1982年12月29日水曜日

乗鞍岳

 これはTSMCの合同山行の年末年始版である。この時期の合同ではTSMCは会の創立以来乗鞍岳に入るのを常としている。乗鞍岳スキー場から入山し、位ヶ原にベースキャンプを置いて、山頂を往復するのが通例になっている。TSMCの新人は必ず1度は年末年始の乗鞍岳を経験するのが会の不文律になっている。そこで行ってみた。

 TSMCに入会してから、山への往復の車中で飲んだくれる習慣は、どうもこの頃からついたようだ。前日に出発できるメンバー(K、O、Y、そしてわたし)で新宿を昼の鈍行でたった。すぐに酒盛りを始めたので、甲府に着く頃にはみんなかなり酔った。余計なことに甲府で乗り換えなので、駅で日本酒の1升瓶を買い込んで、松本行きの鈍行に乗り込んだ。松本に着く頃にはみんなすっかり出来上がってしまった。それでもこりずに「小波」という焼肉屋へ行って、さらに生ビール、チューハイを飲んで、もうベロベロになってしまった。その夜はYの知り合いのHさんという方の松本市内の家に泊めていただいた。翌早朝タクシーで乗鞍高原へ向かったが、ひどい二日酔いであった。


 乗鞍高原スキー場のリフトの終点から樹林帯を登り、位ヶ原の小屋のすぐ脇の樹林帯にBCを置いた。翌日はBCから乗鞍岳の山頂を往復し、元日には北稜というミックスルートを登って山頂に至った。両日とも天候にめぐまれた。


 ひとつ心残りなアクシデントは、夜Kと小さなテントに泊まった時、お湯をひっくりかえしてKにヤケドを負わしてしまったことである。KはAさんに付き添われて先に下山することになった。すまない気持ちでいっぱいだった。


 下山日も天気が良く、林道をワイワイいいながら滑って下るのは楽しかった。そして鈴蘭小屋の温泉に入って飲んだビールの旨かったこと。製造年月日は去年の夏のものだったが、そんなことは少ししか気にならなかった。


 乗鞍岳のように、TSMCが知りつくしたフィールドというのは得がたい良さがあると思った。

 

1982年12月23日木曜日

1982年12月23日~25日 志賀高原・笠ヶ岳 職員組合

 ここでもまた雪不足だった。山スキーと靴を買ったので、その具合を見てみようと持ってきたのだが。やっぱりゲレンデで山スキーは、滑っていて楽しくない。スキーのスケールが小さくなってしまう。

 このスキー場には初めてきたが、斜面が大人しいので、初心者が始めたり、自分の技術を点検したりするのには良い所だと思う。

 

1982年12月16日木曜日

1982年12月16日~18日 谷川岳・天神平 職員同期

 シーズンインしたばかりで、勢い込んで出かけたのだが、ここ数年にない雪不足で、ぜんぜん思うように滑れない。緩斜面ばかりなので基本の練習はできたが、これといった収穫はなかった。

 

1982年11月20日土曜日

富士山

 今年の無雪期は、岩登り、特にフリークライミングを集中的にやった。しかし、もうひとつ満足感がなかった。パートナーとしっくりいかなかったことも、その原因のひとつである
 そのような中で、この冬富士登山は、ひとつの転機になった。この山行で、Yが足首を捻挫し、それをカバーするためにわたしは奮闘した。そのことによって、Hさんに好感を持たれた。こんな小さなことでも、まだTSMCにいる気を起こさせるものである。
 この頃わたしはTSMCに入会したことを後悔し、もっと山スキーをがんがんやる会に入り直そうと思っていた。会の中でリーダーシップ争いがあって、自分もそれに巻き込まれた。そして古参の会員から不本意な批判を受けたのである。
 RSSAという山スキーの会があって、活動が活発なようだ。それでその会の代表に電話をして何度か会い、RSSAの様子を聞いてみた。ところがどうも様子がおかしい。代表以外に会員の影がどこにも見えないのである。それで、この会に過去かかわっていた人に聞いてみると、RSSAという会がすでに有名無実であることが分かった。
 そのようなことを知って、会の所属を変える気持ちはいっぺんに萎えた。

 

