1977年12月27日火曜日

仙丈岳

 残念だったのは天候の具合と、計画の甘さだった。Mさんの友人であまり登山の経験がない人が同行したので仕方がなかった。

12月27日

 Mさんたちと伊那北で待ち合わせ、Mさんの車で戸台へ行き、車を止め、そこ幕営する。


12月28日

 甲斐駒の峰から上がる雪煙を見ながら、凍てついた河原歩きをする。Mさんはいつもより雪が多いという。丹渓小屋からの尾根歩きになると、それまでの足の痛みがなくなった。タンネの林が美しく新雪に輝いている。昼食をとりながら仙丈岳を望見する。そこから1時間ほどで大平小屋に着いた。休まずに北沢峠まで登る。きれいな林の写真を撮る。


12月29日

 天気はまずまずだが、あまり寒くなく、風の向きが北寄りではないので、これから天候は下り坂だろう。冬山の未経験者であるMさんの知人が同行しているので、今日は仙丈岳へいき、明日甲斐駒ヶ岳に登ることにする。


 北沢峠から仙丈岳へはまず尾根の左側をからむように登る。尾根上に出たあたりからは北アルプスがよく見えた。近くの北岳はもちろん、遠くの富士山も見える。しかし、上空にはおかしな雲がちらちらし、風の向きがまた変わった。


 森林限界で小休止して気を引き締める。吹きさらしの稜線に出ると、富士山ほどではないが、風が強い。立ったまま軽い食事をして、防風の身なりを整えて頂上に向かう。頂上の手前のトラバースが少し注意のいるところだが、あとは淡々としたのぼりだった。


 頂上からは申し分のない360度の大展望だった。これまでにないスケールの大きい、痛快な眺望だった。


12月30日

 Aさんと一緒だったら、昨日の午後、仙丈岳から下山してきた足で甲斐駒ケ岳に登ったかもしれない。時間はあったし、天候は大丈夫だっただろうし、翌日は悪天になる可能性が高かったからだ。


 Mさんは、今日は甲斐駒ヶ岳には登らないで下山すると決めた。どんな決定であってもリーダーの決めたことには従わなくてはいけない。


1977年12月22日木曜日

五竜とおみ・八方尾根スキー場 1977年12月22日~12月25日

 前回は雪がなくろくに滑れなかったので、遅れを取り戻すために、ガンガンと滑る。特にSと飯森ゲレンデで良く滑った。今シーズンはスキーをブリザードのファイヤーバード(200㎝)に変えたので、これに合うターンを探した。競技スキー用の板なので、やはりステップターンということになった。板が硬く、揃えて曲がることが難しいからだ。しかし、ステップしながら曲がるのも難しい。

12月24日

 八方尾根に滑りに行った。高度差のある大きな斜面を気持ちよく滑ったあと、誰かがポールをやったあとのえぐれた斜面を滑った。不得手な右ターンで右側のスキーの先端が雪に刺さり、刺さったところを支点にして体が1回転した。硬いと感じていたスキー板だったが、先端から30㎝ほどのところで少し上方向に曲がってしまった。勢い込んで買ったレース用のスキー板なのに、シーズン初めで壊してしまい情けなかった。わたしはやけになって、あとは石ころの見えたところでも構わず滑って下った。


 スキーは左右交互にターンして滑るのであるから、どちらかのターンが苦手なのは好ましくない。この苦手をどのように克服したらいいだろうか。


1977年12月16日金曜日

五竜とおみスキー場 1977年12月16日~12月20日

  満を持してシーズン初すべり。ところが雪なしで、17日は神城山荘に停滞となる。新しくクラブを作って、第一回目のスキー行がこれでは、前途多難を思わせる。

 18日は少し雪が降り、なんとか足慣らしぐらいはできるようになる。しかし、大勢のスキーヤーが限られた斜面に集中して滑るため、薄く積もった雪がすぐにはがれてしまう。とても残念。


