1980年12月27日土曜日

五竜とおみスキー場 1980年12月27日~1981年1月3日

 神城山荘でWLSKはこれまで修理を重ねてきたが、まだ必要な箇所が沢山あって、なかなか思い切ってスキーする時間が取れない。そして炊事などにも手間がかかるので、いつも年末年始のスキーでは大した収穫もない。今回もそんなこんなの疲れが先に来て、滑りが少し荒れたようだ。

 印象に残った滑りは、飯森スキー場のストレートウイスキーコースのコブコブを、エアターン気味にスイスイと滑り降りたこと。五竜とおみのチャンピオンコースをノンストップで下ったこと。WLSKのスラローム大会では外足に乗れたこと、である。


 正月にだれか上手な人と滑りたいと思う。

 

1980年12月17日水曜日

志賀熊の湯スキー場 1980年12月17日~19日

 大学の職員組合がやるスキーツアーに参加した。スキー協議会以外のバスツアーがどんなものか、大学の職員にどの程度滑れる人がいるのか、自分の目で確かめてみたかった。結果的にはどちらも期待したほどのことはなくて、いささかがっかりした。

12月17日

 グループで滑ろうという様子も見えないので、Iと滑ろうと思ったが、レベルに差がありすぎて、つまらなかった。そこで1人でぶんぶん滑った。初日だったが、昨シーズンにEさんから学んだことを思い出しながら滑った。


12月18日

 天気がいいので横手山へ行った。ここのリフトは前半がなだらかで、横手山に近づくと突然急になる。山頂からは眺めがよいが、風が強い。滑りだすとすぐに山腹を絡む林間コースで、リフトをくぐるとゴルフ場のように幅の広いコースになる。ここは大きなターンを、内倒気味だが外足にしっかり乗って滑った。スピードが出て気持ちがよかった。


12月19日

 天気が崩れ、針葉樹にはエビのしっぽがくっついていた。2日券を買ったので、バンバン滑ろうと思ったが、午後は停電でリフトが止まってしまった。


1980年11月23日日曜日

富士山

 東京駅発の急行御殿場で御殿場へ向かう。自分で作った握り飯を車中で食べたが、うまかった。途中で富士山の東面が見えたが、あまりの積雪の少なさにがっかりしてしまった。スキーを持ってきた自分に腹が立った。持って登っても滑ることはできないことは分かっていたが、駅には預けず担いでいくことにする。

 御殿場駅からのバスは、国立青年の家(標高約660m)までで、まだ富士山のずっと麓だ。これから山頂までの標高差が3,000m以上あるが、そんなことは気にせず、かんかん照りの舗装道路をスキーを背負って歩き始める。大汗をかいて五本松(標高約850m)に着く。ここで1回休み、気を取り直してまた歩く。するとしばらくして後ろから小型トラックが来て、「乗ってけ」、と言われる。わたしはこうして何度人に乗せてもらっただろうか。初めて乗せてもらったのは、中学2年の時だった。あれからもう10年以上たっている。いつもながらうれしい限りだ。


 五本松から太郎坊(標高約1280m)の駐車場まで一気に駆け上がることができた。ここからいよいよ本格的に登り始めるわけだが、水が全然ない。そこで水場を探したが、こんな火山灰の真っ只中のどこに水場があろうか。ここでまたがっくりきたが、持ち前の楽観的な気持ちで「少し歩けば雪がある。」と信じて歩き出す。砂走りは下りは歩くのが早くなるが、重荷でののぼりは嫌らしい。1歩のぼると半歩下る感じだ。こうやって四苦八苦して登っていると、あたりを4輪駆動車がめちゃくちゃに走り回っている。ガスで何も見えない中を、太郎坊から4P登った5合目付近(標高約2,600m)で泊まることにする。久しぶりに重荷を背負って歩いたせいか、足の自由がきかなかったこともある。日陰に残っているわずかの雪を集めて、夕飯用の水を作る。

 翌日は軽装で山頂を目指す。相変わらずのザクザク道を直登し、その後電光型の道をたどる。山頂直下でも積雪は地面が隠れるほどで、結局山頂までアイゼンは着けなかった。ポカポカと暖かい山頂にいると、なんだかバカバカしくなり、早々に下山する。テントを撤収して、なんの役にも立たなかったスキーをまた担いで、一気に太郎坊まで下った。太郎坊からはまたてくてくと歩きながら、何度か後ろを振り返った。すると五本松でワゴン車が止まってくれた。青年の家のバス停までのせてもらう。


1980年11月15日土曜日

五龍遠見スキー場 1980年11月15日

  今年は初雪がとても早かったので、五竜とおみでも11月の第一週には初滑りができた。わたしはそのチャンスをなんだかぐずぐずして逃してしまった。それで、弟と新宿で落ち合い、夜行で行って翌日に滑った。

