目標 レーニン峰(7,134m)登頂および頂上からのスキー滑降
7000m峰の短期速攻は、すでにパミール以外の山域においても繰り返し試みられており、それ自体価値の高いものではない。バリエーションルートを狙うか、あるいは8000m峰への踏み台として利用するほかには、はっきりいってパミールが興味あふれる山域であるとはいいがたい。
また、パミール周辺は、シルクロードの昔から、文化の交差路として歴史的に重要な地域であったが、通りがかりの登山者には種々の制約もあり、入山前後にあたりを見てまわるのもままならない。
そういう山域を、わたしたちはなぜ選んだのか。
それは、パミールが高峰からの滑降を目指すある種の山岳スキーヤーにとって、またとない7000峰であると確信できるからである。これは最初の6000峰として、かつてペルーアンデスを目指した理由とよく似ている。アプローチの便の良さ、山容のたおやかさ、そして登山適期が日本の夏にあたる、などである。これらは、究極の山を追い求めていくスペシャリストには関係のない条件ばかりかもしれない。しかし、それぞれに職業を持ち、ひとかどの社会生活を営んでいるわたしたちが、高峰からのスキー滑降を希う時、実現可能とおぼしき山こそ真のハイマートとなる。その意味で、パミールはわたしたちに1つの可能性を提示してくれている。
7000峰からのスキー滑降。
わたしたちの目的は、シンプルでささやかである。しかし、これを手中にするため、思いつくあらゆる可能性を探し求めていく時にこそ、わたしたちの喜びがあると信じたい。
あえて海外遠征とはいわない。
高峰からのスキー滑降を実践しようとすれば、対象が日本以外にしかないだけのことである。肩肘張らずに、自分たちの目標と素直に向きあってきたい。
(計画書から)
7月30日 晴のち曇
キルギス共和国のオアシス都市オシからバスに揺られること10時間余り。わたしたち3人は、世界各地から集まったアルピニスト約100人と共に、これから4週間登山活動をする拠点になるアチクタシ(標高3600m)に着いた。
すでに夕闇が迫る時刻であった。北のアライ谷から南の峰々まで、雲が厚く頭上をおおっていて、レーニン峰は見えなかった。しかし、谷の広がり具合と、周囲の尾根の位置関係から、わたしたちの目指すピークが、どちらの方向に、どのくらいの高さで聳えているか、想像するのはたやすかった。
ここを訪れるのは初めてだったが、このパミール国際キャンプとレーニン峰については、すでに必要以上に多くのことを聞き見知っていた。
4年前にペルーアンデスで味わった新鮮な感動は望むべくもなかった。未知なる発見をここに求めてきたのであれば、大変に失望しただろう。しかし、「7000峰の試金石」であるレーニン峰に、自分がどれだけ通用するか興味をもってここを訪れた者にとっては、このBCの環境がまさに聞き見知ったとおりであることが、自分の計画を実現するうえで有り難いのである。ここには食堂、シャワー、診療所などが完備しており、これらは初めて7000m峰に臨むものの強い味方になるはずであった。
7月31日 晴
朝一番でテントから飛び出し、まだ新しい陽光の恩恵に浴していない深緑の牧草地の彼方を望む。そこには頂稜をモルゲンロートに染めた白い峰のどっしりとした姿が見えた。何度も見直した写真の中にあった見慣れた山が、なるほどここにこうしてあるな、という感じだった。
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ベースキャンプで、レーニン峰を背後にして |
初めて7000m峰に臨むにしては、いささか淡白な印象だろうか。わたしとしては、この山の頂上に登り、そこからスキーで滑るプランはすでに充分検討してあったし、それなりの成算があった。だからここに及んで動揺することもなく、冷静でいられた。
この気分は、ペルーアンデスで初めて6000m峰を見た時と似ている。あの山に登るためには、自分が理解した高所登山の理論を正しく実践する必要がある。それができるかどうかが成否を分ける。そして幸いにも、6000m峰に登り、滑って降りてくることができた。
そして今回、新たな目標を前にして、自分がなすべきことは明らかだった。ペルーアンデスのでの経験をベースにして、さらに1000m高い山を、気力や体力だけでなく、高所登山理論を新しいステージで実践することだった。
ソビエト側と打ち合わせをした後も、レーニン峰の基本的な攻略プランに変更を加える必要はないと思った。しかし、ソビエト人トレーナーの意見をいれて、高所順応トレーニングは、アチクタシからの日帰りではなく、ペトロフスキー峰で1泊する日程で行うことにした。
