2018年4月17日火曜日

黒旅(7)-7 糸島⇒福岡


博多市街が見えてきました
糸島からは交通量の多い国道の脇を淡々と福岡へ向かって走りました
今回の黒旅はこれまでになく交通量の多い道を長く走った気がします
それはかなりな程度そういうコース取りにせざるをえなかったからです

島や半島の道は大体海岸沿いか山に分け入るかどちらかです
となると高低差の少ない海岸沿いの道を選びます
すると交通量の多い道になるということですね

次回は関門海峡を渡り中国地方へ入っていきます
山の中に分け入りましょうか
黒旅は車と競って距離を稼ぐ旅ではありませんから

本日の走行距離:30㎞

黒旅(7)鹿児島⇒福岡 走行距離:517㎞

黒旅(1)~(7)川越⇒福岡 走行距離:2,475㎞

黒旅はつづく

2018年4月16日月曜日

黒旅(7)-6 伊万里⇒糸島


今日は今回でいちばん田舎道をたくさん走れそうです

黒川町から国道を北へと向います
相変わらずアップダウンの多い道です



大浦の棚田に着くとカメラマニアが一生懸命写真を写しています

玄海町に入ると立派な公共施設があちこちにあります

つぎの浜野浦の棚田はこぢんまりしてます
手前に休耕田が目立ちます

玄海原発には監視カメラのある柵のところまで行きます

呼子港でイカを食べ唐津城を見学して糸島のゲストハウスにつきました

本日の走行距離:79㎞

2018年4月15日日曜日

黒旅(7)-5 時津町⇒伊万里


友人宅をゆっくり出発します
体が緩んで朝の北風が少し冷たく感じられます

今日は日曜日でトラックは少ないのですが乗用車がたくさん走っています
春の交通安全週間もなんのその
飛ばしてどちらかへお向かいです

大村湾の西沿いを北上します
バイパスと並行すると交通量が減ります

西海橋に着きました
友人がうず潮が見られるかもしれないと言ってました
ここが大村湾と外海が唯一つながっているところだそうです

橋から見下します
いまは大村湾から潮が流れ出るタイミングで大小のうずが出来ては消えて行きます
早い潮の流れと相まってなかなか豪快なものですね

昼ごはんを食べて再び北へ向かいます

アップダウンを繰り返し有田に着きます
言わずと知れた磁器の町です
お目当ては重伝建の町並みです



有田からまた北へ向かいます
相変わらず冷たい北風が吹いています
黄砂が飛んでいるのか周囲の山が滲んで見えます

伊万里を過ぎるとさらに車の数が減ります

午後5時に黒川にある今夜のお宿に着きました
年配のご夫婦が三階建ての豪壮なお宅をゲストハウスにしています
部屋に案内され風呂に入ってゆっくりしました
ここには息子さんが住んでいたらしい
書架にあったこのあたりの建設業界新聞がふと目がとまりました

この地で家業の公共工事に携わっていたよう
ところが公共事業の激減でもはやプライドをもって仕事ができない状況になる
一念発起して海外青年協力隊に参加しブータンで2年働いた
自らの経験と技量が生き現地の人々に大いに感謝される
任期が終わって帰国し大手ゼネコンに就職し今は首都圏で暮らしているそう

ご本人は今どのような思いで生活されているか
それはまったく存じませぬ

本日の走行距離:99㎞

2018年4月14日土曜日

黒旅(7)-4 島原⇒時津町



今日は低気圧の通過で午後から風雨が強くなるという予報です
降り出す前に少しでも距離を稼いでおこうと7時に宿を立ちます
南風に押出されて快走しますが30分したら雨が降ってきました
ポンチョを着て走ります

神代町というところに重要伝統的建築物保存地区があります
鍋島家の武家町ですが何しろ雨の土曜日の朝です
人影も見えずどこも開いていません
武家屋敷の小路の雰囲気だけ味わってきました

更に一漕ぎで諫早の潮受け堤防に着きました
諫早湾干拓の大義名分は何だったけな?
食糧増産だったかな?
だとするともうその必要はないのでしょうね
そうかといっていまさらこれをとっぱらうのも容易じゃないし
えらいものを作ってしまいました

諫早からは大村湾沿いの国道を行きます
アップダウンはありますが車が少ないのでマイペースで走れます
途中で猿が出て来そうな山道になりました

こんなところに千々石(ちぢわ)ミゲルの墓(と思われる石碑)がありました
千々石ミゲルはあの天正遣欧使節の一人です
江戸時代の始めにヨーロッパ・キリスト教世界を自分の目で見て来ました
帰国した彼は4人の使節の中でただ一人棄教したとされてきました
最近この墓で欧州製のロザリオが発掘され棄教説が覆る可能性が出てきたそうです


