1981年8月2日日曜日

インド亜大陸

 1980年4月に自分が卒業したばかりの大学の職員になった。そして2か月間の研修を経て、経理課に配属された。そこでの職務と職場の雰囲気に、わたしは全く馴染むことができず、大いに苦しみ、悩んだ。その顛末ついては大学職員(初篇)に綴った。

 インドへ行こうと思い始めたのはその苦悩の最中だった。インドヒマラヤでスキーをしようと思った。きっかけは、愛読していた「山と渓谷」という山岳雑誌の中に見つけた一枚の写真だった。


 インドヒマラヤのデオティバという山(標高6,001m)の斜面をひとりのスキーヤーが滑降しているショットを見た。それが誰かは記されていなかったが、インドヒマラヤでスキーをした人がいるのか、と印象的だった。


 その山はデリーから600キロほど北にあり、登山口となるマナリという町からのアプローチは短く、入山しやすいだろうと判断した。


 わたしの職場は夏は仕事が暇である。エアコンがなく、風も通らない穴倉のような部屋で、とても蒸し暑くなる。そこで夏場は必要最低限の人数の職員が交代で出勤することになる。わたしは半年以上前から、こんどの夏は長い休みをとって海外へ山スキーに行こうと決めていた。


 行先としては、夏にスキー登山ができて、アプローチが短く、標高6,000メートル程度の山は理想的だった。わたしの心の中にはすでにあのデオティバの写真があって、そこへ行くための計画を具体的に始めていたのだった。


 その頃わたしはWLSKというスキークラブに所属しており、そのクラブのメンバーとよく山登りに行っていた。その中で、Kは比較的体力があり、すでに社会人で収入も休暇にも恵まれていたので、彼が希望すればパートナーとして一緒に連れて行こうと考えていた。


 Kにその計画について話すと気後れしているようではあった。逡巡しながらも、取り組んでみたいという意思が確認できた。そこで高峰を滑る準備として冬と春にスキーをもって富士山に一緒に行った。冬に行った時には雪がほとんど無く、春には山全体がアイスバーンとなっていて、どちらもスキー滑降には不適であった。


 それはただそのようなめぐりあわせだっただけで大きな問題ではないとわたしは考えていた。問題はKのモチベーションが高まらないことだった。


 登山の経験の少ない彼は、2度の富士山登山がマイナスに作用して、海外で山スキーすることに大きな不安を感じたのだと思う。経験の浅い彼がそう考えてもおかしくない。わたしはもっと彼のことを親身に考えて周到に準備すべきだったのだと思う。


 結局Kは、長期休暇を取ることができないことを理由に、インドへは一緒に行かないことになった。わたしは1人でインドヒマラヤへ行くことになったのだが、その準備も十分とは言いがたかった。


 まず、デオティバ入山のルートやテント場、登頂ルート、滑降ルートなどについての詳細が一切分からなかった。分かったのは、「地球の歩き方」に書いてあったトレッキングの情報だけだった。


 また、スキー滑降に必要な装備は現地で調達が可能だろうと勝手に決めつけていた。シャモニーやツェルマットにでも出かけるように、スキーやスキー靴は日本から持参しなくても現地で購入できると思いこんでいた。


 そして体力面の強化は、一応富士山へ行ったり、トレーニングをしたりはしていたが、仕事の忙しさとプレッシャーにかまけて身が入らず、いつもと変わらない体力レベルにとどまっていた。


 このように6,000m級の峰からのスキー滑降を目指すにしてはすべてが不十分なままだった。それでもなんとかなるだろうと、狂犬病や破傷風などの予防接種を受け、ひとり日本を出発した。


8月2日

 今回は成田とニューデリーの団体往復航空券を買った。20名ほどの団体だったが、その中にインドヒマラヤに行く名古屋の登山グループがいた。過去に一度こちらに遠征に来たことがあり、今回は気の合った仲間と一緒に、あまり難しくない6,000m峰に登ることを考えているという。


 彼らはまだ登る山を決めていなかった。彼らはわたしに、「一緒に登りませんか」、という。わたしは今回単独なので、自由であり、かつ未知の土地に対しての不安もあった。それなので、しっかりと考えもせずに「では一緒に行きましょう」、と答えてしまった。


 1978年にヨーロッパアルプスに登山に行った時や、1980年に卒業スキー旅行として再びアルプスに出かけた際の高揚感はほとんどなかった。ニューデリー空港に到着して建物の中で入国審査の順番を待っていると、リノリウムの床の上を10センチほどあるタガメがゆっくり歩いていた。