 シーズン最初にしてはまあまあ良い感じで滑れたと思うが、リフトはまだ運転していないし、雪がある部分も限られている。とりあえず初滑りということである。


1980年10月4日土曜日

甲斐駒ケ岳

 急行アルプスで朝早く新宿を出発する。

 韮崎で朝食をとり、買い出しし、がらすきのバスで横手まで入る。そこから横手神社まで30分ほど歩き、そこで冷たい水を飲んで足ごしらえする。


 杉木立をすぎて雑木林の中をジグザグと登り、約1時間で見晴らしの良いベンチがある。そこから黒戸尾根の主稜に取り付くころには下りや水場もあり、変化がつく。ここから本格的な登りになるが、皆調子がよく、元気に登る。笹の中を過ぎ、岩場になったところで休憩する。釜無川の断崖や甲府盆地がはるか下に見える。八ヶ岳もくっきりと見える。行く手に大きく見える黒戸山をまいて、今日の泊地である5合目小屋に16:00に着いた。


 外で夕食を作っていると、小屋の犬2匹が周りをうるさく歩き回ったが、結局何もあげなかった。夜はこたつを囲んで、持ってきた缶ビールを飲み、暖かくして寝た。


 朝日の中、富士山は新雪を北側に頂いている。甲斐駒ケ岳は全山紅葉の盛りで、花崗岩の白い輝きときれいなコントラストをなしている。その中を登るのがなんと楽しいことか。この山は標高3千メートルに近いが、秋の高山をこんなにのんびりと楽しめるなんてついている。山頂近くの岩陰には、硬い初雪が残っていた。そして楽しい山頂でのひと時を過ごした。

 下りはただただ急いで、横手発15:25のバスに間に合わせた。

 

1980年9月13日土曜日

白馬岳

  Aさんのところへ遊びに行ったら、白馬岳を登りに行くというので一緒に行った。Aさん夫婦と、T君と、H・Kと磯工生が6人ぐらいと行く。

 車で行き、夜中に猿倉に着き、車の中で仮眠する。朝起きると、稜線はきれいに晴れ上がっている。雑煮を食べてみんな元気に出発する。


 竜雄は特に元気で先頭を行く。登山者の行列の中を白馬尻の小屋に着く。


 どうやらスキーに来ている人もいるようだ。冷たい水を飲んでまた出発。雪のだいぶ溶けた雪渓脇のガラガラと崩れやすい道を登る。また尾根を登るようになる。急な草付のところがあって、その先で少し傾斜が緩くなり、頂上の小屋が見えてくる。


 小屋を過ぎて後立山の主稜に出ると、さすがに日本海を越えてくる風は冷たく、みな風よけを探して、三々五々食事する。荷物を置いて、山頂へ向かう。ガラガラとした石の道を行くと、大きなホテルを過ぎて山頂となる。雲が多くなったものの、上天気で満足だった。


 下山はこともなく、帰りがけには白馬村の温泉に入り、神城山荘に泊まって、翌日は混んだ道をのろのろと帰った。


1980年8月4日月曜日

朝日連峰

 上越の朝日岳は、悪天のため途中下山となり、パーティーは水上で一旦解散した。わたしとYだけは、これから東北の朝日連峰へ行く。2人で主稜を縦走する計画だ。


8月4日

 土樽山の家で1泊し、翌朝早い下りの列車で新潟に出る。新潟で食糧の買い出しを済ませ、坂町へ。列車は混んでいて居心地が悪かったにも関わらず、Yはグーグー寝ていた。あとで聞いたら風邪気味で調子が悪かったとのこと。坂町から米坂線に乗り換え、小国で降りる。ここは高校2年生の時、夏合宿で飯豊連峰からへとへとになって下山してきた想い出深い駅だ。みんなでスイカとコロッケを買って食べた。


 バスで朝日まで入る。ここで降りた登山者はわたしたちだけで、土地の子供たちにうさんくさげにじろじろと眺められた。夕暮れの迫った村はずれの道を、できるだけ今日のうちに山の中へ入っておこうとさっさか歩いた。すると後ろから小型トラックが来て、おじさんが「乗ってけ。」というので、ありがたく乗せてもらった。途中で登山届を出して、テントを張った。


8月5日

 天気が良いのが、空の上の方が青いので分かる。道はあまり踏まれていない。沢沿いの道は、大きな沢を何本も渡る。渡る橋が原始的で、倒木を沢に渡しかけた程度のものである。角楢小屋で大学のワンゲルパーティーを抜き去り、いよいよ急登になる。登り切ったところは、見晴よく刈りはらわれた尾根で、はじめて大朝日岳が見えた。後方かなたには飯豊連峰も見える。


 それにつけても感心するのは、これほど暑いのに、稜線沿いに残雪が豊富に残っていることである。水をがぶ飲みしたので、休憩がてら水場まで行き水を補給した。ここで元気が回復したので、大朝日岳まで一気に登る。ガスで何も見えない。ここで秋田工業高校のパーティーと一緒になったが、彼らとは結局鶴岡まで一緒に行くことになる。西朝日岳の手前に気持ちよさそうなテントサイトがあったので、少し早いがここで幕営する。


8月6日

 雲は多いが、大崩れすることはないだろう。すこし下ると雲から出た。途中何か所か良い水場があり、それに元気づけられて、最後のピーク以東岳に登る。

以東岳で

 朝日連峰のピークは大きく見えるが、実際に登ってみるとそれほど登り甲斐は無い。避難小屋で上手いスパゲッティーを作って食べ、大鳥池まで駆け下る。小屋の周辺で岩魚を釣ろうと、何か所かで試みたが、ぜんぜんだめだった。秋田工業のOBらしき人は大きいのを何匹も釣ったらしく、焼いているいい匂いがわたしたちのテントに漂ってきた。


