1973年9月24日月曜日

石老山

 山行の計画を自分で考えるのなら、石老山という選択肢は僕には無かったと思う。兄から行こうと誘われたので、気が進まなかったが行くことにした。兄がなぜ石老山という特徴のない低山に行きたいのか、理由が分からなかった。しかも、行った日は磯工の体育祭当日だったが、それを休んで行ってしまったのである。


 横浜線の橋本駅からバスに乗って三ケ木へ行き、そこでバスを乗り換えてさらに石老山の近くまで行く。バスを降り、いったん道志川まで下り、吊り橋を渡って向こう岸の上に立つ。


 そこから立派な舗装道路を歩く。9月下旬だが、とても暑い。時折大型ダンプが通り、ホコリを巻き上げて走り去った。上に何かあるなと思ったが、案の定、採石場があった。さらに登っていくと牧馬(まきめ)という部落に着いた。右上する登山道に入るが、あまり入山者が無いらしく、薮がひどく、蜘蛛の巣が顔に付く。おまけに日はカンカン照りで、どうにも嫌なところである。


 しかし、さすがに低山だけあった、そんな登りも大して長く続かず、やがて山頂付近に出た。公園の築山のような山頂で、母が作ってくれた弁当を、景色を楽しみながら食べた。


 下山は登ってきた側とは反対側の谷へ向かった。かなり谷に近づいたころに深い樹林帯になり、その間に巨岩が累々としていた。そこを抜けるとバス道路に出た。そこは相模湖ピクニックランドの前を通っている道路で、平日にもかかわらず交通量が多かった。


 

1973年9月16日日曜日

ザンザ洞

 磯工山岳部0Bとの交歓を兼ねた沢登りに行った。


 これまでの2年間半やってきたパターンとは違い、キスリングは車のトランクに放り込んで、玄倉林道を楽々ユーシンまで行った。玄倉川の河原に天幕を張った。夕食までまだ時間があったので、同角沢の入り口付近まで少し登ってきた。帰ってから晩飯を作り、0Bに食べさせると、「まずい、まずい。」と言いながら喜んで食べてくれた。


 次の日は、ザンザ洞の左俣へ行った。ユーシンから檜洞をしばらく遡行すると左からザンザ洞と出合う。右俣との出合にかかる左俣のF3は登るのが難しいので、尾根を高巻いた。しかし、あまり大きく高巻きすぎたので、沢の面白い部分をみんなパスしてしまったような気がした。とはいえ、それからも面白いところが数か所あった。特に最後の方にあった岩の脆い滝は、高度感があってなかなか良かった。そこを過ぎるとすっきりとしたガレ場で、大した薮漕ぎもなく同角山稜に出た。大石山へは少しの登下降があって、そこからユーシンへはカヤトの尾根を一直線であった。


 同行者がしっかりしている山行は、安心できて楽しいと感じた。

 

1973年7月27日金曜日

大滝山ー槍ヶ岳ー薬師岳

 磯工山岳部の年間を通じてのメインな山行である夏期合宿は、行先を3年生が決めるのが慣例になっていた。ついに僕たちの年代が、夏期合宿の行先を自由に決められることになったのだ。僕は部長としてこの時がくるのを心待ちにしていた。


 当初は北アルプスの大滝山、常念岳、大天井岳、槍ヶ岳、三俣蓮華岳、雲ノ平、薬師岳と縦走することを計画した。しかし、夏期合宿は、予備日を含めて7泊8日の範囲で行うという制限があったので、この計画には少し無理があった。そこで、雲ノ平へ行くのはあきらめ、三俣蓮華岳からは黒部五郎岳を経て薬師岳へ行くコースとして最終的に決定した。


 この計画は、磯工山岳部が過去に夏期合宿として実施したいずれの山行よりもスケールが大きかったと思う。しかし、残念ながらこの合宿に参加したのは、生徒は3年生3人、2年生2人、1年生1人に、顧問が2人の合計8人と少なかった。1年生の参加は3人を予定していたが、直前になって1人がケガで、もう1人が下痢のため参加をとりやめた。1年生の合宿参加者が少ないと、後々山岳部の運営に影響がでることが懸念された。


