1988年11月6日日曜日

湯河原・幕岩


  TSMC

帰還兵 5.10C

シャックシャイン 5.10B-C ×

(以上リード)

万、BoulA 5.10D-11A ×

(以上トップロープ)

コンペで採用したルート

フライング 5.7

スウィング 5.8

バッドボーイ 5.9

(以上トップロープ)

アナザーガール 5.8

(以上リード、オンサイト)

1988年10月30日日曜日

奥多摩・白妙バットレス

TSMC、ジョー

ビューティー・ペア 5.9

ダーティー・ペア 5.10A

ナイト・ライダー 5.11A(3本目と4本目のボルトの間は登れず)

(以上トップロープ)

カーチェイス 5.10A(オンサイトでリード)

1988年10月23日日曜日

奥秩父・小川山 都岳連岩登り講習会

職場の異動後の新しい仕事や、長男が生まれたことで、大きな山登りには行きにくくなった。それで、このところあちらこちら近場でフリークライミングをした。その結果を小川山で試したかった。トップロープで以下を登った。

カシオペア軌道 5.10A

愛情物語 5.8

龍の子太郎 5.9

カサブランカ 5.10A

JECC 5.10D

ジャックと豆の木 5.10B

イレギュラー 5.10D

1988年10月10日月曜日

1988年8月27日土曜日

磐梯山

単独

丁度100年前の1888年7月15日に、磐梯山は大爆発を起こし、小磐梯山はあとかたもなく吹き飛び、山麓では477名の死者が出た。この噴火により北側の河川がせき止められ、多くの湖沼が出現した。

国際部へ異動してすでに3ヶ月がたったが、社会科学部から職場旅行に一緒に行かないかという誘いがあって、磐梯熱海温泉に1泊した。せっかく磐梯山の麓まで来て、温泉で宴会だけして帰るのは勿体ないので、磐梯山に登ろうと出発前から決めていた。

せき止め湖のひとつである五色沼で社学のメンバーと別れ、ヒッチハイクでゴールドラインの八方台まで行く。そこから歩きはじめ、きれいなブナ林の中を20分で中の湯に着く。そこからさらに尾根道を1時間弱で弘法清水だった。福島闘魂倶楽部のメンバーから聞いていた岡部小屋は閉まっていた。弘法清水は冷たく、二日酔いと今日の暑さで乾ききった喉に突き刺さるようだった。そこから一投足で磐梯山の山頂に着いた。あいにく視界はなかった。

弘法清水へと下っていくと、裏磐梯の湖沼が望めた。下るにしたがって足がガクガクし始め、八方台に着く頃には暑さのせいもあって、ぐったり疲れた。しかし、この体の動きは、運動不足の時の自分そのものであるとも感じた。

八方台からまたヒッチハイクで下山しようと思ったが、なかなか車が止まってくれない。ふてくされてズンズン下っていると、とび滝の展望台のところで社学のSさんのワゴン車が来たので止めて、猪苗代駅まで乗せてもらった。ありがたや。

1988年7月10日日曜日

鷹取山

Sと

ボルダリング、広場、2の字、コの字

トップロープ、電光クラック、竹本クラック(途中まで)


1988年7月2日土曜日

1988年5月3日火曜日

後方羊蹄山

臨時急行ニセコが、下車予定の倶知安駅に近づくと、後方羊蹄山はいよいよ大きくなった。駅前からがらすきの真狩行きのバスに乗り、樹木園で降りる。

後方羊蹄山の真狩側を滑りたいと以前から思っていた。とても旅費がかかるので、それだけのために北海道まで来ることはできなかった。今回の利尻山行の予備日が、幸運にも残っていて、加えて、後方羊蹄山を滑ろうという気力も残っていたら、チャンスを生かしたいと思った。

昨日利尻山に登って下り、稚内で祝杯をあげた後、夜行列車を乗り継いで夜遅く小樽に着いた。宿は大広間しか見つからず、雑魚寝で睡眠不足だった。行こうかどうしようか迷ったが、ともかくこうして登山口まで来た以上は、歩きはじめるしかない。


現在位置から真狩側の山頂までの標高差は約1,500mで、時刻は10:30。ここから倶知安駅へ戻る最終バスは、17:30発。7時間の範囲内で登って滑って来ようと決めた。30分ほど登ると車道が終り、そこからシール歩行する。なるべく上を見ないようにして、50分歩き10分休憩をマイペースで繰り返して山頂に到着。(15:15)