1977年11月21日月曜日

富士山

ヨーロッパアルプス登山に備えてMさんと冬富士へ行った。

11月22日
 猛烈な地吹雪の中を富士山の雪上訓練に向かう。昨日は月明かりの中をスバルラインを登ってきた。それからテントを張って寝たので、ゆっくりできた。その分元気が出るというものだ。

 しかし、雪が少ないのには驚いてしまう。5合目の吉田大沢まで出て山頂を見る。実に9合目あたりまでまっ茶色の地肌が見えている。だから、雪上訓練をやるには、雪のある9合目まで登らなければならないということである。

 足元を見ながら登っていると、雪と砂利がまじった突風が吹きつけてきて二三度バランスを崩しそうになる。口や鼻のまわりは砂だらけになってしまった。

 夏道を8合5勺まで登り、軽食をとったが、強風で落ち着かない。食事もそこそこに吉田大沢へとトラバースする。歩行、ザイルワーク、滑落停止の訓練をひと通り終えて、5合目のテントに下る。ポリタンクに入れておいた水はカチンコチンに凍っていた。


11月23日

 快晴に恵まれて、頂上アタックの気分が盛り上がる。5合目で日の出を迎え、山頂へ。昨日のように強風が吹き荒れていないのがいい。8合5勺でアイゼンを装着し、須走口の登山道までトラバースして、テルモスの茶を飲む。相模灘が金色に輝き、その真っ只中に大島が浮かんでいる。広大な雪面をジグザグと登り、山頂の赤鳥居を目指す。途中で軽く食事をして、一気に山頂まで登った。


 巨大な噴火口を隔ててみる測候所と剣ヶ峰の姿は、2か月前と変わらない。氷点下20度くらいだろうか。身が引き締まるようで気持ちがいい。だが、止まっていると寒くなってきたので下山する。8合5勺からザクザクの砂道を駆け下った。

 

1977年10月2日日曜日

勘七ノ沢

 わたし自身はヨーロッパアルプス登山のトレーニングとして、磯工山岳部の後輩、S,I,Oの三人と行った楽な山行だった。前回Aさんに指摘された点に注意して登った。

 

1977年9月23日金曜日

滝谷

 磯工山岳部の顧問だったAさんにこの山行に誘われた。来年のヨーロッパアルプスはMさんと行くのだが、トレーニングとしてできることはすべてやっておきたかった。上高地から涸沢を経由し、ナナカマドが赤く色づいた北穂南稜を登り北穂小屋に入る。小屋は連休で大混雑であった。

9月24日
 今日は第4尾根と第2尾根P2フランケを登る。C沢左俣の浮石が積み重なった上をガラガラと下っていくと、はるか下方の緑のスノーコルに数パーティーが見えた。今日は天気が良いので、第4尾根を登る順番待ちがもうできているのだ。二俣からコル上部に直接上がって順番待ちの列に加わる。

 登りはじめの部分は、岩場が大きく崩落した後で、ひんぱんに落石があった。AさんはここをAカンテと勘違いした。A、B、Cの各カンテは、ルートにハーケンが乱打されていて、苦も無く登った。先行パーティーがのろいので、1Pごとに長い休憩をとらなくてはならない。待っている間に第3尾根を登っているパーティーの様子を見ていると、どうも下部のルンゼで落石があって、「気をつけろ」、とかもめているようだ。


 ツルムから下降し、そのあと3P登って登攀を終了する。Dカンテはフリクションのきく硬い靴で登ったら面白かったのではないかと思う。グレポンは眺めた感じでは全体がとても脆い岩でできているようだった。左方のハングに1パーティーが取り付いているのみだった。


 北穂小屋で昼飯を食べたあと、B沢を下ってP2フランケの取り付きに向かう。途中ガレ場でAさんが便意を催したので、わたしも落石をよけつつした。クラック尾根をまいて、第一尾根の前を横切ってバンドをトラバースし、P2フランケの右(早大)ルート取り付きに至る。