 山行中のアクシデントは多々あったが、そのうちのいくつかについて、反省を込めて書いておく。

河童橋で 1973年7月21日

 まず、3年生のOのこと。Oは大天井岳の手前から調子が悪くなってきて、西岳での1泊を経てなんとかだましだまし槍ヶ岳の肩まで登った。しかしここですっかり動けなくなってしまった。引率のM先生によれば、高山病だろうということで、OはM先生に付き添われて、槍沢から下山することになった。残念なことだった。

常念乗越で 1973年7月23日

 もうひとつは、僕とSの行動についてだった。快晴の槍ヶ岳の肩から槍の穂先へ登る際に、僕たち2人は小槍に登ってみようと思って、勝手に行ってしまったのだ。1年生の時と同様に心が浮き上がってしまったのだ。しかし、肩の小屋から小槍へ行くトラバースで怖い目にあったので、登頂は早々にあきらめて戻った。この行動をM先生に見とがめられて、こっぴどく怒られた。もし事故を起こしたら、その責任は顧問が負うのであるから、怒られて当然のことではあった。

三俣蓮華岳で 1973年7月24日

 さて、この合宿の最後の日は、薬師峠から薬師岳をピストンして、山頂から槍穂連峰をゆっくり眺めた。峠で荷物をまとめ、折立へと下山した。その途中、広々とした尾根から薬師岳を振り返り、日当たりの良い草原で昼食をした。

太郎兵衛平付近で 1973年7月26日

 この時僕はしみじみと、自分の高校3年間の山登りが終わったのだなと感じた。そして、これから受験勉強をして大学入学を目指すのだが、その展望は不良であり、何をどうして良いのか皆目わからなかった。今回の山行で味わったような晴れ晴れとした気持ちを、今度はいつ味わえるのか、全く想像もつかなかった。


1973年6月24日日曜日

塔ノ岳

 今年も夏期合宿前のボッカ訓練を馬鹿尾根でやった。


 例のごとく、大倉の少し先の水無川の河原で天幕を張る。ここのキャンプ場は、夏になるとキャンパーが沢山来て、夜中の12時過ぎまでワイワイ騒ぐ。翌朝早く起きて、山に登ろうと、早寝している人間にはたまらない。しかし、考えようによっては、このようにして敢えて眠れない状況を作り出し、睡眠不足のまま重いキスリングを背負って馬鹿尾根を登るのは、とてもハードな訓練になるといえる。


 翌朝は雨であった。これは梅雨の時期なので当然である。じとじと降る雨の中を登っていく。各人のキスリングは平均30㎏前後であるが、低学年のものほど軽くしてある。僕はすこしも疲れなかった。というのも、歩くのが遅いメンバーと一緒に行動しているからである。


 塔ノ岳の山頂まで、水無川の天幕場から4時間くらいかかった。そして、山頂の隅に、皆が背負ってきた水無川原の石で、小さな、ほんとうに小さなケルンを作った。


 下山は、塔ノ岳から三ノ塔まで表尾根を縦走し、三ノ塔尾根から大倉へ下った。

 

1973年5月27日日曜日

塔ノ岳

 記憶というものは、時の流れとともに移ろいやすい。しかも、自分の生き方にとってあまり重要でない経験についての記憶は、なおさら移ろいやすい。


 この山行は磯工山岳部の関東大会予選として行ったのだが、今(1977年8月20日)思い出そうとしても、よく思い出せない。なので、おおよそのことだけ書く。


 磯工山岳部は2パーティーで参加したと記憶している。例によって四十八瀬川の二俣に天幕を張る。大会だったのだから、きっと設営の最中には、その様子を採点する人がいたにちがいない。夜にキャンプファイヤーをやっても、他校の人が集まって来なかった、というのがこの山行だったかしら。