Tはもともと4000m以上で1泊するのがベターだと言っていた。幕営装備を持って行くのが煩わしいが、2日間で登る高度差は少なくできる。
昼過ぎまでに食料の調達や装備の点検を済ませ、あとはアチクタシの周辺に広がる牧草と草花の入り混じった緑地帯を散歩した。Tはペトロフスキーのコルに向かったが、Kちゃんとわたしはまだそれほど元気ではない。Tはここへ来る前にヨーロッパアルプスで2週間ほど山歩きしているので、4000mの順応はすでに出来上がっている。わたしとKちゃんは富士山に数回登っただけだから、じっくり順応に取り組む必要があった。
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BCからペトロフスキーのコルを望む |
そうはいっても軽すぎるかな、と思われる1時間ほどの散策を終えた。
BCのテントの前でゴロゴロしていると、ペトロフスキーのコルからパラパントが飛び立とうとしているのが見えた。風向きでも悪いのか、何回か試みた後、こちらへ向かって飛び降りてきた。よくみると飛んできたのは、モスクワから一緒にここまできたAさんだった。彼とはまだ知り合って数日しか経っていなかったが、ここでこうやってのびのびとやっている日本人がいるのは誇らしかった。
わたしは夕方から腹の具合がおかしくなり、夜にはすっかり下痢になってしまった。BCの食堂で出る飯が、どうも鼻についていけない。
8月1日 晴のち曇
BCにいた日本人パーティーは朝食後皆それぞれの目的地に出かけて行った。しかし、わたしたち3人は今夜ペトロフスキー峰の4200m地点に泊ることに決めているので、午後遅く出発すれば十分だった。
こういう景色の良いところでのんびりするのは良いことだが、他のパーティーの行動を無視して、マイペースを守ることはなかなか難しい。ともすれば、早く高所の実感を得たくて動き回りたくなるのである。
日もだいぶ傾いた午後3時半過ぎ、わたしたちはようやく腰を上げてペトロフスキーのコルを目指した。
草原の端からコルへは小尾根上の露岩帯を登って行くのだが、わたしの腹具合は最悪で、いつ便意が襲ってきても不思議でなかった。また、1歩足を上げるのに呼吸を4、5回しなければならないほど体力も消耗していた。ペルーアンデスへ行ったときには下痢などしなかったのに、BCの食堂が出すおぞましいロシア料理のせいで塗炭の苦しみを味わされているのである。
ついに我慢できず急な尾根の途中で苦しい態勢で用足しをしたとき、TとKちゃんが心配そうにわたしを見下ろしていた。わたしは自分のことなので意外に気楽に考えていたが、上の2人はさぞ心配していたのだろう。2人に遅れてわたしがようやくコルに着くと、「無理しないで降りようか」と言ってきたが、「大丈夫、大丈夫」と答えた。
それに何しろ、どうしても気になることがあったのである。ここまで登ってくる途中で、ソビエト人トレーナー3人が猛烈なスピードで駆け上がってきた。ペトロフスキー峰から飛び立ったパラパントが、失速して墜落したのがBCから見えたのだという。まさかA氏だろうか。詳しい状況が分からないので、ともかく上に行ってみなければいけない。
そうはいっても、情けないことに体が鉛のように重たく、行動が思うにまかせない。幸いなことにTが元気で、トレーナーたちと共に墜落地点に急行してくれた。
ようやくコルに着き、さらに尾根を登ると、墜落地点が望めた。そこで動いている人影の様子からすると、遭難者は絶望的ではないかという気がした。現場の上方には、ペトロフスキー峰の頂上へ至る雪壁が覆いかぶさっていたが、そこにひとすじスプーンで欠いたような跡が認められた。
現場を望むこの尾根の上に、7人の日本人がいたが、みなTの帰ってくるのを鬱した気持ちで待った。やがて降りてきたTが腕とピッケルで✖の字を作ったので、一縷の望みも絶たれてしまった。遺体はヘリコプターでBCに降ろされたという。
その夜わたしたち3人は、遭難現場とBCを結ぶ直線上にある尾根の上で泊まった。腹具合が悪くなり、夜更けに目が覚め、テントの外へ出ると、生暖かい風が吹いていた。
ペトロフスキー峰は厚い雲に覆われて見えなかったが、下方には外灯に縁どりされた人影のないBCが見えた。あそこのどこかに荒川氏の遺体が安置されているのだろうか。それにしても彼はなぜあそこまで性急に行動したのだろう。レーニン峰に取り付く前に死んでしまうなんて。数時間前に起こったアクシデントの意味が呑み込めず、眼差しは星が瞬く中空をさまよった。