 途中見上げた左(芝工大)ルートはいかにもつまらなそうだったが、右ルートは素晴らしい。取り付きからアブミを使う。わたしは初めて使うアブミという道具を意気揚々と架け替えては足をのせ、体重をかけて登った。そうして快調に登っていたのだが、アブミにかけた足に体重をグイとかけたところ、靴がクラックにはまってしまい、抜けなくなってしまった。あわてて足をこじって引き抜こうと力を入れたが、容易には抜けない。仕方なくハンマーで靴を叩いたら抜けたが、その拍子に靴のゴム底が半分ほど裂けてしまった。


 そのあとは、ベタベタと連打されたハーケンやボルトにつかまって登った。スタンスやホールドの細かいところがあったが、それほど難しくはなかった。十分アブミを使っておいて言うのもなんだが、これくらいの難度の壁ならフリークライミングで挑戦したほうが面白いのではないかと思った。


9月25日

 今日はドーム西壁雲表ルートを登る。


 わたしは取り付き地点で激怒していた。Aさんはトップで登攀を楽しんでいるからいい。わたしはかれこれ1時間ぐらい、こうして同じ姿勢で寒い中をジッヘルしているのだから頭にくる。


 Aさんがようやくようやく40mいっぱいの1P目を登り切ってわたしがセカンドで登る番になった。すると、さっきまでのイライラはもうどうでもよくなった。ヘラヘラ冗談を言いながら上のバンドに出たとき気分が悪くなり吐いた。ここからは、それまでより調子が良くなった。我妻さんがアブミを使って登ったクラックをわたしはフリーで登ることができた。


 終了点でAさんから、「ジッヘルしている時はパートナーの命を預かっていることを忘れてはいけない」、と注意された。


 そのルンぜから右のルンゼにトラバースするときは高度感があって緊張した。そのうえで小ハングを乗越してドームの上に出た。けだるかった。


 正直な印象としては、滝谷はもっと雄大かと思った。

 

1977年9月6日火曜日

富士山

 ヨーロッパアルプスの峰々は標高4,000mを越える。高度に慣れておくには日本国内では富士山しかない。ちょうど富士山の麓で自動車免許の合宿教習をうけているところだったので、はじめてこの山に登ってみることにした。
 教習所から未明にバイクでスバルラインに向かう。料金所には誰もいないので、止まらずに通過する。照明灯のない暗い道路をひたすら登っていく。道の傾度が結構あるらしく、バイクのエンジンがうなった。
 5合目に着いたが、まだ日の出まえなので、あたりの様子が分からない。スバルラインの終点とおぼしきところにバイクを停め、登山靴を履いて登る準備をする。
 ひと気のない道をどんどん登っていくとやがて朝日が昇ってきたが、そのころにはもうだいぶ上に来ていた。最後は階段状の道を登って行くと山頂に着いた。山頂のお鉢をぐるりと回り、吉田大沢の砂の道を思い切り駆け下った。

1977年7月25日月曜日

奥穂高岳

7月25日

 体育局の菅平出張を終えて、岳沢へ向かう。岳沢ヒュッテ近くのテント場でMさんと合流する。


7月26日

 今日は奥穂高岳の南稜と前穂高岳の3峰フェースを登る。


 ヒュッテから岳沢をつめていくと、沢は扇沢と滝沢に分岐する。扇沢にルートを取り、雪渓を登って行く。やがて雪渓が分断し、大きなチョックストーンが沢をふさぐようにひっかかったところに出た。まっすぐ行かずに、右から高巻く。高巻き後、沢に降りずに、そのまま草付を急登する。ハイ松帯をよじ登り、左にトラバースすると、登りやすそうな草付に出た。


 そこから南稜に取り付くと、道らしきものがあって、なんの苦労もせずにトリコニイを越える。3番目のピークは右をパスする。あとは1か所狭い岩稜があっただけだった。その上はガラガラとした広い尾根になって、吊尾根の縦走路に飛び出した。


