1972年12月30日土曜日

遠見尾根

 昨年に引き続き、冬期合宿として神城山荘にスキー練習ならびに冬山登山訓練に出かけた。

 今回は、M先生が主にスキーを教えてくれた。Mさん自身も神城山荘に泊まっていたスキーの上手い人に「スピードを出し過ぎている。」と注意されていた。それでも、僕たち部員に教えるには十分なスキー技術を持っていた。僕は、教えてもらってもそう簡単には上達せず、プルークボーゲンで緩斜面を滑るのがやっとだった。


 この当時高校の山岳部では、危険であるとの理由で冬山登山が禁止されていた。おそらく、県の教育委員会レベルの決定ではないかと思う。冬山登山というのが、どのような登山形態を意味するのか不明確だが、おおよそ積雪地帯における幕営しながらの山行であると、部では解釈していた。


 山岳部の部長である僕は冬山登山がなんとかやってみたかった。そこで、窮余の策として、積雪地帯の日帰り登山を遠見尾根で行うことにした。山荘をできるだけ早朝に出発し、遠見尾根をなるべく上まで登り、その日のうちに山荘まで戻ってくるという計画である。


 天候の良い日を選んで実行した。まだ暗いうちに山荘を出発し、ヘッドランプをつけて地蔵ノ頭まで登ると、雲の間から太陽が昇って来て、あたりが朝焼けに染まった。引率はM先生で、大学時代に山岳部を経験しているが、磯工生の部員はほとんどが雪山は初めてである。尾根には踏み跡が明確で迷う心配はないが、積雪量が多いので歩きにくく、登るスピードは普段の半分ぐらいである。

遠見尾根で 1972年12月

 昨夏登った小遠見山を過ぎて、中遠見山へ向かう。尾根の傾斜は緩くなったが、積雪量はさらに増えてくる。中遠見山を過ぎた、僕としては、時間的にみて大遠見山まで行って来られるだろう、と思ったが、M先生は余裕を見て中遠見山から引き返す、と決めた。


 若干物足りなさが残ったが、そこは先生の決定にきっちりと従った。


1972年11月19日日曜日

塔ノ岳

 僕は山岳部の部長だが、大会に参加することは嫌いである。しかるに、顧問により強制的に大会に参加させられる。このことに対して疑問があるのだが、まだ強く言うほどの実力もないので、仕方なく新人大会へ行く。


 渋沢からバスに乗り、堀川で降りて四十八瀬川沿いの林道を行く。土ぼこりが舞い、額から汗が流れる。右から大倉からの道を合わせ、さらに奥へと行く。他のパーティーも行く。谷を渡るたびに、道は蛇行せねばならない。ようやく二俣の天幕場に着く。


 山に登ることについて、何の感慨もなく、何の意欲もない。こんな山行をなぜしなくてはならないのか。槙有恒は「集団登山の意義は交歓のみにある」と言っていた。実にそうである。しかし、それも今は昔である。僕たちがキャンプファイヤーを囲んで歌っていても、他校のパーティーは誰も入って来なかった。


 翌朝、またぞろ歩き出す。林道から登山訓練所尾根に入る。暗い植林の中をしばらく行く。大会なので道端に捨てられた空缶を拾いながら登る。尾根が急になり、日当たりが良くなった所で休憩する。四十八瀬川の下流を見やると、朝もやの中に逆光の光が透き通っていく。

登訓尾根で 1972年11月18日
 尾根がさらに急になり、熊笹があたりをおおうようになる。尾根の傾斜が緩んでくると、ひょっこりと鍋割山稜の小丸付近に出た。そのあたりで昼食をとり、しばし交歓会をやって、塔ノ岳へ向かう。山頂でおかしな体操をやってから、大倉尾根を駆け下った。

 

1972年10月8日日曜日

新茅ノ沢

 先月に引き続き沢登りである。前回は台風が近づいてきているのに、なぜ中止しなかったのか、とM先生がA先生やT先生から怒られていた。そんなことが影響したのかどうか知らないが、今回はT先生が引率することになった。