1982年11月13日土曜日

鷹取山

  手帳には、ダイレクトルート ワンテンション、戸田ハング 3回目でクリヤとある。


1982年10月16日土曜日

城ヶ崎

  都岳連主催のフリークライミング講習会である。当初は小川山が予定されていたが、城ケ崎に変更になった。それで、わたしとしては、今シーズン3回目の城ケ崎行となった。講師は、城ケ崎の岩場を開拓してきた檜谷清、保科雅則などのイカロスⅡのメンバーである。

10月16日

 ファミリーエリアでジャミングの手ほどきをうける。トップロープで、フィンガーからショルダーくらいまでのクラックをジャミングで登る練習をした。そのあと、おたつ磯にまわり、おたつクラックでリードの練習をする。最後にボルダリングで遊んでおしまい。夜はへんてこな民宿に泊めさせられた。


ベビークラック 5.7、シスタークラック 5.8、おたつクラック 5.8 

(いずれもトップロープで登攀)


10月17日

 ファミリーエリアのいろいろなルートをトップロープで登る。トップクライマーに見られながら登るので、いやがうえにも力が入る。


 この講習会に参加して、ひと皮むけた気がした。

アンクルクラック 5.9、ファザークラック 5.10、ブラザークラック 5.9

(いずれもトップロープで登攀)


1982年10月3日日曜日

城ヶ崎

 第7回フリークライム・コンペである。

 場所はプールロックで、ここには今年の梅雨時に黒部川上ノ廊下遡行に備えたトレーニングとしてはじめて来た。だからわたしには有利なので、コンペの場所としては相応しくない。


 ジェードル状のクラック(10m、Ⅳ)と小ハング(8m、Ⅴ)の2本の合計タイムで競った。小ハングを登れない会員が多かった。フリークライミングが好きで、日ごろからトレーニングしている会員には簡単に登れるルートでも、フリークライミングを経験したことのない会員には、とても完登するのが困難、ということになってしまう。


 会員の間で、トレーニングをしている者とそうでない者の力の差が、コンペではっきりと出る。


1982年9月23日木曜日

滝谷(中止)

  忘れられない山行である。Oと滝谷へ行こうと思っていったのだが、途中で気が進まなくなり、上高地でキャンプをして戻ってきたのである。苦い思い出である。


1982年9月11日土曜日

ツヅラ岩

 この山行も、なんだか記憶が曖昧である。きっと何かを経験しているはずなのに。Oと行って人工登攀を主体に練習したような気もする。


1982年9月5日日曜日

鷹取山

 ボルダリングをやりに行った模様。2、3か所はじめて登れたルートがあった。誰と行ったのかも定かでない。


1982年8月21日土曜日

中川川悪沢

 TSMCには、コンペなるものがある。つまりは競技会で、わたしの好きな分野である。水泳、マラソン、フリークライム、スキーの4種目である。その水泳コンペが8月21日に予定され、その翌日は丹沢に沢登りに行こうということになった。

 わたしは、どのような訳か、自己顕示欲が他人より旺盛なようである。そのため、集団の中で自分を際立たせることができないと居心地が悪くなる。そして、落ち込んでその集団から離脱していくか、あるいは、自分を集団の中で目立たせようと必要以上に無理をしてしまう。どちらになるかはその時次第である。


 この悪沢(この名前も良くない)の沢登りでわたしは滝から滑落した。この事故は直接的にはわたしの力量不足によるものだが、力量を越えた試みをした原因はわたしの自己顕示欲の強さにあったと思う。TSMCに入会して半年ほどたち、会員の山登りの実力が大体分かった。そうすると、わたしは自分の実力が会のトップレベルであることを、会員に認めさせたくなった。新入会員の言うことに耳を貸さない古参会員に自分の存在をアピールしたかった。この沢登りに先立つ水泳コンペでは、わたしはあまりいい結果を出すことができなかった。そのことも手伝ってわたしは沢登りでは同行した会員に良い所を見せたい、という気持ちになっていた。数週間前に黒部川上の廊下をリードしたことが自信過剰の原因になっていたかもしれない。


 箒沢の先のテント場に21日の夜遅くにつき、それから夜が更けるまで酒盛りをした。それで沢登りに行く朝は二日酔いで頭が朦朧とし、支度するのに時間がかかった。天候はメンバーの顔つきと同様に、まったくさえない。


 目指す悪沢に入っていくとすぐにF2が現れた。誰がリードするか、という最低限の相談もしないまま、わたしはリードするつもりでさっさとザイルを腰に巻いた。自分のこれまでの経験から、この滝はリードできると直感的に判断した。