 審査を終えて名古屋のグループと市内のランジット・ホテルへと移動した。


8月3日

 ホテルの窓から外を眺めると、強い日差しが降り注ぐ道端に、たくさんのオートリキシャがホテルから出てくる客をつかまえようと、客待ちしている。

ニューデリーの雑踏

 その様子を見ているうちに、今回わたしは一人旅をしようと思ってインドに来たのだ、と改めて思い直した。そして名古屋の人たちのところへ行って、「やっぱり自分はひとりで行きます」、と伝え荷物を持って安宿へ移ることにした。スキーで滑るためには、いろいろ準備しなければならないことがある。準備をしやすい場所に移ったほうが良いからだ。


 ホテルを出ると、案の定オートリキシャの運転手が大勢わたしに群がってきた。荷物をわれさきに奪い持って自分のリキシャへ乗せようとする。これを何とか振り払い、1台のリキシャに乗ることができた。運転手にガイドブックを見せて、マナリ方面へ向かうバスが出発するターミナルの近くに行ってもらう。リキシャはニューデリーの街の中をくねくねと走り、ようやく市場の一角に着いた。運転手は「ここだ」と言う。金を払ってリキシャを降りた。


 ごたごたとした一角を大きな荷物を背負って行き来して、ようやく目指す安宿を発見し、チェックインした。


 部屋に荷物を置いてバスターミナルへ行ってみたが、たいへんな人ごみと喧騒に戸惑った。どこでバスのチケットを買えばよいかも分からなかった。わたしは大事なことに今ようやく気がついた。それは、わたしの英語力ではインドで自由に旅行するのは相当困難だ、ということである。わたしはぐったりと疲れて宿に帰り、まだ昼だったが寝てしまった。目が覚めると暗くなっていたが、夕食をとるためにまたあの蒸し暑く強烈なにおいがただよう街へ出ていく気になれなかった。街には多くの病人や乞食が徘徊し、喜捨をせがまれる。


 うす暗い宿の中の食堂で、猛烈に辛いチキンカレーを食べた。


8月4日

 バスターミナルまで重い荷物を担いでいき、そこから長距離バスでマナリまで行くよりも、鉄道でのんびり行くのが良いだろうと思った。それで、列車の経路と時間を調べた。ニューデリーからチャンディガールまで行き、そこで登山鉄道のようなものに乗り換えてシムラという標高2,000メートルを越す避暑地に行く。さらにそこからバスでマナリに入ればいい。


 ホテルから駅まで歩き、キップを買ってホームで列車を待った。ところが予定の時刻になってもチャンディガール行きの列車は来ない。ホームにアナウンスが流れるが、何を言っているのかさっぱり分からない。駅員をつかまえて精一杯の英語で、「チャンディガール行きの列車はこのホームで待っていれば良いのか」、とか、「いつ来るのか」、と尋ねた。ホームはここで間違ってはいないが、列車がいつになったら来るのか、駅員にも分からないようだった。

列車を待つ人々
 しかたなく、荷物の上に座って待つことにした。時折ホームに列車が入ってきたが、ここが終点だったり、回送だったりして、目指す列車はいつまで待っても来なかった。あたりはすっかり暗くなり、ホームの人影もまばらになった。時々人が来て何か話しかけてくるが、悪い奴かもしれないので無視する。

 ついに深夜になったが、うっかり眠り込んで列車に乗れなかったり、置き引きにあったりしてはいけないので、眠らないようにする。


8月5日

 待ち時間が6時間を超えたころ、ようやくホームにのろのろと電気機関車にひかれた鉄さび色の列車が入ってきた。車体の横に掲げられた行先札にはチャンディガールとある。これだ。やっと来た。乗客はほんの数名だった。それはそうだろう。6時間も待つことはよっぽど事情がある奴にしかできない。


 走り続ける列車の蒸し暑いコンパートメントでひとりウトウトしていると、夜がぼんやりと明けてきた。昼近くになってようやくチャンディガールに着いた。ここで山岳鉄道に乗り換えシムラへ行く。


 シムラは急斜面に古い建物がびっしりと立っている避暑の町だった。

シムラの家並み

 その裏側の林の中にある安いホテルに宿をとった。建物は山の斜面に沿って立ち、部屋は個別のコンクリート建てになっている。案内された部屋に入ると霧雨の湿気で壁が結露している。気温は高くない。