 吊尾根の最低鞍部から前穂高岳の3峰フェース基部に向けてトラバースする。左右に1本ずつあるルートのうち、右側のルートをとる。


 左上に向かうチムニーを登り、つぎに右のフェースをよじ登る。午前中に登った南稜の脆い岩に比べると、ここの岩は堅い岩に感じられる。やがて岩場の傾斜が落ちて来たので、お互いの体に巻きつけていたザイルをはずして、前穂高岳の本峰へと向かう。


7月27日

 今日は奥穂高岳のコブ尾根とジャンダルムの飛騨尾根を登る。


 きのうは南稜下部の草付の登りで苦労したので、今日はルンゼをなるべく高い所までつめることをMさんと出発前に申し合わせる。


 岳沢ヒュッテの前を通り過ぎ、コブ沢に入ると、すぐに雪渓になる。そのまま沢を詰めていくと、雪渓の上端に着く。シュルンドを避けて右側の岩に移り、沢をさらにつめる。今回はあまり高くまで沢をつめすぎたようだ。人があまり通った様子のないルンゼになって浮石が多い。コブ1峰の下で休む。


 1峰の登攀はさしたることもなし。1峰から2峰へはアップザイレンとなる。2峰へのガラガラした登りを済ませると、きのう登った南稜と3峰フェースが良く見える。縦走路へは尾根を直登すればよいのだが、コブ尾根の頭は脆そうなので、左から大きく巻く。


 コブ尾根は、つまらない登攀だったので、飛騨尾根はおもしろい登攀ができることを期待してαルンゼを下降する。飛騨尾根のT3から登ることを目標とした。かなり下ったなと思った地点から、右側の飛騨尾根に向けてトラバースする。


 飛騨尾根の最初の数ピッチは岩が非常に脆かった。そして、霧の晴れ間に左側を見ると、わたしたちが登っているのはT2のB尾根であることがわかった。登って行くとT3上の凹角に出て、急に岩がしっかりとしだした。T2からT1は岩峰で、楽しいクライミングができた。T1からジャンダルムまではコンテで行き終了した。


1977年7月6日水曜日

ツヅラ岩

 昨年引っ越したばかりの下宿先が区画整理のため立ち退きになり、その補償金として20万円が貰えることになった。わたしはそれまで、自分が自由に使える金として、20万円もの大金を手にしたことは無かった。これはついているぞ、と思った。と同時に、このような幸運はわたしの人生で二度と無いかもしれないのだから、この金は絶対無駄に使ってはいけない、と思った。

 それでよくよく考えた結果、この金を飛行機代にしてヨーロッパアルプスに登山に行こうと思った。わたしが高校生だった時、山岳部の顧問だったM先生が、「いつかヨーロッパアルプスに行ってみたい」と言っていた。ヨーロッパアルプスはそんなに良い所なのか、と思った。


 わたしはここまで5回ほど夏に北アルプスの槍穂高連峰で山登りを楽しんできた。その「北アルプス」と同じように、あるいはそれ以上に「ヨーロッパアルプス」が素晴らしい所であるなら、ぜひそこに行って登山がしてみたいと思った。


 それで1976年の秋に磯工祭へ行ったときにMさんを訪ね、「来年の夏にヨーロッパへ行きませんか」、と申し出た。Mさんは驚いたが、行きたいのはやまやまのようだった。それで、わたし自身の希望は1977年の夏に行くことだと話した。しかし、Mさんはいろいろな都合で来年は無理だが、再来年、1978年の夏であれば行けるという。その夏わたしは4年生で、就職活動の時期なのだが、なんとかなるだろうと自分で勝手に決め、1978年の夏に行くことにした。


 Mさんとは今後打合せと準備山行を重ねることに決め、準備山行の第1回として奥多摩のツヅラ岩にロッククライミングの練習に行くことになった。


 武蔵五日市駅でMさんと待ち合わせる。千足にMさんは車、わたしはバイクを置く。ツヅラ岩へは「大岳山」というルート標識をたどり、登っていく。蒸し暑くて、たっぷり汗をかく。Mさんはかったるそう。1時間半ぐらいでツヅラ岩に着いた。