 Oにビレーを頼み、まず滝の右壁を左にトラバース気味に登る。滝壺から6、7メートルの登ったところであまり効いてなさそうなハーケンにカラビナをかけザイルを通した。さらに滝身へと左上していき、水流が間近になったところで、岩が脆くて危ないと感じた。手が届くところに花崗岩に似た色の岩があり、ホールドになりそうだった。しかしその岩は滝に密着しておらず浮いていた。それを掴んだわたしはバランスを崩し滝壺に滑落した。登る途中で支点を取ってあったのだが、支点から数メートル進んでいたことと突然の滑落だったことで、Oはわたしの落下を止められず、わたしは滝壺まで一直線に落ちた。


 わたしは一瞬なにが起こったのかよく理解できなかった。腰ぐらいの深さの滝壺にはまっていた。わたしは、みっともない、という気がした。すぐに立ち上がり、登攀開始地点に戻った。見ていた他の会員は、わたしが何か所か擦りむいたところから血を流していたので、気味が悪かったようだ。


 わたしは参っておらず、やっちゃったー、くらいのことを言って、再度トライした。さきほど滑落した箇所もなんということもなく通過し、滝身を左にトラバースして、左壁を直上した。登っている時は夢中だったが、滝の上に着くと、緊張でからだがこわばっていた。

 沢の上部ではルートを見失い、ヤブ漕ぎになった。半ズボンで来たわたしは、膝小僧の辺りが血だらけになった。


 下山した後、中川温泉の信玄の隠し湯に立ち寄った。滑落したときの傷に、湯がしみた。


 少しのことにも、先達はあらまほしきことなり


1982年8月11日水曜日

剣岳

 TSMCには「合同」というシステムの山行が年に数回ある。これはいわゆる「合宿」に近い山行形態である。しかしその根本精神は、合同と合宿では大いに異なる。合同は、参加者個々の主体性を尊重した山行の集合体である。個々がやりたい山登りを寄せ集めて、統一性のある山行に組み立てる、という点が集団での同一行動を前提とした合宿とは異なる。

 とは言っても、個々に違う好みを全部実現しようとすれば、行先がばらばらになってしまう。これではもし山行中に遭難が起きた場合、会として救助体制をとることが困難になる。会員が遭難した場合、会が自力で救助することをTSMCは原則にしている。この原則を守るために、個人山行を集めた合同という形式の山行をTSMCは行っているのだ。


 現在、合同は年間4回(年末年始、GW、夏山、冬富士)と定められている。冬山シーズンへのからだ慣らしを目的とした冬富士合宿を除いては、サラリーマンが休みを取りやすい時期に設定している。このような時期には、会員の多くが山へ行くが、その山域を決め、皆でそこへ行こう、というのが合同山行である。


 わたしがこの合同山行に参加するのは、今回が2回目である。1回目はGWに雨にたたられ、またリーダーシップ不在の印象が強かった。


 わたしがTSMCに入会した目的は、山スキーを本格的にやるためであった。無雪期のことは特に考えていなかったが、沢登りや岩登りもできることは歓迎だった。先月は、黒部川の上ノ廊下を遡行でき、思わぬ大収穫だった。ひとりで、あるいは仲間うちで細々と山登りをしていたのでは、とてもこんな機会は持てなかっただろう。そう思うとTSMCに入会できてありがたかった。


 6、7月は岩登りのゲレンデへも何回か行き、フリークライミングにも目覚めた。高校の山岳部で遊びがてら石垣を登るトレーニングをしていたので、フリークライミングの基本はマスターしていたから違和感がなかった。


8月13日

八ツ峰六峰Cフェース剣稜会ルート(2級、Ⅲ) FM

8月14日

八ツ峰六峰Aフェース中大ルート(3級、Ⅳ+、A0) OY

八ツ峰六峰Aフェース魚津高ルート(3級下、Ⅲ+) OY、OH

岩はしっかりした花崗岩で気持ち良かった。

下山は集中豪雨の中を佐藤仁と欅平へ下った。途中阿曽原では温泉に入れて気持ちが良かった。夜近くのテントがふたつ連続で火事になり丸焼けになったのは驚いた。

富山に下山して、飲み屋で打ち上げをやって楽しかった。




1982年7月29日木曜日

黒部川上ノ廊下

7月29日

 台風が日本列島に接近しているというので、山奥に沢登りの行くのは気が進まなかった。しかし、みんなで計画してきたことなので、自分だけの判断で中止はできない。もし、前の職場で、仕事でひいひい言っていた頃に、今のような状況に立ち至ったら、迷わず行くのをやめていただろう。それくらい仕事とか、ストレスとかいう厄介なものは、人の気分に大きな影響を及ぼすものなのだ。山に行こうと思うのだが、なんとなく気分が盛り上がらずに行かない。そうすると余計に気分が落ち込む。こういうことの連続で、生活全般がどんどん暗澹としていくものなのだ。