 夕食は街中のすいているレストランへ行った。ビールを飲み、サラダのようなものを食べた。中に入っていた青唐辛子を気がつかずに食べてしまい、猛烈に辛かった。


 しけった部屋に帰って久しぶりにぐっすり寝る。


8月6日

 朝起きると霧雨のような天気だった。ここへ来るまで、デリーでの暑熱と鉄道での移動で消耗した感があったので、今日は1日休んで体調を整えることにした。


 シムラは急な山の尾根にへばりついたような街だ。霧が漂っていて涼しい。街中を歩くと沢山のホテルや食堂、土産物屋があった。平地がほとんどないので、建物はみな小ぶりだ。威圧感が無く親しみがわく。バスターミナルでマナリへのバスの予約キップを買った。

シムラのバスステーション

8月7日

 栄養と睡眠をとったので雑踏へ出ていく元気も出た。


 バスターミナルへ行きマナリ行きのバスに乗る。バスは川沿いの断崖に刻まれた狭い道を行く。大型バス同士がすれ違う時は、道幅の広いところでもぎりぎりで、谷側の座席に座っていると谷底が眼下に見えて心臓に良くない。


 途中で小さなバスに乗り換えて、さらにマナリを目指す。クルを過ぎ、針葉樹の渓谷を遡っていくとマナリに着いた。標高は2,000メートルを越えており、周囲には氷河を頂いた高峰が見え隠れしている。バスターミナルの近くでは、日本の大学山岳部らしきパーティーが帰国の準備をしていた。


 宿は街中から少し離れたゲストハウスにとった。

マナリのゲストハウス

 そこの従業員は良くわたしに話しかけてきた。部屋に荷物を置いて、散歩に出かける。林道を歩いて行くと温泉があった。入ってみる、建物も露天風呂もコンクリート造りで味もそっけもないが、温泉には違いない。山を見上げながらお湯に浸った。


 自然に、自分の仕事について思いが及んだ。穴倉のような経理課の部屋で、ポチポチとそろばんの玉をはじいている今の仕事から、なんとか逃れる方法はないだろうか。


 横浜の実家に帰った折りには家族で良く酒を飲んだ。話がわたしの大学での仕事のことになると、父はよくわたしに、「仕事を変えるのは良くない」、と言った。わたしは、「仕事を変えたい」、とストレートに言った覚えはないのだが、父はわたしの語り口からそれを感じ取ったのだろう。父は、自分自身が様々な理由で仕事を転々として、結果として苦労をしてきた経験から、「仕事を変えるな」、とわたしに伝えたかったのだろうと思う。


 わたしは早稲田大学が好きだし、体育局での学生職員の仕事も嫌いではなかった。しかし、今の経理課での仕事は自分に向いておらず、やる気が出なかった。なんとか仕事がうまくできるように努力してきたが、1年以上たってもその成果が出ない。それどころか、経理の仕事がますます嫌いになってきた。そんな気持ちを自分自身持て余してしまい、そこからとりあえず逃れるために、インドヒマラヤで6,000m峰からスキー滑降するという目的を無理やり作って今回ここまでやってきたのだ。


 恵まれた労働条件の早稲田大学職員をやめるつもりはなかった。他の職業につくというのではなく、学内の違う職場で自分に合う仕事ができたら、それで良いのだった。


8月7日

 マナリの街を歩き回り、スキー板や靴を売っている店がないか探すが、見つからなかった。装備込みでトレッキングの世話をする観光会社はあるが、それでさえ金がかかる。今更ながら事前の準備不足が身に染みた。

マナリで

 とりあえず、明日乗り合いのジープでロータンパスを越え、セントラル・ラホールの山々を眺めに行くことにする。


8月8日

 ホテルの従業員に「ロータンパスの向こうまで行ってくる」、と告げて出かけた。


 マナリからジープにのって谷沿いの林道を遡る。ロータンパスは標高3,980メートルあり、高山植物が沢山咲いている。そこからはセントラル・ラホールの乾燥した土地に聳え立つ高峰がいくつも見えた。

ロータンパスからの眺め

 ジープは峠から向こう側の谷へ下っていった。下りついたところにコクサールという集落があり、そこでジープを降りた。食堂と宿屋をやっているところで昼食をとる。眺めがいいところなので、今晩はここで1泊してからマナリに帰ることにした。

コクサール近くで

 夜寝ていると、誰かがいさかいをしている声が聞こえた。尋常ではない様子だったが、関わり合いにならないようにベッドの中でじっとしていた。


8月9日

 コクサールからジープに乗ってまたマナリへ戻った。


 ゲストハウスに着くと例の従業員が、「昨晩はどうしたのだ。帰ってこないので大騒ぎになった」、とわたしに言った。


 そんなことはどうでも良いように思えた。問題にするのであれば、わたしにとっては、このゲストハウスで食事をすると毎回のように出てくる豚レバーの料理のほうが大きな問題であった。最初は旨いと思ったが、から揚げ、ソテー、フライ、と毎回出てくると、当然飽きてきた。