8月2日 霙(みぞれ)のち雪
明け方から霙がテントのフライを叩いている。朝食はテルモスに残っていたお茶を飲んだだけでBCへと下った。
気温の低下とともに霙は雪に変わった。テント場から1時間程でBCにつくと、日の丸が半旗になっていた。水っぽい異国の吹雪にあおられ、旗が竿にからみついている。日の丸には特別な感慨はないが、これはなんとも嫌な気分だ。
わたしの腹具合は相変わらず不調で、食堂で出る飯はにおいが鼻について食欲が起きない。ろくにものを食べずに下痢をし続けているので、出たものにはもう固形物はなく、ほとんど水分である。
食堂で隣に座った顔に凍傷を負っている人によると、今夏は降雪が多く、レーニン峰の上部では雪崩が頻発しているそうだ。彼自身6000m付近で雪崩に遭って登頂を断念したということだ。
昨日の不幸な事故で、日本人パーティーはみな打ち沈んでいた。この気分を変えようと、夕飯は全パーティー一緒に自炊することにした。日本から持参した食料を持ち寄り、しばらくぶりに食欲をそそる料理を作った。このBCにいる日本人全員がひとつのテントに集まり、自分たちで作った夕飯をよもやま話をしながら食べた。
8月3日 雨
雨が降り続き、BCから見える近くの山も、高いところはすっかり雪化粧してしまった。
明日いよいよ第1キャンプ(C1、標高4300m)に入る予定なので、装備の点検と食料の調達をする。そのためにBCを歩き回ると、ここにいる人の数がめっきり減っているのに気付いた。わたしたちと一緒に入山した100名近い参加者のほとんどが、すでにBCを離れて上部へ向かっているからだ。まだBCでうろうろしているのは、体調不十分で上部へ行けない連中だ。
冷たい雨は午後から上がる気配を見せ始めた。それと歩調を合わせるように、わたしの下痢もおさまってきた。数日食べるものに気をつけ、休養したのが効いたのだろう
テントでゴロゴロしていると、トレーナーから連絡があり、雨が止んだのでBCのヘリポートで荒川氏の追悼式を行うとのことだった。
ヘリポートへ行ってみると、遺体が収められた棺が日の丸の旗で包まれ、ベンチの上に安置されていた。その周りをBCに居合わせた人々が取り囲んだ。ソビエト側と日本側からそれぞれ弔いの言葉がなきがらに捧げられた。そこここからすすり泣く声がもれた。わたしは正面に見える峰の頂を歯を食いしばって睨みつけ、どうしたってレーニン峰には登らなければ悔いが残るな、と思った。
8月4日 晴
悪天は去り、アライ谷は3日ぶりにまた高く晴れ上がった朝を迎えた。もう体調はすっかり回復し、C1入りすることに何のためらいもなかった。
草原のはずれの「探検家の峠」の登り口までトラックに揺られていく。正面にはレーニン峰が長大な稜線を左右に広げて聳えている。その懐に飛び込んでくる者も、無造作に受け入れてくれるような様子だ。いつの昔から続くのか、この峰の悠久の歴史の中で、自分が1匹の蟻のような存在にすらなれるのかどうか危うく思われるほど、ここにはほぼ静止したような時間が流れている。
トラックから降りたところには、レーニン峰の麓のU字圏谷を流れてきた水が、アライ谷の扇状地の頂点にゴルジュ滝となって落下している。C1までのトレースはしっかりしており、ずっと先の草地の上に続いている。花が咲き乱れ、傍らに小川の流れる小道が、左から押し寄せているモレーンを横切る。ここから左上に「探検家の峠」が見える。そこまでは、ザレたジグザグ道を一投足である。
峠に着くと、一気に眺望が開けた。荒々しいレーニン氷河を隔てて、第19回党大会峰が白い雪と氷のベールをまとって立っている。遥か右上にはレーニン峰の頂がわたしたちを見下ろしている。山頂とこことの標高差は3000mほどだろうか。その前景で、峠を渡る涼風が可憐に生きるちいさな草花の葉裏をそよがせていた。
峠からはザレた道を上流に向けてトラバース気味に下降していく。降り立ったところには、氷河の雪解け水が土砂もろとも濁流となって流れている。そこを徒渉し、道は氷河のモレーンに登り返す。砂礫の上につけられたトレースに導かれ、やがて雪の降り積もった氷河の上に立つ。
ここからC1まで広大な氷河の真ん中を、360度の景色を楽しみながら漫歩した。3人とも体調が良く、BCから約5時間でC1に着いた。C1の指定地のモレーンをきちんと整地して、アタックベースキャンプをしつらえた。
8月5日 晴のち雪
さっそく偵察と荷揚げを兼ねて、レーニン峰の北斜面に行くことにする。