7月30日

 どんよりとした天気のもと、大町から入山する。扇沢のトンネルを抜け、黒四ダムの堰堤に立つと、上流方向、すなわち上ノ廊下方面には青空が見えた。台風の進み具合は遅そうなので、今夜は東沢谷出合のテント場で泊まり、明日上の廊下を立石まで遡行して、その日のうちに沢から抜けてしまえばやれそうだった。


 東沢谷の出合までは、黒四ダムから平の渡しまで黒部湖畔の水平道を行く。ところどころで沢を渡る。その水はさすがに3,000メートル級の稜線から流れ落ちてくるので、盛夏でも冷たい。温度計で測っていみると摂氏10度だった。わたしたちは明日の遡行で、この水温の沢を泳がなければならない。


 平の渡しは、平の小屋の管理人が、中部電力から委託されて渡し船を運行している。この人がめっぽう愛想が悪く、乗る人をどなりつけそうな勢いだ。乗船料は無料であるとはいえ、嫌な感じである。


 平の渡しからの道は、一転してアップダウンの多い桟道となった。なぜか1人だけ大きい荷物を背負っているSさんは、途中に長い休みを入れなければ歩けないようになってしまっ

た。それでも昼過ぎには東沢谷の出合に着いた。


 明日の行動の参考にするため、上ノ廊下を試しに少し遡ってみた。2か所ほど徒渉してみたが、すでに確認した通りの冷水で、しかも水量の多い急流である。あまりの冷たさにKの顔は青ざめていた。


 夕食後リーダーのWさんを中心に明日の予定を話し合った。わたしがトップで行くことになったので、よしやってやろうと思った。


7月31日

 今朝ここのテント場を出発して、上ノ廊下に入谷するパーティーは3パーティーだった。


 その3パーティーが、前後しながら沢を右岸左岸と三々五々渡り返し、間もなく最初の深い徒渉地点に至る。各パーティーはここで徒渉に必要なザイルなどの装備を出して打ち合わせを始める。わたしはこのように慎重に行きましょうという状況の時、ぐずぐずしているのが嫌なので、さっさとザイルを腰に巻き、沢の中にざぶざぶと入り、対岸へと渡った。


 冷たいことは冷たかったが、一旦こうして全身ずぶ濡れになってしまうと、もう水に入ることに躊躇しなくなった。次々と現れる瀬を、気合を入れながら徒渉した。ところどころへつりをする箇所が出てきたが、かまわず突き進み、やっと広い河原状のところに出る。


 ここは以前堰き止め湖だったのが、さらに土砂が堆積して河原状になったところだ。正面はスゴ沢あたりだろうか。上ノ廊下になぎ落ちている。日当たりの良いところを探して、そこでゆっくりと昼食をとる。


 上の黒ビンガを過ぎると金作谷が出合う。出合の雪塊を越えてゴルジュ帯に入る。左から大きく高巻いたあと、ゴルジュの底にアップザイレンで下る。このころから雨が降り出した。


 沢の水もみるみる濁ってきた。早く安全な幕営地を探さないといけない。赤石沢の近くの小台地で幕営しているパーティーもいる。もう少し先まで頑張ろうと、へつりに取り付いているうちに、日没になってしまった。ええい、ままよ、と少しパーティーに先行してテント場を探したところ、15分ほど先に安全な場所が見つかった。パーティーに戻ってそのことを知らせると、そこまで頑張ろう、ということになった。ヘッドライトを点けて徒渉しテント場に着いたのは20時過ぎだった。朝から14時間近くの行動だった。