 それに、一度食事をしている最中に食堂の床に、蛇が滑りこんできた時もあった。さらにこの従業員、広いゲストハウスの中に従業員の数は本当に少なかったが、の話を聞いているだけでうんざりしてしまう。自分にとって何か利益になることはないか、もらえる物や金はないか、そんなことばかりを考えている様子が露骨だった。


8月10日

 わたしは、ここまでの旅を振り返り、これからの旅程について考えた。


 コクサールへの1泊トリップで、インドヒマラヤの山並みと高山植物を見ることができた。ここにこれ以上滞在しても、今の自分には6,000メートル峰からスキー滑降はできないことは明らかだった。必要な装備も情報も得ることができない。


 ここで旅の目的を山から平地に切り替えて、インド亜大陸を鉄道でぐるりと一周してみようと考えた。そして、具体的にコースを考え始めると、ようやくインドに旅しにきたことが楽しく感じられるようになった。一旦デリーに戻り、そこから旅の再出発をしよう。


8月11日

 デリーへ戻るバスのチケットを買い、マナリの散策をする。

マナリの杉林


マナリの子供たち

8月12日

 日本に戻ったらこれをわたしに送ってくれ、と例のゲストハウスの従業員からメモを渡された。メモにはラジカセのようなことが書いてあった。オーケーと答えて宿を後にした。送る気持ちはさらさらなかった。


 マナリからデリーへ帰るためにバスに乗る。なんだか来る時より晴れやかな気持である。

水たまりで泳ぐ水牛と子供
 途中道路ががけ崩れで寸断されていたりしていて、バスが長く停車することがあった。後の方の席に座っていると、前の方からパイプが回ってきた。みな一口吸っては次の席の人に回している。なにを吸っているのか分からないので、ちょこっと吸ったふりをして次に回した。そんなこんなデリーに着いたのは深夜だった。

 これからどこに宿をとればいいのか、いい考えが浮かばなかったので、オートリキシャの運転手に頼んで適当なホテルに行ってもらった。すると中心街の、瀟洒なホテルに連れて行かれた。夜更けにもかかわらず迎えに出たホテルの従業員は嫌な顔も見せなかった。


8月13日

 朝起きるといい天気だった。インド一周に出かける前に、ちょっとデリーを見物しておこうと、朝食のあとふらりと散歩に出た。


 ホテルの近くを歩き回った。日も高くなりだいぶ暑くなってきたので、さてホテルへ戻ろうかと思ったのだが、ホテルの場所がどこだか分からなくなってしまった。自分としたことがホテルの名前も覚えていない。財布も地図も持っていない。歩いて帰るしかなかったが、まったくどっちの方向だか見当がつかなかった。ともかく歩いて探すしかなく、見覚えのある景色をさがしながら、ただただ炎天下の街を歩き回った。のどが渇き、暑さに朦朧としてきたとき、ようやく見覚えのあるホテルにたどり着くことができた。


 部屋に戻り、エアコンを効かせて、わたしのここまでのインドの旅をつらつらと振り返った。


 今回の旅は、アクシデントが多すぎる。インドという土地柄、ヨーロッパと同じような旅はできないとしても、ちょっとひどすぎる。何でだろうか。それは、わたしが行き当たりばったりに行動しているから、ということだろう。何をしに、どこへ行くか。何を食べるか。どこに泊まるか。これらのことを、自分の意思で決めずに、その場の流れで決めていた。自分で自分の旅を作る意志が弱かった。それがさまざまなトラブルの原因だ。


 わたしは今回インドヒマラヤで6,000メートル峰からスキー滑降する、という目的をたて日本を出てきた。しかし、わたしはそれを実行するための準備を充分にしなかったし、その目的を何とかして達成しようという気持ちも乏しかった。


 その目的を捨て去った今は、これからのインド一周鉄道の旅を自分の意思でしっかり楽しもうと思った。これからインドを鉄道で一周する。

インド亜大陸周遊

 経路は、まずニューデリーから30時間かけて、チェンナイ(当時はマドラスと呼ばれていた)へ南下する。チェンナイ周辺で仏教寺院を見て、ベンガル湾で泳ぐ。


 チェンナイからさらに南下し、インド亜大陸の最南端であるコモリン岬へ行きインド洋を眺める。


 チェンナイまで戻り、そこからさらにコルカタ(当時はカルカッタと呼ばれていた)まで北上する。その街の現実を見る。最後はラジダーニ急行でニューデリーに戻る。


 このように予定した。


 これまで担いできたキャンプ用品など、これから使う予定も無いものは、ニューデリーの駅に預け、身軽になって鉄道旅行を楽しむことにする。


 服装はこれまでのカッターシャツとジーパンを改め、現地の人が着ているクルタパジャマに着替えた。これにマナリで買った頭陀袋を肩から下げて歩いた。こうしてみると、予想した通り脱力できて、インドの人たちのあいだに溶け込めそうな気がした。