 大倉から戸川林道を行く。うす暗くなる頃新茅橋に着いた。そこで幕営する。T先生の得意な小言をこの時はくらったかどうかは覚えていない。

 翌朝は早く起きて、まずモミソの懸垂岩で少し登降練習をした。その後幕営を撤収して荷物を新茅橋の下にデポして新茅ノ沢に出かけた。

 まず、連続する滝を難なく越えて行き、しばらくゴーロが続くと、目の前に新茅ノ大滝が現れた。T先生がまず巻き道を登り、滝の上からザイルを垂らす。先生の確保でまず僕が滝を登っていった。滝の途中でシャワークライムになり、苔がつるつるして嫌だった。上について先生と確保を交代し、他のメンバーをつぎつぎ引っ張り上げた。1年のSが途中で1度滑った。


 そこからは水量が少なくなり、もう流水が無くなるというあたりで昼食にした。そこからさらに登って、烏尾山の晴れた山頂に昼ごろに着いた。山頂でのんびりと休んだあと仲尾根を駆け下り、新茅橋にデポした荷物を背負って戸川林道を大倉へと戻った。


1972年9月25日月曜日

水棚沢

 体育祭の次の日くらいに出かけた。磯工山岳部の山行は大抵キスリングを背負っていき、幕営するのだが、今回はサブザックで日帰りの沢登りとした。夏期合宿をもって3年生が引退したあとは、2年生が山行を計画することになっている。僕が部長になったので、僕の提案でこの山行を計画した。


 新松田駅に朝の7時頃に集合した。バスに乗って宇津茂まで行き、そこから歩いた。今年7月の豪雨の影響で、河原が前に比べてずいぶん拡がっている。滝郷沢をすぎて、堰堤を巻いて行くと、見覚えのある水棚沢の出合に着いた。昨年11月にこのあたりでキジを撃った際に1000円失くしたので、探してみたが見つからなかった。


 水棚沢を遡行していくと、つぎつぎ堰堤が出てきた。わらじに履き替えて、岩がゴロゴロしているゴーロを行くと、崩れかけた滝があった。そこを越えて、沢幅が狭まってくると20mの滝があった。この滝は、M先生と僕だけが登ることになって、他のメンバーは高巻くことになった。Nは真っ先に巻き道に向かった。他のメンバーもぞろぞろとそれに付いて行った。


 20mの滝は、中段までは簡単に登れた。そこからわずかの間滑りやすい部分があったが、あとは簡単に登れた。そこから上に10m程度のおもしろい滝が3つほど連続した。そこを抜けると堰堤があり、その上で高巻きしたメンバーと落ち合った。高巻きしたメンバーは、核心部をぜんぜん楽しめなかったことを知り、悔しがっていた。ここで昼食をとった。


 水が少なくなってきた沢をさらに遡り、二俣を右に入り、ガレ場をほんの少し詰めると、檜岳の山稜にひょっこりと飛び出した。雨山へ行き、雨山峠から宇津茂に下った。

 

 途中沢沿いにあるアケビやクルミを取ったりして面白かった。


1972年8月29日火曜日

小遠見山

 僕自身の高校生活において、何かのきっかけがあったのかと見るならば、この山行が重要であった、と明記しなければならないだろう。しかし、このようなことは、他人に理解してもらうのは難しいことではないかとも思う。


 真夜中近く、A先生の自動車で、昨冬磯工山岳部の冬期合宿でスキーをしに行った神城の小屋へ向かった。僕だけが誘われたのかと思い込んでいたが、他にも磯工生が何人かいたので意外だった。

 夜の道を飛ばしていった。相模湖で中央高速道路に入り、大月で国道20号線に降りた。甲府から諏訪へ向かう途中で1回休んだ。あたりがぼんやりと明るくなる頃に仁科三湖を過ぎて、見覚えのある神城の小屋に着いた。しばらく休んでから白馬まで買い出しにでかけ、その後小屋の周りで少し遊んだ。


 翌日は、たしか仁科三湖に釣りに出かけたと思う。でも何も釣れなかった。沖縄について少しばかり必要なことを知った。米軍に対する激怒があった。これがのちにもの凄い重さをもってきたのだった。


