1982年7月29日木曜日

黒部川上ノ廊下

7月29日

 台風が日本列島に接近しているというので、山奥に沢登りの行くのは気が進まなかった。しかし、みんなで計画してきたことなので、自分だけの判断で中止はできない。もし、前の職場で、仕事でひいひい言っていた頃に、今のような状況に立ち至ったら、迷わず行くのをやめていただろう。それくらい仕事とか、ストレスとかいう厄介なものは、人の気分に大きな影響を及ぼすものなのだ。山に行こうと思うのだが、なんとなく気分が盛り上がらずに行かない。そうすると余計に気分が落ち込む。こういうことの連続で、生活全般がどんどん暗澹としていくものなのだ。


7月30日

 どんよりとした天気のもと、大町から入山する。扇沢のトンネルを抜け、黒四ダムの堰堤に立つと、上流方向、すなわち上ノ廊下方面には青空が見えた。台風の進み具合は遅そうなので、今夜は東沢谷出合のテント場で泊まり、明日上の廊下を立石まで遡行して、その日のうちに沢から抜けてしまえばやれそうだった。


 東沢谷の出合までは、黒四ダムから平の渡しまで黒部湖畔の水平道を行く。ところどころで沢を渡る。その水はさすがに3,000メートル級の稜線から流れ落ちてくるので、盛夏でも冷たい。温度計で測っていみると摂氏10度だった。わたしたちは明日の遡行で、この水温の沢を泳がなければならない。


 平の渡しは、平の小屋の管理人が、中部電力から委託されて渡し船を運行している。この人がめっぽう愛想が悪く、乗る人をどなりつけそうな勢いだ。乗船料は無料であるとはいえ、嫌な感じである。


 平の渡しからの道は、一転してアップダウンの多い桟道となった。なぜか1人だけ大きい荷物を背負っているSさんは、途中に長い休みを入れなければ歩けないようになってしまっ

た。それでも昼過ぎには東沢谷の出合に着いた。


 明日の行動の参考にするため、上ノ廊下を試しに少し遡ってみた。2か所ほど徒渉してみたが、すでに確認した通りの冷水で、しかも水量の多い急流である。あまりの冷たさにKの顔は青ざめていた。


 夕食後リーダーのWさんを中心に明日の予定を話し合った。わたしがトップで行くことになったので、よしやってやろうと思った。


7月31日

 今朝ここのテント場を出発して、上ノ廊下に入谷するパーティーは3パーティーだった。


 その3パーティーが、前後しながら沢を右岸左岸と三々五々渡り返し、間もなく最初の深い徒渉地点に至る。各パーティーはここで徒渉に必要なザイルなどの装備を出して打ち合わせを始める。わたしはこのように慎重に行きましょうという状況の時、ぐずぐずしているのが嫌なので、さっさとザイルを腰に巻き、沢の中にざぶざぶと入り、対岸へと渡った。


 冷たいことは冷たかったが、一旦こうして全身ずぶ濡れになってしまうと、もう水に入ることに躊躇しなくなった。次々と現れる瀬を、気合を入れながら徒渉した。ところどころへつりをする箇所が出てきたが、かまわず突き進み、やっと広い河原状のところに出る。


 ここは以前堰き止め湖だったのが、さらに土砂が堆積して河原状になったところだ。正面はスゴ沢あたりだろうか。上ノ廊下になぎ落ちている。日当たりの良いところを探して、そこでゆっくりと昼食をとる。


 上の黒ビンガを過ぎると金作谷が出合う。出合の雪塊を越えてゴルジュ帯に入る。左から大きく高巻いたあと、ゴルジュの底にアップザイレンで下る。このころから雨が降り出した。


 沢の水もみるみる濁ってきた。早く安全な幕営地を探さないといけない。赤石沢の近くの小台地で幕営しているパーティーもいる。もう少し先まで頑張ろうと、へつりに取り付いているうちに、日没になってしまった。ええい、ままよ、と少しパーティーに先行してテント場を探したところ、15分ほど先に安全な場所が見つかった。パーティーに戻ってそのことを知らせると、そこまで頑張ろう、ということになった。ヘッドライトを点けて徒渉しテント場に着いたのは20時過ぎだった。朝から14時間近くの行動だった。


8月1日

 台風の影響が顕著になり、風雨が強まってきた。ともかく沢身を離れて、高天ヶ原の温泉まで行くことにして、温泉沢に続く沢に入る。大きな滝から左の沢に入り、ペンキ印のところから右の斜面を登る。かなり長い登りのあと、笹の密生した台地に出た。そこは高天ヶ原温泉のすぐ近くだった。その付近で幕営したが、夜強風にあおられた巨木がテントの近くに倒れ、ものすごい音がしたのでびっくりした。


8月2日

 強風の中を野口五郎岳まで行く。


8月3日

 やっと天候が回復した。高校1年生の時、喘ぎながら登ったブナ立て尾根を、鼻歌を歌いながら下った。下るにつれ、また都会に戻ることが憂鬱になってきた。