長崎からの国道に合流すると友人宅は間近です
土砂降りになる前に着くことができました
ほとんど30年ぶりの再会ですがお宅に湿度100パーセントを持ち込んでしまい恐縮です

本日の走行距離:77㎞

2018年4月13日金曜日

黒旅(7)-3 天草町大江⇒島原



大江の民宿から川沿いに登って行くと左上に教会が見えます
つづら折れの急な坂道を上ると教会の前に出ました
青い空を背景に教会の白壁が映えます

このロマネスク様式の教会が建てられたのは1933年です
その中心になったのはこの教会のフレデリック・ルイ・ガルニエ神父(1860-1941)です
この方はフランスのオート・ロアール県ル・ピュイ・アン・ヴレーの出身です
6月に行くロアール河のすぐ近くにある村です
1892年に天草へ来てここで亡くなるまで布教活動をしました
昭和のはじめにここにこの教会を建てるための苦労はどれほどのものだったでしょうか
想像もつきません
ものすごいエネルギーだと思います

教会の前から眺めると集落の向こうに海が見えました

大江教会から北へ向かいトンネルを抜けるとV字谷の向こうに海が見えます
海の向こうに見えるのは島原半島でしょうか

下り坂を飛ばして行きます
今日は向い風ですが海の景色に助けられて走ります

富岡には寄らず鬼池港を目指します
またしてもフェリーの出航5分前に港に着きました
天草を後にして島原に渡ります

フェリーの展望台から三百六十度の眺めを満喫します
空気が澄み切って美味しい

口之津から島原方向に走り出し6㎞行ったところで左に入り坂道を上って行きます
とても急で狭い坂道ですが道の両脇には農家がずっと続いています
とりわけ急な坂道をなんとか登りきると水平道路に出ました
その道を北へ向かうと谷水棚田の標識が道端にありました

長崎県はジャガイモの生産量が北海道に次いで全国で二番目に多い都道府県です
その多くをここ島原半島で生産しています
斜面ばかりの挟隘な土地でどうやってと思いませんか
その秘密がこの棚田にあるのです
ここの棚田ではなんとジャガイモとコメの二毛作が行われているのです

最近そのことを知って感動してしまい是非棚田のジャガイモ畑を見てみたいと思いました
今日しっかり見ました
ちゃんとコメ作りを念頭に置いた畔作りがされています

目を上げれば有明海
ロケーションも素晴らしい

棚田を後に急勾配の道を下って原城跡へ行きます
ここは島原の乱で天草四郎と蜂起した人々が最後まで立て籠ったところです
土塁と石垣の一部しか残っていません

雲仙の火砕流の恐ろしさに認識を新たにしました

本日の走行距離:84㎞

2018年4月12日木曜日

黒旅(7)-2 川内港⇒天草町大江



民宿の奥さんが言っていたとおり阿久根までの国道はいただけませんでした
歩道がないのみならず通勤ラッシュで交通量が増して皆さん運転が殺気だっています
ガードレールの向こうは東シナ海からの波が磯を洗っています

阿久根から自動車地獄とおさらばしてのんびりした海沿いの道を行きます
打って変わった平和な沿道風景です
淡いベージュ色の砂浜に打ち寄せる波の向こうにみずみずしい若緑の岬が浮かんでいます

黒之瀬戸大橋を渡ると長島です

再び国道になりました
交通量は減ったのですが国道の設計には自転車のことが全く念頭にないようです

急なアップダウンが続いたあと蔵之元港に着きました
待っていたフェリーに飛び乗り

半時間の航海で天草最南端の牛深に着きました

牛深から再び自転車に跨って峠のトンネルを抜けて河浦という町に出ました
街角の案内板に天草コレジヨ館というのがあったので行ってみることにしました
コレジヨとは宣教師育成のための高等教育機関です
ラテン語、ポルトガル語、哲学、倫理学、文学、音楽などが教えられていました
天草コレジヨ館
中に入ると男性の係の方が待ってましたとばかりに迎えてくれました
その方が説明をしてくれるそうです
「お時間はどれくらいありますか」というので「たくさんあります」と答えました
とても親切な人で30分以上も天草のキリスト教の伝来と繁栄について教えてくれました