 次の日は、たしか山に登ったと思う。天気は上々だった。地蔵の頭まで登る八方尾根や五竜岳のほうが良く見えた。すこしスケッチをしてから小遠見山まで行った。さらに眺望が良くなった。槍ヶ岳も見えた。


 その翌日は、小屋でゴロゴロしてから、夜遅くになってまたA先生の自動車で小屋をたった。


 今(1973年10月)思い返してみると、あの頃の自分がとてもいやらしく思える。自分の考えがなくて、まるで子供の様に毎日をなすがままに生きていた。でも、今はいったいどうであろう。果たして自分というものがあるだろうか。自分とは一体何であろうか。やはり僕はそのあたりから考え直してみなければいけないような人間のような気がする。

 

 いつも考えは千々に乱れる。考える力が無いのではない。おそらく考えが行き着くところが恐ろしいのだと思う。

 

 もうすぐ磯工祭がはじまる。

 

1972年8月10日木曜日

鳥海山

父の実家に遊びに行っているあいだに東北の名峰、鳥海山を登りに行きました

8月9日

陸羽東線から陸羽西線を経由して羽越本線まで直通の急行列車に乗りました

酒田までは混雑していましたが、酒田から象潟までは座ることができました


象潟で少しバスを待ち、登山口を目指しました

バスは鳥海山のすそ野に広がる樹林帯を、ゆっくりとゆれながら登っていきました

大平小屋を過ぎ、終点の鉾立でバスを降りました


いつもの癖ですぐに歩きはじめました

新山の頂上が見え隠れしているところを越すと雪渓があり、そのすぐ上が御浜小屋でした

小屋の前を通ると小便臭がしました


鳥の海を右下に見て、ゆるい傾斜のところを上り下りすると外輪山の末端に着きました

ガレ場をトラバースして雪渓に降ります

そこで祖母が持たせてくれた10個の茹で卵のいくつかを食べました


雪渓通しには行かないで、岩のゴロゴロしたところをさらに登ります

稲倉岳は眼下になりましたが、新山の頂上はまだ頭上遥かです


急登を続けると再びトラバースの道になり、頂上の小屋の前に出ました

小屋に荷物を置いて、頂上の往復に出かけました

岩峰というよりは、大岩を積み重ねたようなピークです

足元に気をつけながら登るとすぐ頂上に着きました

今夜は頂上の小屋で泊まります


8月10日

翌日は河原宿へ降りました

南面の日当たりのよい広大な斜面に、高山植物がたくさん生えていてきれいです

河原宿からさらに湯の台まで下り、そこからバスに乗って酒田へ出ました


1972年8月6日日曜日

吾妻連峰

どういうわけか磯工山岳部は高校総体の全国大会(インターハイ)に出場できることになりました
出場できるようにT先生がいろいろ準備したといううわさがもっぱらでした
参加するための旅費は全額支給されましたので経済的な負担はありませんでした