景色を楽しみながら休憩し、滑降を開始した。(15:40)今シーズンを締めくくるに相応しい豪快な滑りができた。この喜びを分かち合う同行者こそいなかったが、とてもうれしい気分で登山口に戻った。(16:50)

 

1988年4月30日土曜日

利尻岳

4月30日 晴

沓形で食糧の買い出しを済ませ、タクシーで鬼脇小学校まで行く。(11:50)やわらかい春の陽が降り注ぐ小学校の校庭では、子供たちが元気に遊んでいる。このようなうららかな日は久しぶりなのだろうか、みな飛び跳ねるようにして遊んでいる。

ここから南稜と東稜の頂稜部分が望まれる。直線距離がかなりあるので、それほど高くそびえて見えない。東稜へのアプローチは、ここから針葉樹林の中につけられた林道を辿る。道を歩きはじめるとすぐに雪道になったので、シール歩行に切り換える。傾斜のゆるい林道を1時間ほど登ると、山が正面に大きくなった。まもなく林道はヤムナイ沢を渡るのだが、沢に雪がべったりとついていて気持ちが良さそうなのでそちらへ引き込まれてしまう。東稜への夏道は左岸に沿ってついている。沢をしばらく登って、適当な所で右上すれば道に出られるだろうと、安易に考えていた。30分ほど登って左岸を見ると、相当な薮漕ぎをしなければ夏道に出られそうになかった。スキーと荷物を担いで熊笹やハイ松漕ぎをするのは嫌なので、林道が沢を横切った所まで、いさぎよく戻ることにする。

左岸沿いの林道を行くと、すぐ右に東稜に入る指導票とトレースがある。真っ二つに割れた告知板が雪の上にあり、東稜の夏道は通行できると書いてある。この辺りから木々は目立って疎らになる。一段上がるとそこが東稜の末端部である。まだ陽は高いが、長旅の疲れもあり、樹林帯が切れる手前で泊まる事にする。(14:30)


テントを張ったところは海が見える雪尾根だ。時々背中の利尻山を眺めながら、塩ウニで1杯やる。それから3人でジンギスカンを1キロたいらげる。その間に、頭上に巨大なレンズ雲が発生し、太陽のまわりにはワッカができてしまった。


5月1日 雨

昨夜半から風雨強まる。5:00の天気予報では、これからいったん持ち直し、今夕から本格的に崩れるという予報である。遠路はるばる来たのだから、どんなチャンスも逃せない。

スキー滑降はとりあえず諦め、1日のラッシュで頂上を往復しようと出発する。(5:50)風雨にあおられながら東稜を行くと、踏み跡が曖昧になる。赤布を付けながら稜線の右寄りを登る。やがてリッジが明瞭になり、コル状を通過する。強風にあおられ、全身ずぶ濡れである。さらに登ったハイ松帯の溝の中で、これからどうするか考えた。(7:30)


今日これから山頂へ行っても、視界のない背景の記念写真を撮ってくるのが関の山だろう。一旦下山して体勢を立て直し、リトライするのが賢明に思えた。天候は明日以降回復するだろうと信じた。

そうと決まれば下るのは早い。鬼脇へ戻り(10:10)、沓形の国民宿舎に宿泊を予約し、タクシーで戻った。宿に着くと、すぐに濡れた物を部屋いっぱいに干した。それから、風呂にはいったり、1杯やったり、ラーメンを食ったりしてくつろいだ。


5月2日 晴

早朝ハッとして目覚めた。窓の外を見ると、波の静かな海があった。薄青くなりかけた中空をカモメがよぎる。晴れた。


急いで準備し、今日使わない荷物は宿にデポして、タクシーで西稜の登山口に急ぐ。トドマツ林に開かれた舗装道路を登って行くと、木の間越しに利尻岳の西面が望まれた。右手の海上には礼文島が浮かんでいる。


標高400mの登山口でタクシーを降り、樹林帯を徒歩で登りはじめる。(7:20)樹林帯を抜けると、西稜が全貌をあらわした。シール登行ができそうなので、スキーをつける。両岸がハイ松の沢をズンズン登る。背後には延々と海原が広がり、水平線の彼方が茫漠としている。こんな楽しいシール登行も珍しい。