 1本目は左寄りのルートを登る。へんてこりんなルートで、途中に狭いトンネルがあった。テラスから上の部分のクライミングが気持ちが良い。Mさんはこの1本でもう十分という感じだったが、わたしはもっと登りたかったので、つき合ってもらう。


 2本目は岩の右下から左上するルートをトップで登ったが、途中でMさんから「やめろ」の声が出て、右へ逃げる。カラビナを回収しながらMさんがセカンドで登ってくる。


 双方、今日は所用があるため、午後1時にツヅラ岩から下山し、千足で別れた。

ツヅラ岩で


1977年5月5日木曜日

穂高連峰

5月5日

 五竜とおみで一緒にスキーをした連中と松本で別れる。天候は、いつ雨が降り出してもおかしくないような感じだ。


 上高地からは吊尾根も見えず、観光客は残念そうである。神城山荘から持ってきた沢山の食料とスキー道具がかなりの重量だった。それを背負って歩き出すと、雨が本降りになってきた。道が凍結していて1度転倒したが、横尾まで1度も休まずに2時間で着いた。横尾山荘に素泊まりする。握り飯がすごくうまかった。夜は雨がざあざあと降っていて、明日の天気も絶望のように思えた。


5月6日

 朝目覚めた時、部屋の中が暗かった。外に出てみると快晴であった。これはぐずぐずしていられない、とあっという間に荷物をまとめ出発した。快調に歩き続け、1時間強で本谷橋に着く。そこからはデブリをよけながら涸沢の沢通しに涸沢カールの底まで1本道である。夏道よりもずいぶん楽な気がした。


白出コルからの滑降

 涸沢ヒュッテに着くと、すぐに荷物を放り出して、まずはザイテングラードを穂高小屋目指して登った。まるっきりゲレンデスキーの服装で、スキー靴にアイゼンをつけてパカパカと登った。

前穂高岳 1977年5月6日

 白出コルに着き穂高小屋の前にスキーをデポして涸沢岳まで行ってみる。涸沢には夏にたびたび来ているが、こんなに素晴らしい天気に恵まれたことはなかった。

白出しのコルで 1977年5月6日
 写真を撮りながら白出コルへ降りていくと、すれ違った登山者はスキーウェアのわたしを見て驚いていた。


 白出コルからカールの底へ滑り下りる準備をしていた時、雪に突き刺していたわたしのスキーが倒れて涸沢側に滑り落ちて行った。あわててスキーを追いかけて行ったが間に合わず、頭からもんどりうって雪の斜面にひっくり返った。起き上がってスキーの行方を見ると、50mほど下方で腐った雪に刺さり止まっていた。


 ほっとしてスキーを回収して、もう一度白出コルで態勢を整えて、いよいよ滑降だ。まず、ザイテングラードを南から北へ向かって横切り、涸沢岳の下方の斜面に出る。そこから涸沢ヒュッテめがけてスラロームで下る、と大まかに予定をたてて滑りだす。


 はじめは調子が良かったが、そのうちに突然雪質が変化して転倒してしまった。雪面を50mほど流されたが何とか自力で停止する。ザイテングラードにいた登山者がびっくりしてこちらを見ている。再度態勢を立て直し、今度は緊張しないよう軽口をたたきながらカールの底まで無事に下った。

涸沢ヒュッテから見上げたザイテングラード
1977年5月6日

5月7日

 昨夜は雪が降った。硬い雪の上に新雪がのったあまり良くない状態である。予定では5、6のコルから涸沢ヒュッテまで滑降しようと思っていた。好ましい条件ではないが、大丈夫だろうと判断して出発する。


 昨日まであったであろうトレースは、昨夜の降雪でまったく消えている。コルへの最短距離となる雪面に新たにトレースをつけていく。深いところで50㎝ほどの新雪である。


5・6のコルからの滑降

 5・6のコルからはカールの底が昨日より暗く見えた。昨日は急な雪質の変化に対応できず1回転倒したが、今日は新雪滑降なのでそのようなことはない。ただ、斜面には木も生えていなければ岩も突き出ていないので、滑っていて自分がどれくらいのスピードなのか分からない。スピードの出し過ぎでバランスを崩さないよう注意して滑降した。