8月1日

新橋のT先生の家に前泊して、早朝上野駅から山形行きの特急に乗車しました

駅に着くのが遅れて、もう少しで乗り遅れるところでした

列車の中ではいろいろと打ち合わせることがありました

ぜんぜん特急列車に乗っていること楽しむことができませんでした


米沢に着くと、地元の中学生が大勢で歓迎してくれます

バスで白布温泉まで行き、中屋という宿泊先の旅館に入り、温泉でゆっくりくつろぎました


8月2日

翌日は登山競技の開会式があるので、またバスで米沢まで行きました

校庭で火縄銃のデモンストレーションを見せてくれました

ものすごい大音声がしたのでびっくりしました


市民会館のなかで行われた開会式では槙有恒氏の講演がありました

「集団登山で得るものは交歓しかない。」ということばが印象的でした


開会式が終わってから、またバスに乗り、登山口の峠まで行きました

途中バスの中で少し寝てしまいました

峠からは林道を1時間ほど歩いて滑川温泉に着きました

天幕を張って食事の用意をしていると、ポツポツ雨が降ってきました


8月3日

翌日も朝から雨でした

午前中は天幕の中ですごし、午後は姥湯というところまで足慣らしに出かけました

姥湯はなにか地獄のようなところでした


8月4日

その翌朝もまだ少し雨が降っていましたが、出発することになりました


姥湯への道から分かれて沢に入りしばらく行くと沢を抜けて霧ノ平の鞍部に着きました

なかなか見晴らしが良いところでした

吾妻連峰で 1972年8月

樹林帯の尾根を登っていくと家形山に着きました

眼下には五色沼が雲の移り変わりに応じて様々に湖面の色を変化させていました


五色沼の向こうにある一切経山に登ります

丈の低い草原のところは風が強く吹いていました

写真で見覚えのある吾妻小富士がすぐ下に見えました

その右手が今夜の幕営地でした


8月5日

キスリングを天幕の中に置いて、サブザックで東吾妻山に登りました

針葉樹のジャングルをぱっと抜けて気持ちの良い草原になるとそこが眺望の良い山頂でした


鎌沼で昼食をとり吾妻小富士の麓まで戻りました

吾妻小富士は富士山のような形をしていますが、山頂までは5分ぐらいで登れました

火口の中に降りると、ぐるりと火口壁に取り囲まれて、すり鉢の底にいるような感じがしました


吾妻小富士の麓からまた中屋までバスで行きそこに泊まりました


8月6日

閉会式で優秀校の発表があり、磯工山岳部はその中に入っていませんでした

メンバーのみなと米沢駅で別れ、そのまま父の実家のある宮城県の古川へ向かいました


1972年7月27日木曜日

飯豊連峰

磯工山岳部の夏期合宿で飯豊連峰へ行くことになりました

なぜ目的地が飯豊連峰に決まったのでしょうか

夏期合宿の行き先は、おおむね3年生の意見によって決まります

今回は2年生の意見も少し聞いてくれました


わたしはは飯豊連峰へ行くことを主張しました

その理由は、なるべく高い山、著名な山に行くことばかりが能ではないということです

高校山岳部にはそれなりの山の選び方がある、ということです

一旦はそのように主張したのですが、次に北アルプスに行きたいと主張しました


他のメンバーからは南アルプスなどが提案されました

部長のIさんが断固飯豊連峰を主張したので、結局飯豊に行くことになりました

Iさんはわたしの最初の意見に共鳴したのかもしれません

わたし自身はその後自分の意見を簡単に変えてしまいました

自分自身の考えにもとづく意見ではなかったので、簡単に変わってしまったのでした

誰の意見だったのでしょうか?


