1985年9月9日月曜日

穂高岳屏風岩

1P目。(5:30)下部岩壁の中でも、ひときわ白く磨かれた花崗岩のスラブがある。その下端に、左上する顕著な凹角がある。ここが全16ピッチからなる東壁ルンゼルートのスタート地点になっている。上部から落ちてきた木くずやゴミが散乱し、やや気をそがれる出だしである。しかし、20Mの凹角に取り付くと、もう壁の中に吸い込まれたようになる。フリークライムであっという間にピンの多いビレー・ポイントに着く。ブヨがうるさい。(T)

2P目。左上するルンゼの登攀。左のスラブとルンゼはしっとりと濡れてツルツルだ。右上のハング帯を利用してバック・アンド・フットでと試みるが、足元がツルツル滑る。2、3度上り下りして、体全体をルンゼの中に押し込んで、毛虫のごとくずらしてなんとかよじ登った。(W)


 3P目。大テラスから真上にボルトが連打されているが、これは誤ルートと見破る。フェースをフリーで右上して、小カンテを越えるところからA1になる。単調なボルト・ラダーを三日月レッジの左まで直上し、右にアブミ・トラバースして三日月レッジに立つ。(T)


 4P目。A1のアブミの掛け替え。ボルトのリングが楕円形に伸びているところもところどころあるが、信頼して(?)快適にザイルを伸ばす。天気も体調もいいが、単調だ。(W)


 5P目。狭いレッジでトップを入れ替わり、左上するバンドをA1でカンテのむこうまでたどる。カンテ沿いにやや微妙なフリー(Ⅳ+)で直上し、水平バンドに出る。バンドを左にトラバースし、灌木でビレーする。(T)


 6P目。草付帯に入り、傾斜は緩む。緊張感からは解放されたが、確実に大腿四頭筋を張らせてT3に登った。(W)(8:30)


 7P目。この屏風岩登攀では、消極的になるまいと気を張ってきた。その意欲も、下部岩壁のウォーミングアップで上り調子になる。(8:45)A1と微妙なフリーで、チムニーからフェースに移り、高度感も増す。かぶり気味を右に乗越してビレー・ポイントをとる。そのまま右へルートをとると東稜になる。(W)


 8P目。ビレー・ポイントからかぶったフェースをフリーで越すが、悪く感じられたのは自分の非力のためと痛感させられる。その後のA1も、リングの無い、赤さびの年季の入ったボルトに神経をすり減らされる。こんなに悪いのは、ルートを間違っているからかと思った。しかし、ボルト・ラダーは第1のハングに向って伸びているので、正しいルートに違いない。ランニング・ビレーを小刻みにとりすぎ、使い果たしてしまったので、ハング直下でアブミ・ビレーすることにした。(T)


 9P目。40Mザイルでは足りず、最初のハングの真下でビレーするTをかわして、2Mほどのハングに取り付く。自宅近くの公園の雲梯で、アブミの掛け替え練習をしてきた。それでなんとかなると考えた。


 そして今、なんとかしなければ落ちる。

 最初のピンにアブミをかけて31年のすべての人生をぶら下げた。しかし、その先の張り出した突端にある4㎜ほどのチロッとさがったシュリンゲに次のアブミが届かない。

 片腕の前腕の力がなくなって伸び切ろうとするところ、「かかった!」

 チロッと下がった1本のシュリンゲの他は、すべてぶっち切れている。この1本もいつぶっち切れるか分からない。しかし、そんな不安をいだいている暇も、真下を眺めて横尾谷まで何もさえぎるもののないことに、感心している余裕もない。

 つぎのピンにアブミをかけるのだ。

 心細いシュリンゲの輪は、今軽すぎたかもしれない31年の生きざまをぶら下げて、ギューギュー鳴いているのだ。

 「早く!早く!」気持ちがあせる。

 もう少し上体を伸ばさないと、次のアブミが届かない。

 「苦しいところ、酷なようだけど、フイフイをかけられないですか」と静かにアドバイスしてくれるT。

 しかし、1CM足りない。2CMでも3CMでもない。1CMなのだ。前腕で思い切り上体を引っ張り上げるが届かない。フイフイのシュリンゲがわずかに短い。

「ランニング・ビレーをとってください」

適確にしかも必要なアドバイスをしてくれるT。そして静かに。

前腕がバカになって力が出なくなる。だめだと弱音は吐きたくない。しかし、腕が動かない。

頼るものは自分の他何もない。ブラブラと、チロッと下がったシュリンゲにだらしなくすべてを託すのみ。

再再度、左前腕に体重を委ね、左手をいっぱいに伸ばして、右寄りのフェースのへの出だしのピンにアブミをかけようと...。

「カチャ!」「かかった!」

横尾谷の吸引から一歩前進だ。

リンゴは木から落ちてはならないのだ。徹底的に引力にさからうのだ。

腕の力はまったく抜けてしまった。しかし、意志は上へ上へと向かった。意志が引力に勝ったと思った。

公園の雲梯で軽々と乗越せるほど東壁ルンゼは甘くなかった。

ハング上部はフェースから凹角へと、フリーと人工の登りとなる。ハング越えに続いて微妙なフリーで難しい。しかし確実にザイルを伸ばす。

不安定な姿勢で確保してくれているTの疲労が頭をかすめた。時間がかかりすぎた。

「ビレイカイジョ!」

唇が、ノドがパサパサなのを意識した。(W)


 10P目。フェースから左へトラバースしたあと凹角に入る。壁を見渡す余裕があれば、ルートファインディングはさほど困難ではない。(T)


 11P目。『日本の岩場』(RCCⅡ)のルート図では、このピッチはⅢとあるが、ピッチの切り方が違わなければⅣ+はあると思われた。左上の草付帯に向って凹角をA1で抜けてへの字ハング下のテラスに出た。平らで安定した4、5人立てるテラスだ。(W)


 12P目。への字ハングは完全なルーフにはなっていないが、ここまでの何ピッチかの厳しいムーブの後には、なかなか手強い箇所になりはてる。アブミ・トラバース気味に右上していくと、壁がおおいかぶさってくる。もはやフイフイが大事なお友達の1人という情けない状況だが、すでに両腕はケイレンしていることでもあるので、この際大活躍していただくことにする。ハング出口で遠いハーケンをつかんでフェースへ移りたいところだが、足などは宙を蹴ってわなないてしまう。あれやこれややってるうちにフェースに乗れて、あとは、草付まじりをフリーとA1で40Mいっぱいにザイルを伸ばす。(T)


 13P目。小さな草付のレッジからトラバースして灌木帯に入り直上する。太く確実な根っこに思いっきりつかまって階段状をかみしめて登った。(15:10)


 終了点から明瞭な踏み跡をたどり(ゴミ多く不快)、屏風の頭へ向かう。途中色づいたナナカマドの赤い実が、まだ夏のほてり止まぬわたしたちに、秋の訪れをさりげなく知らせてくれた。季節はあからさまに押し寄せてくるのではなく、こうして兆すものなのだろう。屏風の頭から屏風の耳へと向かい、耳直下から右下の踏み跡をひろってルンゼを下り、涸沢街道に出た。

屏風岩で