1972年8月29日火曜日

小遠見山

 僕自身の高校生活において、何かのきっかけがあったのかと見るならば、この山行が重要であった、と明記しなければならないだろう。しかし、このようなことは、他人に理解してもらうのは難しいことではないかとも思う。


 真夜中近く、A先生の自動車で、昨冬磯工山岳部の冬期合宿でスキーをしに行った神城の小屋へ向かった。僕だけが誘われたのかと思い込んでいたが、他にも磯工生が何人かいたので意外だった。

 夜の道を飛ばしていった。相模湖で中央高速道路に入り、大月で国道20号線に降りた。甲府から諏訪へ向かう途中で1回休んだ。あたりがぼんやりと明るくなる頃に仁科三湖を過ぎて、見覚えのある神城の小屋に着いた。しばらく休んでから白馬まで買い出しにでかけ、その後小屋の周りで少し遊んだ。


 翌日は、たしか仁科三湖に釣りに出かけたと思う。でも何も釣れなかった。沖縄について少しばかり必要なことを知った。米軍に対する激怒があった。これがのちにもの凄い重さをもってきたのだった。


 次の日は、たしか山に登ったと思う。天気は上々だった。地蔵の頭まで登る八方尾根や五竜岳のほうが良く見えた。すこしスケッチをしてから小遠見山まで行った。さらに眺望が良くなった。槍ヶ岳も見えた。


 その翌日は、小屋でゴロゴロしてから、夜遅くになってまたA先生の自動車で小屋をたった。


 今(1973年10月)思い返してみると、あの頃の自分がとてもいやらしく思える。自分の考えがなくて、まるで子供の様に毎日をなすがままに生きていた。でも、今はいったいどうであろう。果たして自分というものがあるだろうか。自分とは一体何であろうか。やはり僕はそのあたりから考え直してみなければいけないような人間のような気がする。

 

 いつも考えは千々に乱れる。考える力が無いのではない。おそらく考えが行き着くところが恐ろしいのだと思う。

 

 もうすぐ磯工祭がはじまる。

 

1972年8月10日木曜日

鳥海山

父の実家に遊びに行っているあいだに東北の名峰、鳥海山を登りに行きました

8月9日

陸羽東線から陸羽西線を経由して羽越本線まで直通の急行列車に乗りました

酒田までは混雑していましたが、酒田から象潟までは座ることができました


象潟で少しバスを待ち、登山口を目指しました

バスは鳥海山のすそ野に広がる樹林帯を、ゆっくりとゆれながら登っていきました

大平小屋を過ぎ、終点の鉾立でバスを降りました


いつもの癖ですぐに歩きはじめました

新山の頂上が見え隠れしているところを越すと雪渓があり、そのすぐ上が御浜小屋でした

小屋の前を通ると小便臭がしました


鳥の海を右下に見て、ゆるい傾斜のところを上り下りすると外輪山の末端に着きました

ガレ場をトラバースして雪渓に降ります

そこで祖母が持たせてくれた10個の茹で卵のいくつかを食べました


雪渓通しには行かないで、岩のゴロゴロしたところをさらに登ります

稲倉岳は眼下になりましたが、新山の頂上はまだ頭上遥かです


急登を続けると再びトラバースの道になり、頂上の小屋の前に出ました

小屋に荷物を置いて、頂上の往復に出かけました

岩峰というよりは、大岩を積み重ねたようなピークです

足元に気をつけながら登るとすぐ頂上に着きました

今夜は頂上の小屋で泊まります


8月10日

翌日は河原宿へ降りました

南面の日当たりのよい広大な斜面に、高山植物がたくさん生えていてきれいです

河原宿からさらに湯の台まで下り、そこからバスに乗って酒田へ出ました


1972年8月6日日曜日

吾妻連峰

どういうわけか磯工山岳部は高校総体の全国大会(インターハイ)に出場できることになりました
出場できるようにT先生がいろいろ準備したといううわさがもっぱらでした
参加するための旅費は全額支給されましたので経済的な負担はありませんでした

8月1日

新橋のT先生の家に前泊して、早朝上野駅から山形行きの特急に乗車しました

駅に着くのが遅れて、もう少しで乗り遅れるところでした

列車の中ではいろいろと打ち合わせることがありました

ぜんぜん特急列車に乗っていること楽しむことができませんでした


米沢に着くと、地元の中学生が大勢で歓迎してくれます

バスで白布温泉まで行き、中屋という宿泊先の旅館に入り、温泉でゆっくりくつろぎました


8月2日

翌日は登山競技の開会式があるので、またバスで米沢まで行きました

校庭で火縄銃のデモンストレーションを見せてくれました

ものすごい大音声がしたのでびっくりしました


市民会館のなかで行われた開会式では槙有恒氏の講演がありました

「集団登山で得るものは交歓しかない。」ということばが印象的でした


開会式が終わってから、またバスに乗り、登山口の峠まで行きました

途中バスの中で少し寝てしまいました

峠からは林道を1時間ほど歩いて滑川温泉に着きました

天幕を張って食事の用意をしていると、ポツポツ雨が降ってきました


8月3日

翌日も朝から雨でした

午前中は天幕の中ですごし、午後は姥湯というところまで足慣らしに出かけました

姥湯はなにか地獄のようなところでした


8月4日

その翌朝もまだ少し雨が降っていましたが、出発することになりました


姥湯への道から分かれて沢に入りしばらく行くと沢を抜けて霧ノ平の鞍部に着きました

なかなか見晴らしが良いところでした

吾妻連峰で 1972年8月

樹林帯の尾根を登っていくと家形山に着きました

眼下には五色沼が雲の移り変わりに応じて様々に湖面の色を変化させていました


五色沼の向こうにある一切経山に登ります

丈の低い草原のところは風が強く吹いていました

写真で見覚えのある吾妻小富士がすぐ下に見えました

その右手が今夜の幕営地でした


8月5日

キスリングを天幕の中に置いて、サブザックで東吾妻山に登りました

針葉樹のジャングルをぱっと抜けて気持ちの良い草原になるとそこが眺望の良い山頂でした


鎌沼で昼食をとり吾妻小富士の麓まで戻りました

吾妻小富士は富士山のような形をしていますが、山頂までは5分ぐらいで登れました

火口の中に降りると、ぐるりと火口壁に取り囲まれて、すり鉢の底にいるような感じがしました


吾妻小富士の麓からまた中屋までバスで行きそこに泊まりました


8月6日

閉会式で優秀校の発表があり、磯工山岳部はその中に入っていませんでした

メンバーのみなと米沢駅で別れ、そのまま父の実家のある宮城県の古川へ向かいました