8月1日

 台風の影響が顕著になり、風雨が強まってきた。ともかく沢身を離れて、高天ヶ原の温泉まで行くことにして、温泉沢に続く沢に入る。大きな滝から左の沢に入り、ペンキ印のところから右の斜面を登る。かなり長い登りのあと、笹の密生した台地に出た。そこは高天ヶ原温泉のすぐ近くだった。その付近で幕営したが、夜強風にあおられた巨木がテントの近くに倒れ、ものすごい音がしたのでびっくりした。


8月2日

 強風の中を野口五郎岳まで行く。


8月3日

 やっと天候が回復した。高校1年生の時、喘ぎながら登ったブナ立て尾根を、鼻歌を歌いながら下った。下るにつれ、また都会に戻ることが憂鬱になってきた。



1982年7月24日土曜日

谷川岳(中止)

 当初の目的は、一ノ倉沢の南稜を登る予定であった。天神平へ上がるロープウェーの出発駅近くにある東京理科大学の山小屋に前泊し、翌日登る計画だった。

 朝起きると雨は降っていなかったが、今にも降り出しそうだった。明確な行動予定も示されないまま、ただぼんやりと時間を浪費した。これは今年5月の剣沢山行の状況と全く等しかった。


 これはリーダーに問題がある。自分がリーダーになったら、こういうことはすまい。


1982年7月3日土曜日

鷹取山

 先週中止になった遭対訓練をあらためてやることになった。その前日に、Oと先に行って、先週登れなかったルートをまたトライしてみた。すると意外にも、先週はずい分と苦しめられた箇所が、登り方さえ分かると、すんなりと登れた。不思議な感じがした。

 クライミングの上手な人が登っている様子を見ると、劣等感を持ってしまう。それをこらえつつ、彼らの登り方を観察した。彼らはまず安定したスタンスに立つことを第一にして、腕力を使いすぎないように心掛けているようだ。


 翌日出海さんの指導による遭対訓練が行われた。メニューは片手での懸垂下降、人を背負っての懸垂下降、人工呼吸、タンカを使った救助訓練であった。


 岩登りに行くのであれば、このような訓練は必ずやっておかなければならない。これをやらないで岩登りをしてきたのは怠慢だった。反省し、訓練するようにしなければ。


1982年6月27日日曜日

鷹取山

 TSMC代表の出海さんが岩登り用の遭難対策訓練を行うと言うので、懐かしの鷹取山に出かけた。当日の朝になって、雨のために中止になったようだ。集合場所の岩場へ行ったが、数人の会員が来ていただけだった。

 この日はOと2人でいろいろなルートを登ってみた。特に楽しかったのは電光クラックだった。何と表現すればいいのだろう、あの登り切った時の満足感は。岩登りに限らず、これまでに感じたことのないような強いインパクトがあった。これはやめられなくなりそうだ。


1982年6月19日土曜日

日和田山

 春スキーのシーズンも終わりを告げた。3,000メートル級の山ならまだできるけれど、それにはまとまった休暇が必要だ。それでそろそろ夏の岩登りに目が向き始めた。

 日和田山には初めて来た。スケールは小さいが、岩質はしっかりしているように思える。ここで初めてハード・フリークライミングをやっている人たちを見た。女岩の上部がハングオーバーしたルートを、専用のラバーソールの靴を履いて、トップロープという方式で登る。ラバーソールの摩擦で、これまで登山靴で登っていた時よりもきわどいバランスで登れる。また、トップロープ方式だと、滑落した場合でもルートの基部まで墜落することがないので、思い切った動作が可能だ。


 フリークライミングは面白そうだ。


1982年6月5日土曜日

マチガ沢、芝倉沢

6月5日

 この山行で、Wさんと初めて会った。


 まず、この日はマチガ沢で小手調べをした。夏道をスキーを担いで登って行くと、1時間弱で雪渓に出た。ポールが立てられ、スラロームの練習をしているスキーヤーがいた。わたしたちはそこを通り過ぎ、どんどん上へ登った。沢がS字に屈曲した部分から上は、雪面に小さな瓦礫や草屑などがちらばっているので、スキーヤーは上がってこないようだった。


 そこからさらに登って行くと、大きなクレバスがあって、その上は沢幅が狭まり、スキーで滑るのはさらに困難になる。これより上では滑れない、とOさんとKはここで待っていることになった。わたしとWさんはスキーを担いだままさらに上まで登る。登山者がわたしたちを怪訝な目で見ている。