 涸沢ヒュッテでデポしておいた荷物を背負い、さらに本谷橋まで愉快な気持ちで一気に滑った。


1977年5月2日月曜日

五竜とおみスキー場 1977年5月2日~5月4日

 もうすっかり春で、雪はグザグザになり、技術的にどうのこうのというようなスキー行ではなかった。それにしてもわたしの滑りは内足に乗って内傾し、スキーがそろってしまっているのが分かる。膝の動きが硬いので、上体を振り込む動作で回転のきっかけを作ろうとしているのだろう。このような滑りは、平らな緩斜面なら良いが、不整地の急斜面ではハチャメチャになる。本人は少し上手くなったつもりで得意だが、それが余計に技術の上達を妨げている。 


1977年4月23日土曜日

谷川岳

 今年の2月に行った谷川岳スキー登山の素晴らしさが忘れられず、またやって来た。

 例によって、上野発22時17分の長岡行に乗る。土合駅で下車し、長い階段を小走りに登る。これから駅の待合室で仮眠するのだが、早くいかないと狭い待合室は寝るスペースがなくなる。


 翌朝は6時半ごろ駅を歩いて出発する。マチガ沢から厳剛新道を経て西黒尾根に取り付く。天気はまあまあで、ルートは踏み跡も明瞭である。快調に登って谷川岳山頂に着く。2月は一面真っ白だったが、今は稜線上にハイ松がずいぶん出ている。


 天気が悪くなってきて、一ノ倉岳の手前あたりからポツポツと降ってきた。ハイ松と残雪の間に入って昼食ととる。しかし天気のことが気になっておいしくない。気を取り直して出発し、登りはじめると一ノ倉岳の頂上はすぐだった。


 2人連れが芝倉沢を滑り下っていった。わたしはまだ稜線伝いに滑っていく。茂倉岳への登り返しではいったんスキーを担ぐ。このあたりでは、昨夜の睡眠不足がたたって眠かった。茂倉岳からまたスキーで少し下ったところに気持ちのよさそうな熊笹の原があったので、そこで少しうたた寝をした。

茂倉岳の下で 1977年4月23日

 ふたたび歩き出し、蓬峠に着いた頃には雲はきれいに晴れあがっていた。稜線をわたる風に、熊笹が気持ち良さそうに波打っている。


 蓬沢を振り子のように滑り下り、傾斜が落ちてからもさらに雪が無くなるぎりぎりのところまで滑る。スキーをはずしたあたりにはフキノトウが出ていた。スキーを担いて歩き出すと、どっと疲れが出て、土樽駅までが遠く感じられた。


1977年3月19日土曜日

五竜とおみスキー場 1977年3月19日~3月21日

  このスキー行は今(1980年1月20日)思い出そうとしても、ぜんぜん記憶が無い。


1977年2月25日金曜日

野沢温泉・戸狩温泉スキー場 1977年2月25日~2月27日

 早稲田大学体育局のスキー実技が毎年野沢温泉で行われる。そこに体育局のTさんが出張していたので、遊びに行った。

 25、26日は野沢温泉スキー場の中を滑りまくった。ここのシュナイダーコースというコブだらけのバーンで、わたしはコブを滑る1つのコツをつかむことができた。それは基本的なことであるが、コブをひとつずつなめるように下る、ということである。これによって、スキーを十分にコントロールすることが可能になった。


 野沢温泉で2日滑ったあと、すぐ近くの戸狩スキー場へ行った。ここで神奈川県スキー協議会のスラローム大会があったからである。わたしの結果は芳しくなかった。緊張してしまって後傾癖で転倒してしまった。外足に乗ることがぜんぜんできず、不満が残った。一緒に出場したSは完走して、まあまあの記録だった。Sよりわたしのほうが技術は上だと思うのだが。