結果として、わたしの飯豊連峰の印象はあまり良くありませんでした

ブヨや蚊が多く、キャンプ場も整備されていませんでした

テント設営や三食の調理はそのたび手間がかかりました

加えて前半期間に天候に恵まれなかったことが山の印象をさらに難しいものにしました

最後のピークではそれなりの高揚感はありましたが・・・

朳差岳で 1972年7月26日


1972年6月25日日曜日

塔ノ岳

幸か不幸か、磯工山岳部は今夏の高校総体の全国大会に出場することに決定しました

そのため先週行われた山岳部のボッカ訓練には参加できませんでした

県の登山訓練所で行われる今回のリーダー講習会に参加するためです


6月24日

いつものように大倉から四十八瀬川沿いの林道をてくてく歩き二俣に着きました

今回は新しい登山靴なので、足に当たって痛くなるかと思っていました

ここまでは大丈夫です


6月25日

翌朝は雨でした

出発時間を遅らすとのことです

時間調整が主目的のようなつまらない話をいくつか聞いてから登りはじめました


先頭は向の岡工高の顧問のK先生です

わたしたちのパーティーはボッカ訓練も兼ねているので、荷物をわざと重くしてあります

小草ノ平までは少しばかりきつく感じました

そこから塔ノ岳までなんとか足はつらずに行くことができました


新品の靴がなんだか足に当たってきたようで、少しばかり憂鬱になりました

下りになると本格的に当たってきました

大倉についてようやくほっとしました


この日からインターハイまでずっと調子が良くありませんでした


1972年6月18日日曜日

鍋割山から表尾根

この山行についてなぜかどうしてもその記憶を呼び起こすことができませんでした

磯工山岳部のボッカ訓練です

わずか1年あまり前のことですが、なぜでしょうか


仕方がないのでここではこのごろ思っていることを書きます

題して「無意味な大会の参加」です


まず最初に自分が何を言いたいはっきりしておきます

「高校の山岳部にとって大会に出るの意義は無に等しく、参加することの弊害が大きい」

わたしが高校総体(インターハイ)に参加した経験にもとづいて書いてみます


まず、精神面において発達途上にある高校生が登山の本質を見誤ることです

登山というのは本来競争とは無縁の行為です

それをスポーツ競技として行うことに無理があります

橋の渡り方、歩行の間隔、天幕の設営、調理、天気予報など

これらの登山中の行為を競技ととらえて優劣をつけることに積極的な意味はありません


登山を競技とすることは無意味であるだけでなく高校生の登山の重要な価値を損ないます

その価値とは登山を通じた人間的成長です

競技的な登山はそれを妨げる可能性が非常に高いと思います


大会の参加者が登山中に最も気にすることは、上位に入れるかどうかです

登山を通じて交流し、交歓や友好の感情を味わうことではありません


わたしが感じたのは「高校生は大会への参加を自発的に希望してはいない」ということです

顧問の先生から大会に出ることを半ば強制されているケースが多いのです

休日返上で山行に付き合ってくれる顧問の先生から言われたことを断れないのです


良くわからないのは、なぜ顧問の先生は生徒を大会に参加させたいのか、です



ここまで書いてきてようやくなぜこの山行の記憶がないのか分かりました
それはこの山行にわたしは参加していなかったからです
翌週に行われるリーダー講習会に参加するためこのボッカ訓練は不参加にしたのでした
これでようやく納得がいきました

1972年5月28日日曜日

大群山

磯工山岳部は今年の夏に行われる高校総体(インターハイ)に参加できるそうです
その予選が行われる前にT先生からそう言われました
予選の前から本大会に参加できることが分かっているのはなぜでしょう?

それはともかく4人のメンバーのひとりに加えられて予選に参加することになりました
メンバーのあとの3人はすべて3年生で、わたしだけが2年生です
他の2年生には申し訳ないような、うれしいような気持ちです

5月27日

昨年の関東大会の時と同じように箒沢から歩きます

いぜんは砂利道でしたが最近舗装道路になって、かえって歩きにくく感じます

川を渡ると、いつもより早く箒沢山の家に着いた感じがしました


簡単な開会式があって、さっそく天幕の設営になりました

ことさらニコニコ笑顔で設営しました


夕食はオープン参加している磯工山岳部のパーティーと一緒に食べました

その後大会参加者全員で歌を歌いました


5月28日

翌日は雨でした

またオープン参加パーティーのところで朝食してから、荷物をパッキングしました

キスリングは段ボールを使い見かけ良く大きくしてありますが重さは15キログラムしかありません

大会用のハリボテです


事前申告した時刻より15分ほど遅れて出発しましたが白石峠には予定どおりに着きました

そこから時間調整のために休憩したり、道に落ちているゴミをわざとらしく拾ったりしました

そして大群山を予定時刻丁度に通過しました


それから途中でキジを撃ったり、大杉丸で休んだりして時間を調整しました

また予定時刻丁度に犬越路に着きました


ここには各校パーティーの到着時刻を記録している先生がいました

休憩していると向の岡工業と横浜女子のパーティーが来ました


陽木沢の橋のところに、さっき犬越路にいた先生がいて、非常食を携行しているか検査されました

あとはひたすらのんびり歩いて、出発点の箒沢山の家に戻りました


こんな調子ではたしてインターハイに出られるのでしょうか?

予選に参加する前は、そんなことはどうでもいいと思っていました

今は、もし出られなかったらどうしようか、と心配しています

どうしたことでしょう?