8月7日

 池から泡滝ダムまで歩き、ここで風呂代わりに沢に入って泳ぐ。そうしていると秋田工業の生徒が「もうバスが来てますよ。」と息を切らして教えに来てくれた。大鳥でビールを飲み、またバスを乗り継いで鶴岡へ出た。Yとは鶴岡で別れた。


1980年8月2日土曜日

谷川連峰朝日岳

  天気がついていない、いわゆる雨男、雨女という人はいる。今回は山行自体が途中で中止になってしまった。

8月2日

 土合駅から歩き、湯檜曽川を1時間ほどさかのぼり、そこで釣りをしたり食事をしたりして遊んだ。その日は民宿みちのくで泊まる。


8月3日

 はっきりしない天気で、今にも雨が降り出しそうに、雲が低く垂れこめていた。それでも、はっきり悪天になるまでは行ってみよう、ということで民宿の車で朝日岳への登山口まで送ってもらう。


 準備体操をしてから朝日岳への尾根道に入る。最初から急登である。登山口から2時間歩いたところで降雨がひどくなってきた。パーティーの中に登山経験が浅いものがいること、下山予定地の清水までは管理人のいる山小屋はないこと、不時露営の準備はないこと、などを考え合わせ、ここで山行を中止することにした。


 登山口までおりて昼食を食べ、水上へ行く。時間があったので、宝川温泉へ行って露天風呂に入った。なぜか女湯が良く見える構造であった。

宝川温泉で



1980年6月6日金曜日

針ノ木岳

6月6日

 新宿駅を23時45分に出発する急行「アルプス」で信濃大町へと向かう。新宿駅の待ち合わせホームで、小中学校時代の同級生のYに偶然会った。彼の家はクリーニング店で、小学校の時は時々遊んだことがあった。神奈川大学のワンダーフォーゲル部の合宿で、これから穂高岳へ行くということ。思わぬ人が同好の士であった。


6月7日

 大町に着くなり天候悪化の兆し。扇沢までバスで行き、観光客のおばちゃんが行きかう中で朝食をとる。そうしていると、扇沢ロッジに泊まっていた人たちがグループで針の木沢方面に出発するので気がせく。


 8時頃出発し、工事でとても歩きにくい仮の道を行く。工事道路と別れると、歩きやすい良い道になった。ブナの林を抜け何度か沢を渡りかえすと、大沢小屋に着いた。思ったよりも遠かった。小屋は閉まっていた。沢に出てから休むことにして、なおも歩いたが、途中で分かれてしまい、少しもたついた。

 9時頃落ち合って、雪渓の上で少し休む。このあたりの雪渓の上には、木くずや小石がいっぱい散らばっているので、とてもここまでは滑り降りて来れないだろう。雪渓の上部を20人ほどの大パーティーが登っている。ノドまではここから直上するが、ノドの先で沢は左に曲がるので、針ノ木峠は見えない。


 わたしは雪の上を歩くのが好きだ。同行はYとKだが、Kは汗をびっしょりかいて苦しそうである。ノドの手前で一度休み、マヤクボ沢の合流点でもう一度休んだ。1人スキーで滑り降りてきた。


 針ノ木峠に着いた頃には雲も低く垂れこめて、雨がポツポツ降ってきた。昼飯をゆっくり食べて、昼寝をし、スキーで遊んだ。峠から雪渓が狭まるところまで、標高差200mくらいを2本滑る。それから針ノ木岳の山頂を往復した。


 帰りは下までなるべく長い距離を続けて滑るようにした。遊びで空身で滑った時よりも、荷物を背負って滑った時の方が調子が良かった。登山道の100mくらい手前のところまで滑り続けた。


 今度ここに春スキーに来る機会があったら、針ノ木岳とスバリ岳のコルから針ノ木雪渓に滑り降りてみたい。


1980年5月3日土曜日

谷川岳

 山は厳しい、そして本当は優しいものだと思う。

5月3日

 早朝の混んだ「佐渡1号」に乗りで水上に着く。


 タクシー2台に分乗して、天神平まで登るロープウェー乗り場に行く。乗り場にはすでに行列ができていた。天神平でリフトを行列して待つのが嫌なの歩いて登ることにした。さっさと歩いて西黒尾根に取り付く。雪の消えかかった歩きにくい灌木帯を抜けて尾根に出たところで、残雪量の多さに驚く。森林限界の手前で一服する。


 天神平に案の定リフト待ちの行列が見える。


 森林限界から尾根は狭くなり、岩場も出てきて歩きづらくなる。それも憬雪小屋跡までで、そこからは歩きやすくなる。体調がよく、ほいほいと登り山頂に着いた。


 山頂からの滑降は、まず西黒尾根の上部に出て、天神尾根の大斜面をミドルターンの繰り返しで一気に滑り降りる。下から見ると、シュプールがきれいに残っていた。そこから天神平まで、スキーを着けたまま行く。