クルタパジャマにお召替え

8月14日

 ニューデリーの駅へ行き、重い荷物を預け、インドレイルパスというツーリスト用のチケットを買い求める。

インドレイルパス
 デリーからはチェンナイまでは直線距離でも2,000キロ以上あり、足かけ3日かかる。乗っているだけでも大変だろうと思った。しかし、乗り込んだエアコン付きの2等車は、ここまでインドを旅したあいだに乗ったどんな乗り物より快適だった。車内販売があるし、途中の駅で列車すれ違いの待ち合わせの際に、ホームで食べ物や飲み物が買えるのでいろんなものを食べることができて楽しい。

 列車は心地よいスピードで田園地帯を駆け抜ける。ときどき線路端に列車が何両か転覆していたのが見えたが、あれは何だったのだろうか。あまり深く考えないことにした。


8月15日

 車中泊


8月16日

 チェンナイに着く。チェンナイはデリーと同様に暑かったが、海に近いせいか明るい雰囲気だった。


 中央駅の駅舎は煉瓦を漆喰で縁取りしたようなつくりで趣がある。既に決めてあった宿へ、駅前からオートリキシャで直行する。宿は、といってもホテルだが、リゾート風の作りで静かだ。しばらく休んでから、ホテルの前で客待ちしていたサイクルリキシャのおじさんに海岸まで連れて行ってもらった。ホテルから数キロだったが、わたしを乗せて漕ぐやせて日焼けしたおじさんの首筋にみるみる玉の汗が浮かび、どうにも申し訳ない気分になった。

サイクルリキシャを漕ぐおじさん

 着いた海岸はマリナビーチといった。ベンガル湾の荒波が打ち寄せ、沖には帆掛け船のような漁船が波にもまれている。潮風が気持ちよかった。わたしは泳ぐためにトランクス1枚になった。すべての荷物をリキシャのおじさんに預け、海にひたった。波が来るのですいすいと泳ぐことはできなかったが、楽しかった。

マリナビーチで

 海から上がって気分も良く、お腹が空いたので、食堂へ行くことにした。おじさんの知っている良い店に連れて行ってもらうことにした。ホテルの近くのその店は繁盛していて、料理も旨かった。ビールを飲むとさらに気分が良くなった。おじさんにも好きなものをご馳走した。


 おじさんは突然わたしに、「あなたは気をつけないと危ない」、と言った。何のことだろう、と思った。「さっき海で泳いでいる間、荷物をすべてわたしに預けたが、そんなことをしてはいけない。荷物に財布や旅券が入っていたら、わたしはしないが、他の人だったら大抵は持ち逃げする。わたしは、実際にそんな目にあった旅行者がいたことを知っている。あなたは油断してはいけない」


 こう話してくれたのだが、わたしはまだ被害にもあっていなかったので、あまり真剣には聞いていなかった。


 その店が気に入ったので夕食に1人でまた出かけた。そこで食事をしていると、知らない男が話しかけてきた。「どこから来たのか」、とか、「インドの旅はどうだ」、とか、「1人で心細くないか」、とか、親切そうにいろいろ尋ねてきた。


 1人旅のわたしは、リキシャのおじさんに言われるまでもなく、身の回りの注意は怠たっていないつもりだった。しかし、英語もろくに話せないと、旅の途中でイライラすることがある。そんなことが重なった時に、見知らぬ人から、何か困ったことはないか、などと親切にされると、その人のことをすっかり信用してしまう。


 その男はわたしがたどたどしい英語で答えるのを辛抱強く聞いていた。そして、「あなたは運がいい。いま有名なチター奏者のラビ・シャンカールが、チェンナイに来ていて、明日コンサートがある。もしそのチケットが欲しかったら100ドルで譲ってあげる」、というのだ。えっ、あのラビ・シャンカールが、とわたしは驚いた。そして、もしインドで彼の演奏を聴けたらどんなに素晴らしいことだろう、と思った。いい土産話になる、とも思った。