 翌朝の天気は良好だった。林道を登っていき、小さな道を右に入っていく。大会だったので、空缶やゴミなどを拾いながら登ったのかなと思う。小丸で昼飯を食べたのかなと思う。塔ノ岳の頂上でワイワイと騒いで、たしか大倉尾根を下ったのだ。


 このように、顧問から行けと言われて行った山のことはよく覚えていない。残念なことである。


 

1973年5月17日木曜日

開聞岳

  沖縄への修学旅行の帰途、僕たちのクラスでは鹿児島で丸1日の自由行動日をもうけた。前日の朝那覇を船でたち、一昼夜かけて南西諸島を北上し、今朝鹿児島港に着いた。天気は良くなく、昨夜はまた船酔いした友人の介護をしていてほとんど寝ていなかった。旅行の疲れもあったので、ひそかにあたためていた開聞岳の登山計画は中止にしようかと思った。

 下船して港から皆とぶらぶらと鹿児島市内の中心へ向かって歩いた。開聞岳に行くのをあきらめた気持ちが、からだの動きを鈍くしていた。ふと頭上に「西鹿児島駅1㎞」という標識が目に入った。反射的に腕時計を見ると8時10分前であった。それから僕は皆に「俺は山へ行く」、とだけ言い残して西鹿児島の駅まで走った。そして調べてあった列車に飛び乗った。


 開聞岳は大隅半島の突端にあり、山の南西半分が海にせり出している。富士山と同じコニーデ型の成層火山だが、高さは924mしかない。それで僕は、鹿児島市内からなら日帰りで登れるだろう、と目論んだのである。


 開聞駅から枚聞(ひらきき)神社へ行き、境内から開聞岳へ向かうまっすぐでダラダラと登る道を行く。すると牧場に出て、このあたりから山を時計回りにらせん状に巻いて登っていく。そして丁度1周したところが山頂なのである。面白い。


 牧場を過ぎて林の中に入ると、道を横断して張られたクモの巣が顔にくっつく。また、時折サルが大きな声でギャーギャーと鳴いて気味が悪い。登山靴ではなく運動靴で来たので、湿った岩の道は滑りやすい。半周したころからシャクナゲに似た木がびっしりと生えている。道は大岩のゴロゴロしたところになって、せりあがっていく。最後は手も使わなければ登れない岩場となって頂上に着いた。


 山頂からの眺望を楽しみにしていたが、ガスで何も見えなかった。殺風景な山頂で、麓で買ったパンを食べ、早々に下山する。何本もない帰りの列車にしっかり乗らないと、時間通りに鹿児島へ戻れない。駆けるように下山する。


 開聞駅の近くの食堂に入り、腹ごしらえしてビールを飲んだ。店のおばさんにお金を払うと、おつりを百円札でくれた。


1973年4月2日月曜日

雲取山から雁峠

 春休みには春期合宿としてどこか遠いところへ行ってみたかった。丹沢はいやだった。そこで手ごろな奥秩父にした。当初の予定では、雲取山から縦走して甲武信岳まで行くつもりだったが、予想外の積雪の多さに苦戦を強いられた。印象深い山行だった。


3月30日

 奥多摩駅からバスに乗り、鴨沢の先まで行く。バス停の前の食堂で風変わりな手打ちうどんを食べて出発する。非常に日当たりの良い尾根で汗をびっしょりとかく。1時間もすると雲が多くなり、ガスが出てきた。木の鬱蒼と茂ったところを過ぎて、山腹を左に巻いて行くようになり、石尾根に出た。ここで1人2人と足がつりだした。奥多摩小屋の手前の尾根際で幕営する。みんな疲れたようで、夕食も静かだった。