5月4日

 天気予報がいいほうにはずれ快晴の朝を迎え、喜びいさんで出かける。


 朝一番のロープウェーに乗って天神平に登り、昼前までゲレンデで滑る。それから男性7人で谷川岳から滑降しに行く。


 途中、小ピークを右から巻くところでSがステップを踏み外して3mほど転落した。運よくブッシュ下の雪の切れ目で停止し、事なきを得た。そのあとYが転倒を繰り返し、体力を大いに消耗した。岩場が見えているピークでは、スキーをリレーで渡したあと空身で簡単に越えた。そこまで比較的順調に行ったが、熊穴沢の避難小屋のところでYがバテ、足に靴が当たって痛いと言い出す。Yは休みたがったがわたしはこれを認めず、1時間半ほどかかって天神尾根の大斜面の下に着いた。


 Yを除き、みんなせいせいとした顔をしている。十分に休んでから、スキーを担いで山頂へ向かう。そこからはYもなんとか着いてきて、みんなで山頂からの眺めを楽しんだ。


 大斜面の滑りは昨日よりも体が遅れず、落ち着いて一層良く滑れた。みんなも大満足の様子だった。結局みんなで登って良かったのだと思う。



1980年4月19日土曜日

巻機山

 大学の専任職員になり、2か月続く研修のペースも分かった。体調も良くなってきたので山に行くことにした。

4月19日

 上野駅を早朝にたつ急行で出発した。六日町に11時頃に着いた。車窓から見える田んぼにまだ分厚く雪が残っている。


 12時半まで清水へ行くバスが無いので、駅前の食堂でビールを飲みながら昼食をとる。


 バスは満員で老人と子供の乗客が目立つ。バスは上り坂をあえぐように登り、清水に着いた。


 今夜は清水に泊まる予定で、なるべく山の上の宿に泊まろうと思った。しかし、バスに乗り合わせたおばさんに聞いたところ、うえの宿はみんな閉まっているとのことだった。それで「やまごにしなさい」といわれた。


 「やまご」は道路わきにある、一見して古い宿だった。中に入って「泊めてください。」というと、「1人かね。」と聞かれ、そのまま2階の6畳に通された。きれいな部屋ではないけれど、なにか親しみを感じる雰囲気があった。ぼんやりしていると、さっきの奥さんがお茶を持ってきてくれた。部屋に入る前に「失礼します。」と声をかけるのは習慣だろうが、山の中では耳新しく聞こえる。


 一休みしてからスキーをかついで出かけた。林道を登って行くと杉林の中へ入っていく2人パーティーが見えた。わたしは巻機山が初めてなので、すかさずその人たちのあとを追っていく。杉林の中で同じように針葉樹の中を歩いた昨年の至仏山のことを思い出す。


 米子橋のところで2人パーティーに追いついて山の様子を聞いた。正面の尾根が井戸尾根で、取り付きの急斜面が井戸の壁、そこを越えるとしばらく緩斜面になり、また急になって登り切ったところがニセマキハタだそうだ。


 その2人と一緒に2時間ほど登った。彼らはそこから下山するとのことだが、わたしはまだ日が高いので、もう少し登ることにした。するとその2人は、わたしが降りてくるのをここで待っている、とのことだった。どうぞお好きに、と心の中で言って、また登った。


 天狗岩が見えるところまで登り、3月のヨーロッパ以来ひさしぶりにスキーで滑った。ちょっと調子が出なかった。2人パーティーと合流し、一緒に下ったが、2人はスキーが得意ではないとみえ、ペースが合わなかった。


4月20日

 天気が良くなく、風も強かったが、予定通り巻機山に登り、滑り降りてくることにした。

 宿の1階に降りると、朝着いて朝食をとっている人たちがいた。昨日の2人パーティーとは違い、登山経験の豊富な土地の人たちのように見えたので、わたしは割引(ワリメキ)沢の様子を聞いた。すると彼らはわたしの期待した通り「1年中で一番いい時だ。」と答えた。その言葉に励まされて、いさんで出発した。


 宿から1時間ほどで割引沢に出た。そこに5人ほどのパーティーが休んでいた。わたしはどんどん沢をつめ、落合と標高1,500m地点で各1回休み稜線に出た。沢の中も風が強く、1か所滝が露出していた。また大きなデブリが2か所あった。沢の標高1,500m地点より上は、スキー滑降には不向き見えた。


 稜線に出るとさらに風が強くなり、相変わらず空は雲に覆われていた。しかし、巻機山頂に着いたとき、一瞬だけ薄日が差した。ここで今朝宿であった人と合流し、避難小屋で昼食を食べ、滑降にかかった。快適な滑降で、あっというまに檜穴ノ段まで下ってしまう。


 ここから割引沢に滑り込む。滑り出しは快調だったが、右ターンを意識した時、一度転倒してしまった。アイガメノ滝でスキーをはずし、デブリを歩いて下り、またスキーをつけて、あとは一気に米子橋まで滑る。


 ここには昨日の2人パーティーと今朝のあの人がまたいた。彼はわたしに缶ビールをくれた。20年前に米子沢を初遡行した人なのだという。この人は宿でさらにサイダーをおごってくれ、おまけに六日町駅まで車に乗せてくれた。