 その時は、うますぎる話だな、とは思わなかった。むしろ、この人と知り合って自分はついている、という思だった。それでわたしはその男に100ドルを渡した。チケットは明日の朝ホテルに届けてくれるという。


8月17日

 翌朝わたしはコンサートのチケットが届くのを待っていたが、昼になってもそれは届かなかった。わたしはようやく自分がだまされたことを知り、がっかりした。


 昼過ぎ、ホテルの前にリキシャのおじさんの姿が見えたので、知らない男にだまされたことを話した。なんとか金を取り返せないか聞いたが、その男はプロで、仕事場所をいつも変えているから、もう見つからないだろう、と悲しそうな目をして言った。おじさんの言ったことをもっと真剣に聞いていたら、こんなことにはならなかっただろうと思った。


 それからわたしはおじさんのサイクルリキシャに乗って、チェンナイの街をあちらこちらと見て歩いた。


 大きな町で大学や博物館も立派だった。チェンナイを出発する日、おじさんは自分の住所を書いた紙きれをわたしに差し出し、「日本へ戻ったらわたしに手紙を送って欲しい」、といった。わたしは、「必ず書きます」、と言ってそのメモを受け取った。


8月18日

 今日はチェンナイから離れたところにある仏教史跡めぐりのバスツアーに行く。


 このツアーの参加者はアングロサクソン系の人が中心で、アジア系の人はいなかった。その中に、現地の生地でできた服を、現代的にエレガントに着こなしている女の人がいた。日本の女性にはなかなかこういう風にはできないな、と思う。


 Thear Thirukalukundramという古く大きな石造りの史跡を見て歩いた。近くの山の上に寺院が見えたので、あそこまで登ったら眺めが良さそうだと、入ってみた。
その寺院の名前はArulmigu Vedagiriswarar Temple, kanni rashi templeというのだった。入口で履物を脱ぎ、はだしで石畳の階段を登って行く。この石畳が強烈な日差しにさらされていて猛烈に熱せられている。その上をはだしで歩くのはきつい。これまで、こんなに熱いところを歩いたことはない。とても我慢できないので、小さな日影を見つけては休み、また次の日影まで小走りに駆けて行き休む、ということを繰り返して、ようやくてっぺんまでついた。てっぺんからは、史跡のまわりにずっと広がる田園地帯が見えた。

ティルカルクンドラムを見下ろす

 史跡の近くの土産物店や食堂をぶらぶらしていると、暑い地面をいざってくる人がいて、「バクシーシ(喜捨を!)」と手を差し出してくる。この人たちは、手足がなかったり、指が欠けていたり、あるいは全部無かったり、足が丸太のように膨れ上がっていたり、ととても正視にたえられないような姿だった。


 わたしははじめこの人たちに1ルピーほどのお金をあげたことがあった。しかし、旅が進むにつれてだんだんあげないようになった。そして旅の最後にはまったくあげないようになった。理由はとても簡単である。数が多すぎてとても全員にあげていられないからである。


 ツアーの途中で、昼に地元の食堂に立ち寄った。たいそう繁盛していて、たくさんの腰巻すがたのおじさんたちが、ワイワイ言いながらアルミの大皿にのった料理を手づかみで食べている。


 何を注文しようかと思ったが、メニューも分からないので、あれちょうだい、という感じで、隣の人が食べているカレーとサブジがのっているものを指さした。食べてみると肉は全然入っていなかったが美味しかった。その山盛りのご飯をようやく全部食べ終え、ほっとしていると、店員がバケツをぶらさげ、ヒシャクを手にやってきて、バケツの中のご飯をヒシャクにたっぷり取るなり、何も聞かずにわたしの皿にガーンとのせた。最初の食いっぷりが良かったので、コイツはまだ食えそうだ、と見たのだろう。わたしはしばし呆然とした。しかし今日は、あちこちにたくさんいた乞食に喜捨もせず、そのうえここで食べ物を残しては申し訳なかった。それで無理をして何口かを口に運んだのだが、もうそれ以上は食べられず残してしまった。

サブジ

8月19日

 チェンナイでの滞在を切り上げ、さらに南へ向かう。


 チェンナイからトリバンドラムへ行く夜行列車に乗る。


8月20日

 夜行列車は16時間で順調にトリバンドラム駅に着いた。


 駅の近くのホテルに宿をとり、部屋で休憩する。このとき、部屋にあったポット入りの水を飲んだ。インドに来てから、これまでもあちこちのホテルで部屋にあった水を飲んだが、なんともなかったので、衛生面は気にしていなかった。しかし、今回飲んだ水は生ぬく、美味しくないなとは思った。