3月31日

 朝、天幕から外を見るとひどい曇り。雲取山の山頂からも何も見えなかった。足元の雪がだんだん深くなってきて、飛龍山へ向かう尾根に入ると、さらに積雪が増えてくる。湿雪のため踏み跡が固まっておらず、ツボ足では1歩ごとに足がもぐってやっかいだ。こんな積雪があるとは思わなかったので、ワカンを携行していない。もっとも、神奈川県の高校では、ワカンを携行する山行は冬山登山であるという考え方であり、冬山登山は禁じられているので、もし僕たちがこの時期、この地域にこれほどの積雪を予測していたのであれば、今回ここへ来る計画はたてなかった。


 予定より大幅に遅れて飛龍山から南側に派生する尾根の下に着く。雨がそぼ降っていて寒いので、そこにあった祠の中に入って昼飯を食べた。


 そこから、将監峠までトラバースする道に入る。その途中で、道の左側が切れ落ちているところで、僕は足を踏み外し、雪の上を20mほど転落したが無事だった。このようなアクシデントも重なって、さらに予定より遅れたが、M先生がトップをせきたてたので、暗くなる前に将監峠の無人小屋に着くことができた。薪を作って暖をとり、晩飯を食べた。その晩小屋に泊ったのは、僕たち以外には2人だけで、暖かくゆっくりと寝ることができた。


4月1日

 快晴の朝を迎え、元気に小屋を出発した。ところがまたまた道は分かりにくく、雪は湿っぽく、しかも深くて歩きにくかった。笠取小屋までトラバースルートを行こうとしたのだが、道を間違えて稜線ルートに出てしまった。稜線上も歩けるのだが、簡単ではない。しかし、とても静かで、雪と岩のミックスが美しい。坂を登っていくと、木と雪と岩と青空が混ぜ合わさって見上げられる。広い平地を股下ぐらいのツボ足で進んでいくので、少し進むのに非常に時間がかかる。ようやく笠取山の山頂に着くと雁峠が眼下に見下ろせた。峠の小屋に着くまでが、またひと苦労だった。どうにも今日はここまでである。どんなに頑張っても、通常の半分のスピードでしか歩けないので仕方がない。雁峠小屋に泊まることとした。


4月2日

 翌朝天気の良い中を塩山へと下った。


 奥秩父は春先に積雪が多く、入山者が少ないのでトレースは期待できない。そんなことを痛切に知った。

 

1973年3月29日木曜日

乗鞍高原スキー場

 M先生からスキーに誘われたので出かけてみた。1人ではぜんぜん行く気がなかったといっていい。それほどにはスキーが好きではなかった。


 新宿駅で待ち合わせて、夜行列車に乗る。一行はM先生とその知り合いと僕の合計7人であった。同級生のSを強引に誘ったのだが来なかった。


 新島々からのバスの中で僕は少しはしゃいだ。それというのも、ここに一昨年の夏に来たことがあったので、それをひけらかしたかったのである。その時のM先生の目が今も印象的である。


 バスは梓川を離れて番所へと登っていく。道が良くなると、乗鞍岳の中腹である鈴蘭高原であった。菊屋という宿に泊まった。これまで2回スキーで泊まった神城山荘に比較するととても高級な宿舎で、僕には勿体ないくらいだ。


 僕はせっかちなので、すぐに滑りに行きたかったが、M先生は、「夜行で来たので疲れているから、十分休憩してからスキーへ行く」、と慎重だった。休憩時間が過ぎたのでよろこんで滑りに行った。先生の知り合いの人たちは、スキーが上手なのだろうと思っていたが、実際に滑ってみると、僕と大差ないことが分かった。


 2日目は天気が良く、雪質も良くて気持ちよかった。カモシカ坂という斜面のコブもどうにか降りてこられたし、緩斜面では山周りのターンもできるようになったので、僕はスキーが上手くなったような気がした。神城でのスキーと比べると、リフトが使えるし、食事が上手いし、温泉に入れるし、女の子もいるし、楽しかった。全く意外なことだったが、2人いる女の子のうちの1人に僕は好かれているようだった。