Sの滑り


戸狩スキー場で 1977年2月27日



1977年2月19日土曜日

谷川岳

山とスキーへの葛藤

 わたしはこの頃1つのやむに止まれない気持ちを抱いていた。

 それはわたしの目指す山登りに共感してくれるひとが、わたしの周りにはいない、という実感に端を発していた。なんとか同じ山登り、あるいはスキーを目指す人たちとグループを作れないものだろうかと焦っていた。


 そうして考えたあげく、まず早稲田大学の中でそういったグループを立ち上げてみようと思った。わたし自身の中ではこのアイディアはたいそう盛り上がった。新たに山スキーのサークルを作るので会員を募集します、と掲示するポスターまで描いた。


 しかし、冷静に考えてみると、自分は毎日朝9時から午後4時まで働き、その後夜9時まで勉強している身である。少なくとも平日にサークル活動ができる時間的余裕はほとんどない。だから、サークルを立ち上げても、自分は活動に参加するのは困難である。そう考え、サークルを作るアイディアはあきらめた。


 わたしはまたこの頃、登山とスキーの兼用靴を買った。西独のハンスワグナー社製の2重靴で、インナーブーツの内側に羊毛が貼ってある素晴らしいものであった。この靴と、マーカーのツアー用ビンディングを組み合わせて、ともかく山スキーに出かけようと思った。


厳冬の谷川岳スキー単独行

 上野22時17分発の上越線で水上駅へ行き、待合室で仮眠する。ついで早朝の列車で度合へ行き、凍った道路を歩いて天神平行きのロープウェーに乗る。天神平スキー場についたら、天神峠まで行くリフトが動き出すまでスキー練習をする。


 ハンワグの兼用靴は足首が柔らかいので、スキー滑降の際に前傾は楽だが、いったん後傾になると態勢を元に戻すのが難しい。それで、いつも後継にならないよう注意してすべるようにした。


 リフトに乗って峠へ行き、そこから天神尾根をたどる。大斜面の下までは比較的狭い尾根で、2、3回転ぶ。天気がとても良く、雪面にシールを効かせて気持ち良く登った。斜面を半分ほど登ったところで山ヤがキャッキャと騒ぎながら降りてくる。そのうちの1人に写真を撮ってもらった。


 峠からはとても大きな斜面に見えたが、登ってみると大したことは無かった。たどり着いた山頂には登山者の姿は少なく、風もなく、眺めが非常に良い。はじめてのスキー登山がこんなに上手くいって、わたしはついていると思った。


 わたしは間食も非常食も用意してこなかったが、腹がすいていた。1人の登山者が美味しそうなものをいろいろ持っていたので、少し頂いた。


 さて帰りは大斜面の滑降である。気持ちよく飛ばしたが、ところどころ雪質が極端に変化している場所があって、何回か転倒する。風が強い時があるのだと思った。大斜面の下部に近づいたあたりで足の筋肉がつりそうになった。


 大斜面が終わり、峠まで尾根を渡る部分では、雪質が柔らかくなっていてスキー歩行に苦労した。スキー場のロッジに着いたときは腹がペコペコになっていたが、ここでは思う存分に食事ができた。


 リフトの運転終了時間までゲレンデでたっぷり滑り、最後は田尻沢を滑降して締めくくった。


 自分がやりたいことができた気がして楽しかった。

 

1977年2月11日金曜日

五竜とおみスキー場 1977年2月11日~2月13日

 神奈川県スキー協議会に所属する緑と星スキー山岳会の行事に同行した。A先生とわたしが行事の裏方として、神城山荘の小屋番をした。

 スキーは、朝一番でチャンピオンコースを滑ってくるのと、昼にポール練習をやる、というパターンだった。ポール練習ではめちゃくちゃに転倒した。スキーをもっと体系的に習っていれば、もう少し上達できたのではないかと思う。この頃はガンガン滑る一点張りだった。


1977年1月8日土曜日

五竜とおみスキー場 1976年12月24日~1977年1月8日

 長期間滞在した割には、印象の薄いスキー行だった。おそらく神城山荘の小屋番生活に追いまくられていて「スキーどころではない」、といったふうだったのかもしれない。