 そこから滑降したのだがスプーンカットの雪渓は非常に滑りにくい。それでもなんとか雪渓の下端まで滑り、やったなという気分になった。


6月6日

 早起きして、芝倉沢へ滑りに行く。


 マチガ沢の出合からテクテクと林道を1時間ほど歩いて芝倉沢の出合に着く。大きな堰堤にデブリが押し寄せている。ここから急な沢身を登って行くのだが、足元が不安定なうえに、上部からの落石やブロックにも注意が必要で、なかなか大変な登りだ。2、3回休憩を入れて、ようやく稜線下のカールの底のようなところに出る。ここまで来ると安定し、落石等の危険もないので、ゆっくり昼食をとる。

芝倉沢で

 沢の源頭部にいい斜面があったので、若林さんとそこへ行って滑る。


 出合までの下りは、マチガ沢と違って適度に雪が軟らかく、気持ちよく滑れた。


 Wさんは、ゲレンデでの滑りは相当の力があるようだった。山の中ではどうか、ここ1発での力量は未知数だ。これからいい意味でのライバルになりそうだ。こういう人が身近にいないとだめだ。WLSKの時のように独りよがりしていてはだめだ。




1982年4月28日水曜日

剣・立山

 春の剣岳にスキーでアプローチして、岩場でクライミングするというぜいたくなプラン。実は1978年5月に今回と同じような計画をたて、ヨーロッパアルプス登山を前にしてMさんと来たことがあった。その際は天気が崩れて岩登りはできなかったが、剣沢と平蔵谷のスキー滑降は楽しむことができた。今回は前回よりもさらに天候に恵まれず、チームワークが悪かったことも手伝った、さんたんたる結果だった。

 夜行の急行アルプスが信濃大町に着く頃には、空がどんよりとして、雨雲が「いつでも降らすぞ」とばかりにわたしたちを見下ろしていた。


 黒部ダムを経由して、室堂平に出る。


 一面の雪の原は、それはそれで気持ちが良いのだが、なんだか薄暗くて陰気である。雷鳥沢には大きく右側から回り込んで取りついた。その広大な斜面を正面から登っていく頃になると、雨粒がポツポツ落ちてきた。間もなく本降りになり、風も出てきた。ようやく別山乗越にたどりついた時には、体がかなり濡れてしまった。早くテント場へ行ってそこで休もうと、スキーで滑りにかかる。パーティーの足並みがばらばらで、どうしようもない。テント場につき、急いでテントを張って中に入る。全身ぐしょ濡れで、歯の根が合わないほどがくがく震えがくる。雨はぜんぜん降りやまず、わたしはとうとう寝袋と羽毛服を濡らしてしまった。これではいけないと、剣沢小屋へ行って、それらを乾燥させてもらう。そんなことをしているうちに、とうとう小屋にいる時間の方が長くなってしまった。


 そうして何日も天気待ちをしているうちに、下山予定日になってしまった。


 別山乗越に登り返し、雷鳥沢を下り、山崎カールの下を横切り、一ノ越に上がって、タンボ沢経由で黒部平へ滑りこむ。この下山日が一番楽しかったとは寂しい限りである。

別山平で

 雨が降ったら降ったなりに行動の仕方があると思う。来たるべき日に備えて、ザイルで確保しながらスキー滑降するとか、ずぶ濡れになることを覚悟してスキーの練習をするとか、やるべきことはあったと思う。それができないのは、メンバーに力がない証拠に思えて仕方ない。


1982年4月18日日曜日

天神平スキー場

 スキーツアー時に想定される遭難への対策として、天神平で訓練をした。

 TSMC代表のDさんと初めて会う。会員の前評判にたがわぬ変人という感じがする。トリックターンというのをやらされた。前にどこかでやらされたことがあったので、スイスイとやってしまったら、Dさんは面白くなさそうな雰囲気だった。


 会員でこれといって良い滑りをしている人はいなかった。下りはAさんと田尻沢を滑降する。


1982年4月11日日曜日

遠見尾根から鹿島槍高原

 TSMCでの山行計画が中止になったので、山スキーツアーを兼ねて神城山荘に残置してあった荷物を取りに行く。山荘の中には誰もいなくて、いつもながらガランとしていた。もうここへ来ることもないだろうと思い、内も外も良く見わたした。