標高800m地点の避難小屋は室内がやや燃料臭いが、きれいで十分使えそうだ。左隣の沢に移り、さらにシール登行を続ける。900m地点からは稜線歩きになり、ブッシュが出てくるので、スキーを担ぐ。山頂付近の雲が取れ、頂上に立っている人が見えるようになってきた。きついツボ足の登りも三眺山で終わり、西壁が間近に見える。(10:30)ここから山頂までのトレースが見えず、ルートが判然としなかった。わたしたちが休んでいると、追い越して言ったパーティーがあった。


三眺山からコブを2つほど越えると、西稜の左側が斜度30度くらいの雪壁になっている。先行パーティーは、ここを北稜までトラバースしていった。わたしたちもその後に続く。落石はなく、滑落さえしなければ何の問題もない。最後は慎重にアイゼンを効かせて北稜に出た。海の向こうに北海道が長々と寝そべっている。スキーをデポして山頂へ向かう。再びツボ足で息を切らし、祠のある山頂に着いた。(12:15)


このうえなくいい気分だった。金と休暇が無駄にならなくてよかったと、3人とも安堵の胸をなでおろした。心のフィルムに眺望を焼き付け、さて滑降だとデポにもどる。標高1,650m付近から滑降を開始する。テレマークスキーの橘は、アイスバーンではいかんともしがたいと、途中まで歩いて降りる。わたしと阿部ちゃんはデポ地点からアルペンスキーで下る。上部の堅雪帯をジャンプターンで切り抜けて、傾斜が緩んでくると辺りを見ながら滑る余裕も出てくる。見れば礼文とノシャップ岬が、なんときれいなことか。

長官山まで滑り、橘が降りてくるのを待っている間、例の沢を覗きこんだ。例の沢とは阿部ちゃんが15年ほど前に、3月の利尻岳を訪れて、北稜をポーラーメソッドで登った時に、望見した沢のことである。当時まだスキーはやっていなかったが、その沢を滑ったらさぞ楽しかろうと思ったのだそうな。この話を聞かされて、今回の利尻山行が本決まりになったともいえるお目当ての沢なのだ。

今見た所では、なるほどおいしそうな沢だ。適度の広がりもあり、途中に滝はなさそうだ。何より、ここから真っ直ぐ鴛泊の港を目指して下れるのがいい。これはもう行くっきゃない、ということで、期待以上のスキー滑降を味わった。最後はトドマツ林のとどのつまりでスキーを脱いだ。この沢の名前は地図に載っていない。下部に甘露水がわき出ているので、甘露沢なんて言われているようである。


鴛泊の港に着いてから、橘がタクシーで沓形にデポした全員の荷物を取りに行ってくれた。空身でスピーディーに登り、滑ったのは正解だった。


1988年4月16日土曜日

越後駒ヶ岳

TSMCの例会での豊島の「越後駒へ行こうと思っています」のひと言に、越後駒ヶ岳でスキーができるのか!と驚いた。

雪山であれば、どこでもスキーができるのは、当たり前のことかもしれない。どこへスキーに行こうかと考えたとき、スキーツアーのガイドブックを見て、その中から選んでしまう。まるで、スキーツアーができるのは、そこだけでしかないかのように。


ガイドブックで越後駒ヶ岳の名前を見たことはなかった。だから行こうと思ったこともなかった。地図を読むという基本ができていないことにに加えて、このような発想の貧困さがあるのだから、これはよくよく考えなくてはいけない。


わたしは今回木曽御岳へ行く予定だったが、豊島の話を聞いて計画を変更した。まずは、近くて良い山からである。


夜の関越道を、豊島のスカGで飛ばし、小出インターで降りる。奥只見シルバーラインの入口には、「雪崩の危険」ということで、ゲートは7:30に開けるとの掲示がある。その時間まで、近くの空き地にテントを張って仮眠する。


夜半に通り雨があったが、明るくなる頃には小倉山に続く稜線が望めた。雲があわただしく上空を通り過ぎるが、天候は回復している様子だ。ゲートオープンと同時にシルバーラインのトンネルに突入する。トンネル内で途中右折して、朝日がまばゆい銀山平に飛び出す。道の両側には、まだ2メートルほどの積雪が残る。行き止まりが石抱橋だった。川の上流に根張りの大きい山が見えるが、頭に雲のシャッポを被っている。あれが越後駒に違いない。朝飯を食べ、その山体に向けて出発する。(8:35)