C1を午前11時に出発。モレーンを下ったところから、すぐにスキーをつけて歩きだす。30分くらいはほとんど平坦な氷河である。そこからいきなり北斜面になる。
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レーニン峰北斜面の上り |
昨日C1に入る途中で、この辺りを誰かがスキー登行しているのが見えた。その時の印象では、かなりの急斜面かと思ったが、今日実際に歩いてみると20度位で、さほどではない。C2までシール登行できるだろう。
C1から正面に見える急斜面の最上部近く、標高約5,000メートルのところで背負ってきた荷物をデポする。
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デポ地点で |
C1から3時間ほどの登りだったが、C1のテントなどが思いのほか遠く見える。ゆっくり休んだ後、ザラメ雪を蹴飛ばしてC1のモレーン下までスキー滑降した。
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デポ地点からのスキー滑降するT |
当初はこの北斜面を、山頂に向けて直登するルートも登路の候補に入れていた。今日間近に偵察したところ、稜線からスダレ状に雪崩が落ちるのが見えた。特に降雪直後は雪崩に巻き込まれる危険性が高いと判断した。そのため、レーニン峰への登頂ルートは、一般ルートであるラズジェリナヤ峰を経由するルートに決定した。
8月6日 晴のち雪
これから3日かけて本格的な高所順応を行う。最高到達高度は6,300mを予定しているので、これから1日につき400mだけ新しい高度を体験していけば良い計算になる。400mという高度差は、高度障害が生じない簡単な低山であれば、1時間強で登れてしまう。そして、新しい高度を獲得したら、一旦ぐっすり眠れる高度まで下がって泊るのが良いとされている。
レーニン峰は、C1からC2までの高度差が約1000m、C2とC3の間は約800mあるので、新しい高度に到達した後、ぐっすり眠れるキャンプまで下るのが一苦労である。それで、理論と現実にどこかで折り合いをつけなければいけない。
たとえば、6300m地点まで行き、一旦C1まで下山して、そこで休養してからアタックをかけるとする。すると最後は6300m辺りにC4を出して頂上を狙うことになる。これでも、最後は結局800m以上の高度差を克服しなければならない。この標高で、この高度差はなかなか容易なことではない。しかしその心配をするのはまだ先でいい。当面はいかにうまく高度順応を仕上げるかである。
昨日登ったトレースを、今日は重い荷物にややうんざりしながら登りはじめる。(9:20)照りつける陽光を呪いながらも、体は良く動き、ペースは順調だ。
デポ地点までの長い直登の途中で、突然フランス人パーティーがスキー滑降してくるのに出会う。一昨日ここの斜面を登っていたのは彼らだったのか。ひと言二言ことばを交わし、あとは気持ちよさそうに滑っていく後姿を見送った。
彼らもまたレーニン峰の頂上からの滑降を狙っているのだろう。パラパントでのフライトを予定している連中もいるようだ。
5000m辺りでデポを回収する。ここから斜面が緩やかになってくる。ここまで一途に山頂を目指して突き上げていたトレースは、ここから右上し始め、最後は長いトラバースのあとC2に着く。
トラバース開始地点に荷物を降ろし、しばし雲の作る日陰を待った。C2には20張ほどのテントが、午後の陽を受けて佇んでいるのが見える。高度はすでに5,000mを越えているが、とくに高度の障害は出ていない。しかし、暑くて、くたびれて、やたら喉が渇く。
長いトラバースを済ませてC2に着く。(17:20)テント場の入り口にトレーナーのテントが張られていて、そこにいたトレーナーがお前の写真を撮らせろと言うので、得意になってポーズをとった。Tの奮闘で荷揚げも順調に終わり、晴れてC2の住人となる。
8月7日 晴
C2のテント場のすぐ脇には、クレバスがあちこちに口を開けている。昨夜寝ていたら、枕のずっとずっと下のほうで、突如ギシーッという不気味な音がした。おそらくクレバスの奥で氷塊が歯ぎしりでもしたのだろう。クレバスの穴はゴミ捨て場にもなっていた。
今日はC3まで登る予定だが、みんな体調が良くないようだ。例の怪音だけでなく、テントが狭いのと、そしてさすがに高度の影響があって、良く眠れなかった。それでも朝食をとり、準備をして出かけた。(9:00)10分ほど登ったところで、Tは胸が苦しいと言ってC2に戻った。Kちゃんは全くのスローペースになった。わたしも調子は良くないが、5,500m辺りまで登ってKちゃんが登ってくるのを待った。