トリバンドラム動物園で

 明日朝早くコモリン岬へバスで行く予定なので、チケットを買いに行く。ホテルに戻ると腹の具合がおかしくなってきたが、まだなんとか行動できた。


8月21日

 昨日からの腹痛はついに下痢を伴うようになってきた。バスにはトイレは付いていないが、なんとか我慢できるだろうと勝手に決めコモリン岬へ出発する。


 コモリン岬に着いた時は、もう一瞬でも早くトイレに駆け込みたい状況だった。バスを降りてすぐにトイレに入った。そこから寺院のある岬まで歩いて行くのだが、その間にまたトイレに行きたくなってきた。トイレを探しながら歩いていると、とうとう岬の先端まで来てしまった。あたりはゴツゴツした岩ばかりで、木が1本も生えていない。トイレもない。わたしはおもむろにしゃがみこんで、写真でもとるようなポーズで、そこで用を足してしまった。

コモリン岬で

 帰りのバスでも便意がおそってきたが、なんとか持ちこたえてトリバンドラムのホテルへ戻った。そして、部屋のベッドでぐったりと寝た。


8月22日

 体調は最悪だが、ここにいても仕方ないのでコルカタへの移動を始める。


 トリバンドラムからチェンナイに戻る夜行列車に乗る。


8月23日

 車中では、トイレが近くにあるので安心だが、下痢の頻度は昨日より多くなり悪化している。チェンナイからコルカタまではコロマンデル急行で27時間の旅。待合室でひたすら列車の出発を待つ。

コロマンデル急行

8月24日

 ほとんど液体状の便はこらえることもできない。シャーと出てしまい着ているものも汚れる。下着は数枚しかないので、仕方なく列車の中で洗濯をし、寝台の横に干しながらの旅である。


 時折右にベンガル湾を見ながら北上していく。腹痛と下痢は止まらず、体力が落ちている。食欲もない。ずっと寝台にぐったりしながら車窓の風景を眺め続けた。夕方、ベンガル湾に流れ込む大きな川にかかる橋を渡った。壮大な夕陽が川の水面に照り輝いて、とてもきれいだった。

夕陽

8月25日

 コルカタはデリー、ムンバイにつぐインド第3の大都市だ。わたしはコルカタに来てみたかった。そこには圧倒的な数の人々の貧困と混乱があり、それはとてもインド的であろうと思ったのだ。


 コルカタのハウラー駅前に立つと、なるほど混沌としている。チェンナイの、どこかのんびりとした雰囲気とはあきらかに違う。どこか余裕のない、殺気立った都市の雰囲気が感じられる。その中で、1台のオートリキシャに乗り込んで、目指す安宿へ向かう。

ハウラー橋で

 はじめに行った安ホテルは満員だと言われた。その近くでさらに安い宿を見つけることができた。


 ともかくベッドに倒れ込むようにして寝る。腹痛はなくなってきたが、下痢はまだ止まらず、食欲もない。狭い独房のような部屋でぐったりと寝ながら、いつになったらこの下痢は治るのだろうかと考えた。下痢が始まってからもう4日目だが、まだ治るきざしが無い。この暑さの中で、物を食べずにいるので、体に力が入らない。今は寝ているしかなかった。


8月26日

 まだ下痢が止まらないので、今日も寝ているしかない。


 少し何か食べたい気がしてきたが、レストランへ行く気力も体力もないし、だいいちインド料理は食べたくない。屋台で売っているようなファーストフードも油っぽくてだめだ。何を食べたらいいだろうかと考えた。そしてインドに来てからよくカレーにオクラが入っていたのを思い出した。オクラを刻んで醤油をかけ、かきまぜて食べてはどうだろうか。醤油はインドの店先でよく見かけたので、すぐ手に入る。


 そんなことを考えているうちに、我慢できないほど腹が空いてきたので、オクラと醤油を買いに出た。

コルカタの裏通り

 よれよれのクルタパジャマを着て、下腹を押さえながら、とぼとぼと近くの店屋へ行き、オクラをひと山とソイビーンズ・ソースの小瓶を買ってきた。宿の調理場でオクラをよく洗い、ナイフで刻んで、醤油をかけ、よくかき混ぜる。ちゃんと粘りが出る。口に運んでみると、とても美味しかったが、たくさんは食べられなかった。それでも、物が少し食べられたので、ちょっと安心してまた眠り続けた。