1980年3月5日水曜日

ヨーロッパアルプスのスキー旅 1980年3月5日~3月23日

 早稲田大学を1980年3月に卒業して、4月から早稲田大学の専任職員になることが決まった。卒業する前に何か思い出に残る楽しいことをしたいと1979年の秋に考えた。それで、WLSKの仲間と相談し、ヨーロッパアルプスにスキーに行くことにした。

ヨーロッパアルプスのスキー旅 1980年3月5日~3月23日 サマリー
3月5日 成田空港⇒ソウル⇒機中泊
3月6日 アンカレッジ⇒パリ・オルリー空港⇒パリ

3月7日 パリ

3月8日 パリ⇒シャモニー

3月9日 グラン・モンテでスキー

 ヨーロッパでの滑り初めは、シャモニーのグランモンテ・スキー場だった。ゲレンデが日本のスキー場とはけた違いに広い。ものすごくスピードを出して滑れるが、経験したことの無いスピードに体勢が知らず知らずに後傾になる。ゲレンデに隣接した部分に深雪があり、そこに入るとスキー操作が上手くいかず、なかなか調子がでない。

3月10日 レ・ズッシュ、ブレバンでスキー

 シャモニーのスキー場は、標高が高いところは3,000mあり、低いところで1,000mである。だから、ゲレンデの上と下では雪質がまったく違う。3月は気温が高くなる日もある。するとゲレンデのいちばん上は粉雪、途中は湿った雪、一番下はアイスバーンと三段階に代わる。アイスバーンにも、わたしのスキー板、ケスレーRXコンビは強かった。

3月11日 休養日

3月12日 バレ・ブランシュ、フレジェールでスキー

 エギーユ・デュ・ミディのロープウェーで頂上まで行き、バレ・ブランシュを滑り下りる。滑りだしてからしばらくは、スピードが上手く把握できず、後傾になりがちだった。しかし、コースの後半になると、雪に慣れ、雪面が荒れている部分でも最高の滑りができたと感じた。

バレ・ブランシュの滑降開始点で
3月13日 シャモニー⇒クールマイユール⇒シャモニー
 雪が降ったので、ただもうがむしゃらに滑っているだけだった。

3月14日 シャモニー⇒フィスプ

3月15日 フィスプ⇒グリンデルワルト

3月16日 ウェンゲン、メンリッヘンでスキー

 天候はあまりかんばしくなかったが、グリンデルワルトのスキー場の素晴らしさを垣間見ることができた。特にウェンゲンとメンリッヘンのロングダウンヒルコースは最高だ。メンリッヘンは素人のダウンヒラーのためのコースだ。

3月17日 フィルストでスキー

 フィルストに登る。ここは広いスキー場で、わたしは昔のフランススキーのように、ローテーションでターンした。ここまで広く、平らなスキー場であれば、ローテーションで滑っている方が楽しいかもしれない。いや楽しい。

 めざすはスピードに負けない、強い滑り。

3月18日 ラウバーホルンでスキー⇒ジュネーブ⇒

 ヨーロッパでの最後の滑り。ラウバーホーンでは、気持ちよくスピードに乗った、スムーズなスキーが楽しめた。

3月19日~21日 パリ

3月22日 パリ⇒パリ・オルリー空港⇒

3月23日 アンカレッジ⇒ソウル⇒成田空港

今回の収穫

・エアターンのマスター

・スピードの克服

・長距離滑降の持久力

・ジャンプターンのマスター

悪い癖

   ・ローテーション

1980年ヨーロッパアルプス・スキーツアー報告書

グリンデルワルトのスキー場

≪プロローグ≫

 今回ツアーを組んではるばるヨーロッパくんだりまでスキーをしに出かけてきた連中は、金持ちの子弟でもなければ、ましてや今をときめく金権政治家や高級官僚の子孫ではありません。あたりまえです。わたしたちはただの若いもんたちなのであります。その「ただの人」がどうやって海外スキーツアーを楽しんできたか、それをみなさんに知ってほしいのです。そうして「ただの人」がどんどん海外へ行って自分のカラをつきやぶって帰ってきて、もう一度日本を、自分を見つめなおす機会にしてほしいのです。


≪どうやって海を渡るか≫

 まず、飛行機。これはいろいろありますが、初めての、金のない人でしたら、あまりウワサを気にせずに、惑わず安い航空会社にすべきです。たとえば大韓航空というと、多くの人は韓国に対する感情から、少し馬鹿にしたような顔をしますが、ところがどっこいサービスは良かったのです。酒類は飲み放題だし(もっともたんと飲むには少し根気がいる)、おねえちゃん(スチュワーデスとも)も欧米の航空会社よりずっと親切だし、だいいち親しみやすい顔つきなのです、お互いに。

 安いと危ないのではないか?という素朴な疑問と不安をいだいている人がいるようですが、旅慣れたひとというものは、名より実をとるものです。JALなんかで行ってみなさい。外国の空港に着くまで、まるで小学校の遠足です。