 五竜とおみスキー場のチャンピオン第2リフトを使って1時間ほど足馴らししてから小遠見山へ登る。


 天気が良く、後立山連峰が良く見わたせる。小遠見山の山頂で昼食を食べて、天狗岳の稜線に入る。


 この稜線は、神城山荘から何度も仰ぎ見たところだ。稜線には思ったよりアップダウンがあり、夜行列車で寝不足だったからだにこたえる。手や足が少しつりだしてきた。ビンディングがマーカーTRなので、緩斜面でかかとを充分あげられず、苦しい。天狗岳からの下りは、尾根幅が狭いうえに傾斜が急なので、初心者だとアンザイレンが必要だ。


 鹿島槍スキー場に出るところで雪が無くなってしまい、楽しみにしていた滑降は出来ずじまいとなる。スキーを担ぎ、足をひきずって簗場駅まで歩いた。


神城山荘使用細則

  1. 基本となる生活時間

  起床 7:00 朝食 7:30‐昼食 12:00‐夕食 18:00‐就寝 23:00

  1. 使用者が分担する仕事

    1. 買い出し

    2. 調理

    3. 食事の後片付け

    4. 掃除

    5. 燃料補給

    6. 風呂わかし

    7. ゴミすて

    8. 雪かき

  2. 備品の使用

山荘内の備品は大切に使用し、使用後はもとの位置に戻しておくこと。また、山荘内にあるわたし物を使用したいときは、あらかじめ持ち主の承諾を得ること。

  1. 飲酒

酒ビンを持ち込んだ場合は、空ビンを残置せず持ち帰ること。

  1. 喫煙

山荘内でタバコをすう人は、常に火の始末に注意すること。

  1. 就寝時間の厳守

就寝時間以降にやむを得ない事情で会合する場合は、各自の部屋において、同室者の了解を得た上で行うこと。

神城山荘マニュアル

<買い出し>神城で品揃えの良い店は大北農協(土の午後と日は休み)です。酒類などは   で年中無休。大量のときは白馬駅前まで行く。

<調理>煮炊きをする際には火気と換気に充分注意しましょう。ごはんは1回(約3十分)で2升位炊くことができます。20名以上宿泊する場合は2回炊く必要があるので早めに作りはじめましょう。使用した調理用具は元のところに戻し、ガスの元栓をしめておきましょう。

<食事の後片付け>山の水は冷たいので、お湯を使うと楽です。ただボイラーは風呂と共通なので、早く風呂を沸かしたい場合はなるべく節約しましょう。食卓・カウンターを清潔にしておきましょう。

<掃除>まずみんなでちらかさないように気をつけましょう。ホールはみんなが利用するスペースです。おいてあるわたし物は持ち主にわたし、部屋に持ち帰ってもらいましょう。クズカゴにたまったゴミをかたづけましょう。また灰皿にたまったすいがらは喫煙する人に捨てさせましょう。

乾燥室のスキー用具や靴は出入りのじゃまにならないようにきちんと整理しましょう。アフターブーツなどは棚に入れておきましょう。またスキー修理台のまわりもきれいにしておきましょう。

トイレが特に汚れている時にはデッキブラシで洗い流しておきましょう。紙がなくなっていたら補充しておきましょう。

<燃料補給>風呂ボイラーと石油ストーブのタンクに石油を補給しておきましょう。石油は入口のタンクから20Lポリタンに移しておきますが、もしタンクが空になっていたら、電動ポンプをタンクにそなえつけ、ドラムカンをタンクのそばに運んできて、ポンプで石油を満タンにしておきましょう。

<風呂わかし>

  1. 浴槽に水を20㎝位の深さに入れておく。

  2. 浴槽の給湯蛇口を全開にし、浴槽のフタをしておく(蛇口の下だけはあける)。

  3. 揚水バルブを全開、給湯バルブを全閉。

  4. バーナーに点火する。

まず、バーナーの送風つまみを②、燃料つまみを⑧にする。点火棒(ストックの先に布をまき石油をひたしたもの)に火をつけバーナーの燃料噴出口にかざす。燃料つまみの横の黒いボタンを押すと火がつく。

  1. ボイラーから給湯バルブへむかうパイプがあつくなってきたら給湯バルブを全開にする。

(注意)揚水バルブの上のタンクの水がお湯になってしまったら、バーナーを消すこと。原因は水圧不足かバーナーの火力の強すぎなどが考えられる。

<ゴミすて>台所の生ゴミ、くずかごのゴミは山荘うらのゴミすて場にすてましょう。雪がつもっていたら、それを掘ってそこに捨てておきましょう。ゴミの中にもえるものがあったら石油をかけてもやしておきます。ビンやカンは捨てないで、指定された場所にまとめておきましょう。

