北上して白馬岳に至る。白馬大雪渓をスキー滑降して猿倉台地のBCに戻る。


1985年4月28日日曜日

富士山

 今年はGWが前後ふたつに分かれてしまう。TSMCの合同山行は後半に行うことになったので、前半は富士山へ行くことにする。

 中央高速バスを使ったが、途中渋滞で河口湖駅に着いたのは昼近くだった。バスを乗り換え、吉田口の5合目には2時にようやく着いた。これから登ると山頂に明るいうちに着くのは難しい。今日はここで泊まることにして、暗くなるまでスキーの練習をする。


 翌朝早起きして、スキーを担いで山頂へ向かう。佐藤小屋から5時間弱で山頂に着いた。Kちゃんは体調が悪く、9合目まで登ったが登頂は諦めた。


 下降はガリガリのアイスバーンだったが、5合目までスキーで下ることができた。


1985年4月21日日曜日

1985年4月13日土曜日

平標山・仙ノ倉山

 沢を滑り、リッジを登り、また沢を滑るという、わたしの好きな山行のパターンだった。とても滑りごたえがあった。

 ただ、久しぶりに本格的に登り、滑ったので、体力が落ちているのを痛感した。