 3日目は天気が悪く、雪質はベタベタだった。昼頃でスキーは切り上げ、バスで下山し夕方の列車で東京へ帰った。新宿駅のホームでみんなと別れた時、あの子の目がなんだか潤んでいるような気がした。

乗鞍高原で 1973年3月28日

 

1973年2月18日日曜日

川苔山

 この山行を思いついたのは、磯工山岳部も丹沢ばかりでなく、もっといろいろな地域の山へ行った方がいいと考えたからである。今回の引率は顧問のMU先生だった。


 いつものように土曜の午後に学校を出発し、新宿経由で奥多摩へ向かう。中央線は混んでいた。いつも丹沢へ行くときに乗る相模鉄道ではいくら混んでいても平気だが、中央線では自分たちの存在が浮き上がっているような気がする。


 立川で中央線を下りて青梅線に乗り、終点の奥多摩までいく。奥多摩から日原行のバスに乗り、川乗谷の入口で降りる。幕営予定地はここから林道を歩いて1時間ほどのところだが、すでに夕暮れがせまってきた。せかせかと歩き、谷筋をつめていく。林道は右に左にと谷を渡りかえす。やがて左岸につけられた林道が右岸へと渡り、その後山腹をからんで高度を稼いでいく地点に出る。それからまた沢を渡る手前に小広い場所があったので、そこで幕営することにした。真っ暗な中で、ヘッドランプのあかりをたよりに天幕を張り、夕食を作り、食べ、片付け、明日の好天を祈って寝た。


 翌朝はまずまずの曇り空。林道から分かれて沢沿いに付けられた道を行く。路面がカチカチに凍っているところがあって、数人転倒する。しばらく行くと正面に大きな滝が見えた。百尋(ひゃくひろ)ノ滝という。立派な滝だが、左上の林道からかなりの岩石が崩落していて、その下部が荒涼としており興ざめである。


 道はここから複雑な地形の中を行くようになり、ルートが正しいか少し不安になる。ガイドブックにも川苔山は道が複雑であると書いてあった。それでもなんとか正しい道を歩いているようで、標高が上がり、足元の積雪も増えてきている。もう小屋が近いなと思っていたところ、ひょっこりと小屋の前に出た。小屋には誰もいなかった。内部は小ぢんまりしていて感じが良い。すっかり雪が積もっている稜線をたどって山頂を往復する。頂上からの眺めは、雲が多くてあまり良くなかった。

川苔山で 1973年2月18日

 小屋に戻って、中で昼食の力(ちから)ラーメンを作って食べた。その後、赤杭尾根を駆け下る。途中棒の嶺方面が良く見えた。最後は、尾根の上からほんの小さく見えた古里の駅まで十分くらいで走って降りた。山頂からほとんど休まず駆け下りてきたので、1年のSは駅までスパッツをつけたままだった。


 やっぱりいろいろなところに来てみるのは良いと思った。

 

1973年2月4日日曜日

大山

 わが家の男性4人で行った。

 いつものように大秦野駅からバスに乗る。天気は上々で富士山がきれに見える。蓑毛から先はバスが運休中だったので、蓑毛から歩く。予定より1時間ほど多く歩かなければならなくなった。


 柏木林道は気持ちが良い。大してくたびれずの高度がどんどん上がっていく。秦野盆地はまだ朝もやの中で、ぼんやりと朝寝をしているようだ。天気もよいので、子供たちはせかせかと歩いたが、父はゆっくりと歩きたいようだった。ちらほらと雪が残っていて楽しい。


 山頂からの下山は、父は膝が痛そうだった。


1973年1月28日日曜日

高松山

 磯工山岳部では今年は僕たち2年生と1年生が、3年生を送別する山行を実施することになった。場所は普段は行くことのない低山を選んだ。行きかえりの歩行距離が短く楽で、しかもマイナーな、飲酒をしても見つからない山もしたのである。


 山は、アプローチがミカン畑でめずらしく、山頂からは富士山の眺めが良かった。夜はとても寒く、泥酔者を介抱するのが大変だった。

高松山で 1973年1月28日