北ノ又川左岸沿いに進み、次いで白沢に少し入る。(9:30)道行山に続く尾根に至る小尾根に取り付く。出だしは急だが、すぐに楽にシール歩行ができるようになる。雪の割れた所を越えると、尾根は広く歩きやすくなる。尾根の最後は左にトラバース気味に登り、道行山に出る。(10:45)豊島はさっさと先に行き、尾根の途中で休んでいるのが見える。


道行山からは越後駒の方向に向かって少しアップダウンのある稜線を辿り、小倉山に着く。(11:15)天候も回復してきて、ようやく駒ヶ岳の頂上が見え隠れしてきた。尾根の傾斜が次第に急になり、百草ノ池を過ぎ、小ピークに立つと、すでに駒ノ小屋に着いた豊島がこちらを見下ろしているのが見えた。稜線が狭く急になるが、それもわずかで駒ノ小屋に着く。(13:00)小屋はまだ雪の下で、アンテナ塔と「駒の鐘」だけが雪上に出ている。小屋から山頂へは一投足だった。(13:45)南には越後三山の最高峰中ノ岳が堂々とあり、北には越後平野へと続く低山が広がっている。写真を撮ったり、缶ビールを飲んだりしてから、スキー滑降に移る。(14:00)


頂上直下の斜面は手ごろな傾斜だったが、雪質はあいにく重い新雪だった。駒ノ小屋下の急斜面も不安定な雪だった。1,800m以下はザラメになり、小倉山まで稜線の滑降を楽しんだ。小倉山から振り返ると、ザラメに切ったシュプールが、逆光に浮かんでいた。


小倉山を下りきってから、僅かの距離だがスキーをかついで道行山に登り返す。(15:00)道行山から、もう一度輝く稜線のうねりを目に焼き付ける。白沢へ下り、一気に石抱橋までスケーティングで帰った。(16:00)

 

1988年3月20日日曜日

会津駒ヶ岳

そもそも、
昨年夏、橘とわたしとうちの久美ちゃんは、パミールキャンプで「福島闘魂倶楽部」に遭遇し、なにやかにやと思い出を共にしてきました。キャンプが終り、またそれぞれの住みかへ帰るとき、冬に「闘魂」のホームグラウンド=南会津での再会を約束しました。
そして今回、折り良く与作さんたちも会津駒ヶ岳の山行計画をたてていたので、合流していくことになりました。ひさびさに山に復帰した新婚のサトジンも加えて、賑やかな山行になりそうでした。
「闘魂」は郡山市に本拠をおく一大山岳集団で、会の代表は今年アブドラザ岡部さんから、アンドレザ田代さんに代わったばかりの若々しい会であります。山岳登攀中心の活動をしていますが、山スキーも活用しているとのこと。磐梯山の頂上から、30キロの荷物を担いで、ふもとまでボーゲンで降りてくる山行等はお手のものとのことでした。

さて、


会津高原の駅を降りると、南会津の空は穏やかに晴れ上がっていました。駅には「闘魂」の田村代表、伊藤かっちゃん、景山君の3人が、車で迎えに来てくれています。半年ぶりの再会ですが、なぜかちょくちょくあっていたような気がする仲間です。

かっちゃんのワゴンと、影山君のパルサーは、雪のない国道を飛ばしました。1時間ほどで、桧枝岐の手前の滝沢橋に着きました。ここで腹ごしらえをして、そのあと持ってあがる荷物の調整をしました。「闘魂」の装備は、8人用テントとか、特大鍋とか、卓上ガスコンロといった、宴会向けの立派なものばかりでした。 そこで、わたしたちTSMCのメンバーは、全面的「闘魂」の装備にすがり、自分たちの装備はかっちゃんのワゴンの中に残置することにしました。

この点について、「闘魂」から「アルパインスタイルではないか?」との疑問が提出されましたが、わたしたちは「俺たちもすっかりアルパインスタイルが身についたね」、なんて言ってやり過ごしました。

こうしてわたしたちは小ぶりの、「闘魂」は極めて大ぶりのザックを背負い、駒ノ小屋を目指して出発しました。(12:40)