1972年5月7日日曜日

鍋割山から表尾根

山岳部に新人が何人か入部してきたので昨年と同じように歓迎山行が行なわれました
4月に校内でビバーク訓練をやったのでみんなだいたい幕営の要領は分かっていました
しかい今回の引率は幕営の仕方について厳しいT先生なので油断がなりません

5月6日

大倉から退屈な林道歩きで二俣まで行きました

ここで幕営します


わたしは天幕を張る担当にされたのでT先生から小言をくらう確率が高くなります

やだな、やだな、と思っているうちに始まりました


「なんだその張り方は」「なんだこの張綱は」「なんだ、かんだ」

分かった、分かった、もう分かりました


5月7日

今回は山岳部で購入した背負子に荷物をくくりつけて来ました

これがメチャクチャ背負いにくいものであることがわかりまし


コースは目をとじても歩けるくらい良く知ったところです

鍋割山から小丸、大丸、塔ノ岳と登り、仲尾根を下りました


背負子に当たるところの背中の皮がむけてきました

それに今回は股ズレもできて、ものすごく悪いコンディションでした


今回の歓迎山行について、新人は取り立てて何も感じていないように見えました

彼らの無感動な様子が残念でした

わたしはこんなに熱中しているのにどうして新人は楽しくないのだろう?


1972年3月20日月曜日

丹沢主稜

学校が春休みに入ったので二泊三日で春山にでかけました

3月18日
憂鬱を目いっぱい背負って出発しました
せっかく親に買ってもらった皮製の登山靴はサイズが小さかったのです
立っているだけでつま先が痛いくらいです
キスリングの荷物の重さも尋常ではありません
それに大倉のキャンプ場は山登りのために来るところではありません
夜遅くまでワイワイ騒いでいる連中が多く、沢の水も汚くて炊事には使えません

3月19日

どんよりとした空の下を大倉尾根を登っていきます

昼食がビスケットだけなんてことがあるでしょうか

しかも1人ひと箱もないので空腹が満たされず急坂を歩く足に力が入りません


塔ノ岳を過ぎて霧氷がばらばらと落ちてくる中を蛭ヶ岳に向かいます

途中丹沢山のあたりで急に雪が降ってきました


蛭ヶ岳の山頂に天幕を張りました

山荘の従業員がやってきてT先生とかなりやり合っていました

天幕を張る場合はあらかじめ小屋に断らなければならないのだそうです

天幕の収容人数ぎりぎりなのでギュウギュウで寝ました


3月20日

翌朝は素晴らしいとまではいえませんがかなり良い天気でした

例によってぐずぐずと出発の準備をしているとT先生がぶつぶつ怒っていました


蛭ヶ岳を下り、臼ヶ岳に登り、少し上り下りを繰り返して檜洞丸の長い登りになります

山頂付近はすごくゴミが多いのでちっともいい気分になれません


足首くらいの積雪の中を熊笹ノ峰を過ぎ犬越路に着きました

もう少し下れば沢水が飲めるのに、わざわざここで昼食にすることはないと思いました

ここまで来て、つま先がひどく痛くなってきました

足をひきずるようにして箒沢に着きました



1972年1月23日日曜日

戸沢出合

磯工山岳部では毎年卒業していく部員を後輩が送る山行をやっています
今年はそれを表丹沢の戸沢出合でやることになりました
なぜわざわざ山奥でやるのでしょうか?
それは人に見られては具合の悪いことをするからです
顧問の教員も気を利かせて参加しません

1月22日

戸沢出合に着いた頃にはもう日は沈んでいました

月がとっても明るかったので天幕を張るのにもヘッドランプはいりませんでした

あとからやってくる3年生を待ちながら1,2年生で夕食を作りました


3年生が8時頃にやって来ました

早速夕食を食べ終わると酒盛りが始まりました

部長のNさんは全然飲まないで寝てしまいました

副部長のNさんは酔ったふりをしているみたいでした


わたしはあまり飲みませんでした

なぜかというとウィスキーはあまり好きじゃないからです


Oは調子に乗って飲み過ぎて嘔吐してから寝ました

Yさんも酔いつぶれていました

あちらこちらで繰り広げられる醜態が明るい月夜に丸見えでした


1月23日

朝から強い風が吹いて天幕が1つ飛ばされました

そんな中でスケッチを2、3枚描きましたが、なかなか上手く描けませんでした


朝食は抜いたうえにひどい昼食をとってさっさと撤収しました


3年生は気持ちよく山岳部を卒業していけなかったのではないかと思います

2年生とあまり仲良くなかったから

来年はわたしたちがIさんたちを送る番です