キリスト教がどのように伝来し繁栄していったのかはとても興味深いことです
イエズス会の人たちが船に乗ってポルトガルからやって来たのですね
天草へやって来たのは1566年だそうですよ
ポルトガル船
そうして布教をはじめると多くの島民がキリスト教に改宗したそうですよ
最盛期には島民の8割がキリスト教の信者になったそうですよ

1582年には九州生まれの4人の少年が遣欧使節としてヨーロッパへ行ったそうですよ
その目的はイエズス会に対して日本布教の援助を教皇や国王からとりつけること
そして使節にヨーロッパキリスト教世界がいかに優れて繁栄しているか見せるためです
彼らは行った先々で大歓迎を受けローマ教皇やスペイン国王にも謁見したそうですよ
奥の写真に写っているのが4人の使節と引率したイエズス会の司祭です
使節は西洋の世界最先端の文物を天草のコレジヨに持ち帰りました
この印刷機を使い日本で最初の活版印刷本がつくられたのですよ
グーテンベルグ式の活版印刷機(レプリカ)
印刷されたのはキリスト教の教理や日本文化に関する本などでした

使節がヨーロッパで作ってもらった洋服です

使節は西洋楽器を持ち帰り聚楽第で秀吉に演奏して聞かせましたそうですよ

わたしが最も感動したのはこの竹のパイプオルガンです
これを使いミサをしたそうですよ
いい音がしました

天草コレジヨ館で得たわずかの知識をもとにこれからこの旅の中で日本におけるキリスト教のその後の展開について知ることができるでしょう

崎津教会に立ち寄ってから大江の民宿に着きました

本日の走行距離:80㎞

2018年4月11日水曜日

黒旅(7)-1 鹿児島⇒川内港


鹿児島中央駅前の公園から国道3号線を薩摩川内市に向かって走り出します

車道にはたくさんの自動車が疾走しているのでやむなく歩道を走ります
道が中山峠への登りにかかると歩道が狭くなります
ところどころ歩道もなくなり車道を走ることになりました
そんな道が金山峠まで続きました

国道が薩摩川内市に入ると道は突然ゆったりした片側二車線になります
あまりの変わり様にあぜんです
原発のある自治体のひとつの分かりやすい風景です

川内川の河口に近づくと長崎堤防というところがありました
その堤防の上の道を抜けきろうとした時でした
道脇に止めた車から降りてきたおじさんが声をかけてきました
「どちらからいらしたんですか」
「埼玉です」
「この長崎堤防をぜひ見ていってください」
せっかくなのでおじさんの案内で見て歩きました
堤防の下流側の突端から見ると堤防から川に向かって鋸刃状の突起が見えます
これが治水に目覚ましい効果があって広大な田畑を確保することができたそうです
昔から人びとが水と格闘してきたことがまざまざと分かる遺構です

この鋸刃状の突起を見たとき「おや、どこかで見たような」と思いました
たしか昨年行ったライン川の下流に似たような形をした堤防があったような・・・
同行のフランス人にあれは何だろうと尋ねてみました
かれは「防波堤かな」と言っていました
家に帰ったらよく調べてみようかと思います

ーー
後日調べてみました
九州の土木遺産ー長崎堤防
小野仙右衛門さんが画期的なアイディアで長崎堤防を完成させたのは1687年のことです
ライン川の堤防
ライン川のこの堤防と長崎堤防とどちらが先にできたのだろう?
どちらかがどちらかを模倣したのだろうか?
ーー

それにしても袈裟さんにはとても気の毒なことをしました
そこまでしなくてもよかったんじゃないかと思います
おじさんは別れ際にペットボトルのお茶をくれました
これから川内原発へ行きますというと
「わたしは原発反対ですから行ったことはありません」とにこやかに言いました

さて川内原発につきました展示館へ行きます
今月からこの展示館に勤め始めたという案内係の人に川内原発の概略を説明してもらいました
5分ほどで終わりました
まだ若干堅さがありますがもう少し練習すればOKじゃあないでしょうか

川内原発は一号機が検査中で二号機が稼働中です
どちらも完成から30年経っています
一機作るのに2300億円かかったそうです
廃炉にいくらかかるのでしょう


川内港近くの民宿に泊まります
15人ほどのお客さんは原発関連の人達です

民宿の若奥さんは自転車好きでフロントの横にロードバイクが置いてありましたこの辺りを走り回っているそうです

明日走る阿久根への国道は道幅が狭いので要注意とのことです

本日の走行距離:67㎞