それから、


稜線に出るまでの1ピッチは、林道から左手の沢状に入るところがミソでした。右の夏道尾根に出てしまうと、なかなかスキー登行ができないそうな。ブナの林の稜線を抜け、アオモリトドマツが出てくると、尾根の傾斜も緩みます。ここをスキーで降りてくる人たちがいましたが、「闘魂」の知り合いの郡山山岳会の人たちでありました。

標高が2,000m近くになり、日光連山から尾瀬にかけての山並みが見えてきました。森林限界を越すと、会津駒ヶ岳のノッペリした頂きが、すぐそこに見えます。


こうして、


駒ノ小屋の手前の斜面まで登ると、小出さんがスキーで降りてきました。合流を喜ぶ暇もあらばこそ、彼女が何か言っています。小屋下の樹林帯にテントを張ったところ、近くにいた単独行のひとが、小屋番に、「ここで幕営してはいけない。小屋に泊るか、キリンテまで行って幕営しろ」と言われたそうな。(16:30)


では、


わたしたちのパーティーは、ここからもう1歩も動けないメンバーがいることにして、ここで幕営しましょう、と決めました。「闘魂」の8人用テントをどんと打ち立て、間もなく降りてきたサトジンと与作さんが、隣りにTSMCのかわいらしいテントを立てました。


これで、


宴会の準備もでき、例のパチッ!パチッ!と音がして着火するガステーブルで肉を焼き、魚を焼きして、杯を重ねていくうちに、早くも至福の時が訪れてきました。あれもこれも、すっかり「闘魂」にご馳走になってしまう。アルパインスタイルを標榜するTSMCの今夜の献立は、ラーメンと餅でありましたとさ。夜を徹して宴を張るだけの酒も肴も十分にあったのですが、昼のスキー登行が意外に効いていたようです。いつとはしらず、みな打ち重なるようにして、寝入ってしまいました。

なんと、

未明の3時。腹がすいた人と、のどが渇いた人と、キジを撃ちたい人と、その人たちの声がやかましくて寝れない人が、わあわあ言いだし、起床となりました。



7時前、三々五々会津駒の頂上を目指して出発。堅く締まった雪の斜面を30分で山頂でした。ここからの眺望はとても印象的でした。これまでに登った山、これから登ってみたい山が良く見えたからです。

ここから北へ、大戸沢岳まで広い尾根を辿り、いよいよそこからスキー滑降をはじめました。(8:30)まず、幅広く急な斜面をひと滑りします。雪は堅くもなく、かといって新雪の様でもなく、小生やや慎重な滑りになりました。アオモリトドマツがひと群はえた先のコル状の所から、尾根は狭まります。(9:25)しかし生えているブナはまばらで、滑降の妨げにはならず、立木を縫って滑っていくのが心地よい。いつの間にか左上には三岩岳が立派に聳えている。

尾根はさらに狭く、樹間も密になってきて、下大戸沢の出合に向って最後の滑降になりました。雪は完全なザラメとなり、もう滑りの快感はありません。あとは一刻も早く小豆温泉の熱い風呂に入って、ビールを飲み干したいと思うばかりです。(11:00)

そして、

楽しかった「闘魂」とのツアーが終りました。わたしたちはアルパインスタイルに名を借りて、「闘魂」のポーラーメソッドのお世話になってしまったようです。TSMCのみんなは、いつかもう一度来たいところだなあ、と言っていました。

「闘魂」のみんなと「年に一度は一緒に山に行こう」と約束して会津高原駅をあとにしました

 

1988年2月13日土曜日

万座鹿沢スキー場

TSMCの年末年始山行から帰った後、しばらくして久美ちゃんが妊娠していることが分かった。それでもう当分スキーへ行けないから、今のうちに行っておきたい、というので万座鹿沢へ出かけた。いつもなら夜行列車やバスなどで慌ただしく行くが、今回は無理をせず、上野駅を昼前に出る特急で万座鹿沢口へ向かう。

スキー場の宿に着くと、久美ちゃんは気分が悪いと言って寝てしまった。吐き気がすると言って夜中に何回も起きる。こちらも寝てられなくて、何度も目が覚めた。

翌朝になっても久美ちゃんの調子が良くないので、スキーは諦めて東京へ帰ることにした。