≪陸は何で?≫

 えー。まず鉄道でしょう。飛行機という手もありますが、貧乏人には背伸びした感じになる。鉄道が良いのは、日本としきたりが大して違わないので、安心である。夜行列車をホテル代わりにできるし、昼は適度なスピードで移り変わる車窓の風景を眺められる。長距離列車の座席は、6人一部屋のコンパートメントになっているタイプが多い。運よくきれいな現地の女性と一緒になったら、わざとらしく声をかけてみるのも楽しいや。少しくらい恥をかいたって、どうせもう会うことはないだろうし...。大きな都市には地下鉄やバスがあり、東京よりも移動しやすいこともある。ただ、どうやって使うかは知らなければだめです。それさえ知っていればいいのです。

夜行列車で晩酌

≪どこで寝るか?≫

 わたしたち「ただの人」は、24時間徹底してサービスを受ける、という立場になったことがないから、ホテルのサービスはちょっと気が重いです。サービスが無料であれば文句はないのですが、大抵は有料です。宿泊料金の中に含まれていると考えるのが妥当です。余計なサービスなどなくて、その分安いほうが良い。旅を続けていくのに支障がない程度のサービスで充分です。このように開き直った気持ちになると、日本での日常生活以下のレベルになっても、さして気にならないのです。後に書きますが、わたしたちはずっと1泊2,000円以下の安ホテル・ペンションでけっこう楽しく、何よりも気楽にやってきたのです。こうやって浮かした金を、さらに有効に使うのです。

シャモニーのスキーステーションで

≪だいじなこと...食うこと≫

 なんたって自炊。向こうにいってみると、いらっしゃーいとばかりにスーパーマーケットがいたるところにあります。これを見逃す手はありません。グループでの旅ならば、ほんとにわずかの食費で、おいしいものを腹いっぱい食えるのです。もっともおいしいフランス料理というわけにはいきませんが、それでも外国料理にはなるのです。スーパーには米もしょう油も売っているので、まぜご飯やチャーハンもできるし、肉は、特に牛肉は安くて非常においしいのです。ジャガイモの塩ゆでや野菜サラダは、日本で食べるのと一風変わった味がしてへんてこですが、これもまたおもしろいのです。


≪明日へのエネルギー 酒≫

 これについては行った連中にそれぞれ思い出があるだろうが、わたしたちはまあ良く飲んだ。宿泊費と食費で浮かした分は、ほとんど酒代にまわったかな、というくらいである。しらふでいる時は大人しい人も、お酒が入ると元気になって異邦人にも気軽に声をかけたりする。ちょっと酔っているくらいのほうが、過度の羞恥心から解放されてコミュニケーションが良くなるみたいだった。帰ってきてからワイン党になって、通ぶったりしている人もいるようです。


≪スキー場の印象≫

Ⅰ シャモニー(フランス)

グラン・モンテ

 シャモニーの町から6㎞、バスで20分のところにある。ゲレンデはロープウェーにてクロワ・デ・ロニョンまで標高差700mを一気に登ると、横に広くタテに長い広大なゲレンデが広がっている。そこにはさらにロープウェーがグラン・モンテの頂上近く、標高3275mまでのびている。(下から上までの標高差は1960mにもなる)その他、リフト(ダブルのみ)、Tバーが広大なゲレンデに広がっている。また、ゲレンデの近くには氷河もあり、青氷がパックリと口をあけている。ロープウェーの終点から下まで休み休みおりても1時間半かかった。上はひざまでの新雪で、下はダウンヒルコースのバーンになっている。

(SK

グラモンテで

フレジェール

 ここはシャモニーからバスに乗り10分ぐらいのレ・プラにある。ロープウェーでリフトがあるところまで上がり、そこでスキーを楽しむ。リフトにはアルミでできたカバーがついていて、窓から外が見えるのだが、その日は霧で何も見えず、滑るときもスキーを楽しむというより、コースをはずれないように旗を捜しながら、ただ下りてきたという感じであった。他にもペアリフト1本とTバーが1本あったが、斜面はゆるく初心者向きであった。

 なお、フレジェールをはじめシャモニーのスキー場は樹林帯を越えた台地上の所にあり、そこまではロープウェーで行く場合が多い。

(SKa)


ブレバン

 我々の泊ったホテル「スキー・ステーション」のとなりにブレバン行きのロープウェー乗場がある。そこからロープウェーでプラン・プラまで行くと、そこがゲレンデになっていて、リフトやTバーが合計5本と他のスキー場に較べると比較的小規模であった。プラン・プラからまたロープウェーで10分ほどでブレバンの頂上へ行ける。ワインを飲んで酔っていたせいか、地図の上では上級(エキスパート)コースだが、さほどでもなかった。雪質、景色とも良く、日本人の切符切りの兄ちゃんがいた。

(TH


レ・ズッシュ

 シャモニーのビッグ・ゲレンデ(グラン・ピステ)は全部森林限界をこえているが、ここレ・ズッシュは標高1,000から2,000mに位置しているので、雰囲気が日本のスキー場に似ている。上級者よりも初・中級者がじっくり滑りこむのに適したバーンである。五竜とおみスキー場のテレキャビンと全く同じやつで上まで行き、南北に長いシャモニーの谷と、それをとりまく赤い針峰群やエギーユ・ベルト、エギーユ・ド・ミディの景色を楽しみながら、自動車道まで下ってこれる。