8月27日

 昨日買ってきたオクラがまだたくさん残っていたので、お腹がすくと刻んで醤油をかけて食べては寝た。


 何度目かに目覚めた時、腹痛と下痢が止まってからだに力が入るようになってきているのを感じた。オクラのおかげだと思った。オクラのお世話になったのは、これが2度目だ。


 高校1年生の夏に、わたしは山岳部の合宿で北アルプスへ行った。山へ入って6日目、途中で豪雨による停滞もあって持ってきた食料や燃料が尽きかけていた。おかずもろくにない夕食を寂しい気持ちで食べていた。そのとき顧問のAさんがザックの底からオクラを取り出して、刻んで醤油をかけ、わたしのご飯の上にのせてくれた。このオクラと醤油の味に食欲は一気に掻き立てれ、ご飯を平らげることができた。打ちひしがれていたわたしは、一瞬にして元気をとりもどした。


 あれから10年がたち、いまインドのコルカタでまたオクラのおかげで元気をとりもどすことができた。


 久しぶりに鏡に写った自分の顔を見てみると、げっそりとやせたうえに、ひげも伸びて、だいぶむさくるしくなっている。そこでまず床屋へ行き、さっぱりすることにした。


 インドへ来てから、道端に椅子をおいて営業している床屋をあちこちで見た。あれだとすっかりこちらの人の髪形にされそうなので、一応建物の中に店を構えている床屋へ行った。


 椅子に座ると店のひとは適当に刈りはじめたので、わたしはとんでもない髪形にならないように、鏡にうつった店員をじっと見ていた。ここまでの腕前からすると、まあそれほど突飛なヘアスタイルになる心配はなかった。インドだって人間のやることは大同小異だから、あれこれ注文しなくとも、散髪ぐらいはしてもらえることがわかった。


 さて髪を刈るのが終わって顔剃りが始まるところで、店員がわたしに何かを問いかけてきた。何を言っているのか分からなかったが、わたしの伸びかけたひげをさしているところをみると、このひげはどうするのか、と聞いているようだった。現地の人の多くはひげを生やしている。その形はさまざまだ。わたしのは中途半端な伸び方だったので、どうしたら良いか分からなかったのだろう。そこでわたしはちょっと考え、「切らないでくれ」、と言った。ひげを生やして日本へ帰ろうと思った。経理課のあの穴倉のような部屋にインド土産のひげづらで戻るのはいい考えだと思ったからだ。


8月28日

 体調も良くなったので、コルカタの市内の植物園、寺院、博物館などをあちこちと見て歩いた。

コルカタの交差点

見世物

ココナツジュース

デモ行進

サトウキビジュース

 夕方、ハウラー駅からラージダーニー急行に乗りデリーへ戻る。


 夕食を車内で予約したので運んできてくれた。ポットに入れられた美味しいチャイを飲みながら食事をした。窓にうつる景色がきれいで、インドに来て本当に良かったと思った。

車窓からⅠ

車窓からⅡ

8月29日~31日

 デリーでは、中心地コンノート・プレースにある比較的いいホテルに泊まった。

 お土産を買うために、街のあちらこちらを見て回った。その中で、ある店の銀細工に目がとまった。銀の指輪に好きな模様やイニシャルを入れられる。店員と交渉したところ、値段も手ごろなので買うことにした。ただ、イニシャルを刻む作業は、ここではできないので、少し離れた銀細工職人の所へ、自分で行ってくれと地図を渡された。

 地図を見ながら裏道に入り、ごみごみとした一角に目指す建物を見つけ、作業場があるはずの上階へ上がっていった。作業場に入ると職人らしき老人がいたので、伝票と指輪を差し出した。彼はすぐに要件を理解して、そこで座って待ってくれと、床にひかれた敷物をゆびさした。わたしがそこへ座ると彼は奥へ入っていった。間もなく戻ってきてわたしの前に飲料水のビンを置き、「どうぞ飲みなさい」、と言う。わたしはその冷たいカンパコーラを飲みながら、彼の作業を見ていた。


 10分ほどで作業は終わった。わたしはきれいにイニシャルが彫られた指輪を彼から受け取り、コーラのお礼を言った。正直言って彼は気安くわたしにコーラをご馳走してくれるほど豊かでないように見えた。なので彼に、「どうしてコーラをわたしにご馳走してくれたのか」、と聞いてみた。すると彼は、「わたしにとって客であるあなたは神である」、というようなことを言った。わたしはその言葉に心を動かされた。また彼は、「あなたは英語が話せないのですね」、とわたしを少し憐れむように言った。わたしはこの言葉に、もっと英語ができたら、もっと楽しい旅ができるだろうと思った。


9月1日

 暑いインドを離れ、日本へと帰った。