<雪かき>

出入口 階段にはスリップしないよう段をつけます。

山荘の周囲 1階の窓ガラスが雪で割れることがあります。すきまをつくってガラスが割れないようにしておきましょう。

屋根 50㎝以上つもったら雪おろしをする必要があります。やるときには転落に注意しましょう。

神城山荘の四季

1月 4日どんどやき

   15日わかどし

2月 霧氷の花

4月 1日姫川の川魚解禁、コブシ、柳ボボ・フキノトウ、ワラ

ビ、ゼンマイ、コゴミ、

タラノメ出はじめ、フクジュソウ

残雪と花:カタクリ、ザゼンソウ、ミズバショウ、コブシ

5月 野の花咲きそろう:ウメ、モモ、アンズ、サクラ、コブシ

   中旬白馬の雪形と田植え

   春まつり

6月 初旬ワラビ最盛期、レンゲ、ツツジ

7月 下旬白馬岳お花畑最盛

8月 13日旧盆、盆踊り

   カブトムシ、ホタル

9月 ウマオイ、コオロギ、マツムシ

   山ぶどう、くり、あけび、きのこ

   シメジ、ナメコ、マツタケ、クリタケなど

   秋まつり

10月 山の頂から麓へ次第に紅葉が降りてくる(7段紅葉)

   下旬白馬連峰初雪

   秋の収穫

11月 野沢菜洗い・漬け込み

   山麓積雪この頃から

12月 スキー場開き

神城スキー場



1982年3月7日日曜日

岩菅山 

 わたしは1977年12月のWLSK創立から、4年以上にわたって積極的にスキーや登山をしてきた。自分が思い描いたような会にはなっていなかったが、会員は40名ほどにもなっていた。

 そのような会の人数規模の発展とは裏腹に、わたし自身はこの会で活動していくことに楽しみを見いだせなくなっていた。自分自身が山やスキーに求めているものが、この会では実現できないという限界を感じた。


 このころわたしは、早稲田大学の専任職員になって約2年間が経過していた。経理課に配属されていたが、そこでの仕事が自分に向いていないことを痛切に感じていた。WLSKにおけるスキーや登山と同様に、仕事でもどうにもならないくらい行きづまった。


 遊びも仕事もダブルでうまくいかなくなってしまったのである。


 そこでわたしはこの状況を打開するために、1982年の春にふたつのことを実行することにした。ひとつは自分たちで作ったWLSKは退会し、社会人を中心にした東京スキー山岳会(TSMC)に入会して山スキーに集中することにした。うひとつは、もっと自分に適性のある別の職場へ移れるよう、上司に申し出ることだった。TSMCへの入会はすぐにことが運んで、では早速岩菅山へツアーに行こうということになった。


 東京駅から志賀高原行き夜行バスに乗り、一之瀬スキー場に早朝に着く。


 ゲレンデの食堂で朝食をとったあと、一番リフトで寺小屋峰の登り口まで行く。天気はくもりで雪が少し降っている。まず樹林帯を登ると、これから行く岩菅山への稜線が見わたせた。


 その稜線に入ると、尾根の幅が狭く、小さなアップダウンがあり、おまけに風紋が発達していてスキーには不向きな条件であった。そこを過ぎ、岩菅山の登りにかかると青空が見えてきた。斜面には針葉樹の頭がのぞいている。そこを大きくジグザグを切りながら登る。山頂は比較的広く、避難小屋は雪に埋まって見えなかった。

岩菅山で

 山頂からの滑降を楽しみにしていたが、ルートを間違えてしまった。山頂から西方向に派生している尾根を下るべきところが、北寄りの谷に入ってしまったため、かなり急な斜面などが出てきて、快適な滑降はできなかった。雪質もモナカ状で良くなかった。



1982年1月15日金曜日

妙高高原・杉ノ沢スキー場 1982年1月15日、16日

 職員同期のHときた。どうしようもなく娯楽スキーで、ぜんぜん滑った気がしなかった。ただはるみ荘は快適だった。人にわたしの滑りを見てもらうのは愉快だが、見てくれる人が初心者だから物足りなかった。

 夜スキー場でどんど焼きがあった。