(TK



Ⅱ ツェルマット

アルプスの象徴マッターホルン(4,478m)のふもとに広がる変化に富んだスケールの大きいゲレンデ。街中は車をシャットアウトし、馬そりと電気自動車が行き交う静かな町。

 スキー場はゴルナーグラート、ブラウヘルト、シュバルツゼーの3つに分けられる。ロープウェーを4つ乗りついでプラトー・ローザ(3,499m)につき、テオデュル峠まで下ると、ここはスイスとイタリアの国境である。ツェルマットのTバー1本で足馴らしの後、イタリア側へと滑り降りた。人の姿はほとんどない。長いダウンヒルを終え、チェルビニアの町につく。テオデュル峠のゲレンデは、上部がよこに広がっており、見わたすかぎりゲレンデが広がっている。野沢スキー場のTバーなどは目ではないといった感じの長いTバーが無数にある。

 ゴルナーグラートヘは駅前から登山電車に乗り50分で、電車をおりたところから街まで、ゲレンデはなだらかに広がっている。

(SK

ツェルマットへ行くSKを見送る

Ⅲグリンデルワルト

フィルスト

 グリンデルワルト周辺は、ダウンヒル競技に適したスキー場が多い。ここもその1つで、何年かおきにワールドカップの大会もある。ここにある横がけのダブルリフトは欧州最長といわれている。ゲレンデ自体はただ広いというだけで、これといった特徴はないが、景色の良さは第一級だ。岩山のわきから滑り出し、ふもとに近づくと小屋の中で春を待つ羊たちがメエメエとないている、ヨーロッパらしいところです。

メンヒを背に

ウェンゲン

 ヨーロッパにはダウンヒル3大クラシックレースというのがある。そのひとつのウェンゲンのラウバーホルン大会は毎年ここで開かれる。本物のダウンヒルレースをやるピステがどうなっているのか、少なからず興味を持っていた。実際に見て、滑ってみたところ、それほど大したコースではないように感じた。しかし、そこを直線的に、より短時間に滑り降りる競争をしたら、それはもうものすごい滑りにならないはずはないだろう。そんなレースを見てみたいなと、夏は羊の散歩道になりそうなゲレンデを直滑降しながら思った。


メンリッヘン

 ここの長いリフトには前掛けがついていて、雪の降る日に乗っても、融けた雪が衣服を濡らすことがない。このリフトの長さからして、こういう装置は助かる。ここにはダウンヒルコースがあり、滑ってみたところ、スピードが出るの出ないのって気分最高。そう桜木さんはかっとばしすぎて、ついに転倒、3回転ひねり、板は空中に舞っていた。もうだめかと思ったら、頭を真っ白にしておきよった。ゲレンデが長いととばし屋が多くいて、滑降用のストックを持ってギンギンだった。

(TH)

アイガーまで続く雲海

ラウバーホルン

 ここのスキー場の良さは、なんといってもアイガー、メンヒ、ユングフラウを真向かいにおいて滑る豪快さである。クライネシャイデックからラウバーホルンめがけて一気に登る2人用Tバーで頂上につく。ゲレンデは中程度の斜面でコブは少ない。

(TK

アイガー北壁をバックに

Ⅳ クールマイユール

 となりの国までスキーに行くというと大げさだが、クールマイユールにはシャモニーの駅前から出るバスで30分ぐらいで着いてしまう。国境ではフランス側とイタリア側と2回パスポート見せたが、ただパスポートの表紙を見せるだけであった。が、わたしの隣りに座っていた黒人は少しあやしそうな目つきをされていた。

 街からゲレンデに上がるロープウェーは100人乗りで、そのバカデカサに驚いた。ここからの眺めは、モンブランやグランドジョラスが見えれば最高なのだが、霧で何も見えなくてコンディションは最悪、スキーもそこそこにしてのんびりとまたシャモニーのスキー・ステーションに帰った。天気が悪かったのは残念だった。

(SKa)

クールマイユールで

≪ソルボンヌ・ホテル≫

 今回のスキーツアーで、わたしたちは1回だけホテルに泊まった。花のパリのそれもカルチェラタンの真っただ中という「ことば」から連想すると、きっとソルボンヌ・ホテルはすばらしいところにちがいない、なんて思う。まあ、すごいホテルにはちがいない。


 まず、天井がやたら低い。それもはんぱじゃない。わたしなどはちょっと背伸びをすると手がつかえてしまう。そして床が傾いている。オレンジなどを落すところがっていくし、歩くときは傾斜に応じて前かがみになったり、そり身になったりするテクニックを必要とする。その他もあかりがくらいとか、話す声がとなりの部屋につつぬけとか信じがたいことの多いホテルではあったが、支配人らしきばあさんの気さくさと、何よりも朝食付きで3泊100フランというのが魅力であった。


 ともあれ、とんだ偶然からソルボンヌ大学(パリ第一大学)のとなりのソルボンヌホテルに5泊してしまったことだ。

ソルボンヌ・ホテルの名刺

≪いくらかかったか≫

宿泊費16泊 25,000円

食費    36,000円

航空運賃  208,000円

現地交通費 44,000円

リフト代  15,000円

物品購入代 80,000円

合計    408,000円


 宿泊費、食費、リフト代が予想を下回ったので、その分を土産代に回すことができた。当初からの目標だった「40万円でヨーロッパでスキーを」が達成できて満足している。この、すべて込みで40万円というのがいかに安いかは、今冬全国スキー協議会で企画しているヨーロッパ・スキーツアーが、わたしたちの半分の9日間の日程でありながら、ほぼ同額の395,000円であることで良く分かると思う。もっともスキー協の企画も一般の旅行会社の企画とくらべれば安いほうなのである。


≪ひと旅おえて≫

 今回わたしがヨーロッパへスキーへ行きたかったのは、第一に本場のスキーを体験したかったからである。これについては、スキー学校に入ってスキーを習う機会に恵まれなかった反面、バレ・ブランシュやグリンデルワルトで想像をはるかに上回るスケールの大きいスキーができたことで目的をとげられたと思っている。


 今回第二に意図していたのは、海外スキーをいかに安く楽しく実行するかであった。結果として10日から20日間程度のヨーロッパ・スキーツアーは30万円を少しこえる予算で充分楽しめるという確信をもった。


 わたしたちは、成田とパリの間の往復キップを買っておいただけで、交通機関ならびに宿泊施設についてはすべて予約なしで行動した。7人のグループで自炊のスキー行がやりとげられた自信は大きい。このことで得た教訓は「もう海外は手作りで楽しめる」ということだ。旅行会社の企画に乗せられて名所見物なんていうのはもう昔話である。


 この報告書には書かれていないが、旅行中にずい分とみっともない、人にいえないような失敗を、みんな沢山しでかした。中には、今思い出しても腹が立つようなこともあったが、それは本人がいちばん悔いていると思うから、あえてわたしの記憶にだけとどめておこう。旅の途中で会ったある方に「リーダーのかたはさぞ気が疲れるでしょうね」といわれた時、みんなはスーパーマーケットで、ああでもないこうでもないと買い出しをしているところでした。ひとの気持ちも知らぬげに。


 なにやかにや思い出すことは沢山あるけれど、わたしが今この報告書をまとめあげて嬉しく思うのは、みんないろいろ苦労したけれど、それでもまた行ってみたいという気持ちを強くいだいているのを感じることだ。はじめての海外だし、失敗があってあたりまえ。ケガや致命的なミスもなく、ヨーロッパアルプスのフトコロで東洋の一小国の男女がスキーを「自力で」やったのはみんな自身の人生で「快挙」だったはずだ。


 また行こう。フランス人も、スイス人も、アメリカ人もみんな親切だった。確かに自分と同じ「ひと」だった。こんどはもっと楽しく、安く、世の中を見に!


1980年2月10日日曜日

五竜とおみスキー場 1980年2月10日、11日

2月10日

 前回の志賀高原でのスキーは、新しい靴と板でやったのだが、靴が足に当たって痛く、道具としての性能を十分に把握できなかった。自分では気持ち良く滑っているようでも、8ミリ映写機で撮影された滑りを見ると、今少し改善すべき点がある。たとえば、右ターンの際の外足への乗り込み不足である。それで、そのあたりに注意して今回は全てみた。また、他のクラブ員を教えたりもした。


2月11日

 SAJバッジテストの2級を受けてみることにした。午前中は受験対策の特別講習を受け、午後に受験した。パラレルターンは高得点だったが、ウェーデルンの点数はあまり良くなかった。これは、左右のエッジの切り返しが早すぎて、外足への乗り込み不足が目立ったためだと思う。


 結局2級はパスしたのだが、1級を受験する前に、もう少し正確なスキー操作を練習する必要があると思った。

 

1980年2月2日土曜日

志賀高原スキー場 1980年2月2日~5日

 前回のスキー行で得た自信をもとに、スキー道具を全面的に変更する。

 靴は、ノルディカ・アストラルプロ(′76~)からダイナフィット・スーパーコンペSLにした。板はブリザード・セキューラライト、180Cm(′76~)、ブリザード・ファイヤーバード200Cm(′77~)、ロシニョール・ストラート105、200Cm(′78~)、ヤマハ・ハイフレックス195Cm(′79~)と毎シーズン変えてきた。これをケスレー・RXコンビ205㎝にした。


2月2日

 一の瀬ファミリーとダイヤモンドで終日滑る。新しい靴と板の機能は素晴らしいと思うが、靴が足に当たって痛いので、思い切り飛ばせない。靴は返りが早く、切れも申し分ないと思う。205㎝は少し長いが、慣れれば丁度いいだろう。


2月3日

 一の瀬で滑る。昨日は板に慣れないせいもあったので、踏みかえターンや片足ターンばかりやっていた。今日はエッヂを処理したところ、引っかからずに上手くパラレルターンができた。特にナイターでは調子を上げて滑ることができた。

 しかし、靴は依然かかとに当たって痛い。


2月4日

 ゲレンデめぐりをやったので、あまり気を入れて滑ることはできなかった。堅雪のところがあったが、この板はそこにも強いことが分かった。靴のほうは、歩行などするととても痛く、立っていられないほどだった。


 コブとアイスバーンの処理を考えること。