その間に、ルートについて考える。
C1から山頂までの間に、登高に困難がともなう場所は無いようだ。あえて言えば、今登ってきたところが、やや狭くて急なようだ。それでもスキー滑降ができないほどの悪条件ではない。この時点で、C3より上部に、スキーでは滑降しにくい部分があるとは思っていなかった。
ようやく登ってきたKちゃんと、C2までスキーで下る。適度に雪面が軟らかくなっていて、滑降は困難ではない。しかし、体がどうも自由に動かない。
8月8日 晴のち雪
この3日間で充分な高所順応ができたとは言いがたい。しかし、かなり疲労し、調子が良くないので、C1に降りて休養することにした。
最高到達高度は5,400mで、目標を1,000m近く下回っている。山頂までの高度差をまだ1,700m以上残している。もっと登っておきたい気がするが、ここで無理は禁物である。
C2以上で使用する沢山の装備は、C2にデポしていくので、とても身軽になる。(11:00)C1への下りはスキーを満喫できる。
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C2からスキー滑降するKちゃん |
C1から山頂までの間で、C2からC1への滑降がもっともよい斜面である。レーニン氷河の広大なうねりを正面に見下ろしながら。シュプールを描いて行くのはこの上なく楽しい。ここはソビエト、ここはパミール、なんてことは忘れ、自分たちの慣れ親しんだスキー動作ができることが嬉しい。
こうして夢中になれる時間はいつも短いものだ。パミールの雪を味わいつつ降りてきたが、C2からC1まで2時間かからなかった。
8月9日 晴
昨日の夕方から降り始めた雪は、明け方まで止まなかった。朝起きると、一面の銀世界に太陽の光がまぶしく散乱反射している。今日は休養日である。雪が降ったからという訳でなく、昼近くまで寝ていた。
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C1での休養 |
午後ゆっくり食事をしてから、氷河の上を流れている小川に水浴に行った。久しぶりに石鹸で洗った頭を、流れの中に突っ込むと、頭皮がギュッとばかりに縮んでしびれた。ギラギラした太陽の下で体を洗っていると、急に黒い雲やって来て、雪が落ちてくるので堪らない。
明日から頂上にアタックすることに決めた。高度順応はまだ十分ではないが、日程的に最初で最後のチャンスである。この際登ってみて調子を見るしかない。
8月10日 晴のち雪
いよいよC1からアタックを開始する。装備には食料などを若干追加しただけだ。アタックは早朝からという山登りの古い習慣に従い、満天の星空の下を歩きはじめる。(6:00)
氷河谷の底をヘッドランプを灯して歩く。後からC1を出発したパーティーに抜かれたが気にしない。雪面にはまだ朝の陽が届いていないのでシールの食い込みが良くない。この単調な急登も3回目である。
デポ地点に着くと、ようやく陽が差し始めてきてホッとする。
C2がよく見えるトラバース開始地点で休んでいると、ソビエト人トレーナーが後から上がってきた。A氏が遭難した時に、救助のために駆けつけてきてくれたニコラとその連れである。わたしたちがモタモタしているうちに、あっという間にC2へ向かっていってしまった。ずいぶんペースが違うものである。感心していてもしょうがないので、わたしたちもC2へと向かう。前回よりも所要時間を2時間ほど短縮できた。(11:00)
わたしたちが残置したC2のテントには、新雪がどっさり積もっていたので、それをどかしたり、テント場の整備をしたりした。
すると、どことなく味のある50がらみのおじさんが、テント場のはずれの、ガラ場と雪の境目を、ピッケルでほじくりはじめた。何をしているのか見ていると、やがて小学生の持っているようなプラスチックの水筒を出して、水をくみ始めた。C2には水は無い、と聞いていたので驚いた。さっそく好奇心旺盛なTが行って、おじさんの隣りでホジホジし始めた。すると間もなくTも水を出した。ブラボー。
夕方から悪天になり雷鳴がとどろく。これまでは、しばらくすると雲は去り、快晴の朝を迎える、というパターンだった。今日はちょっと様子が違う。寝る頃になっても雪は止まなかった。テントに積もる雪のサクサクというかすかな音と、例のギシーッという気味の悪い音が、アタック前の眠りを妨げた。
8月11日 雪
日の出の時刻を過ぎても、雪は止まなかった。
Tはテントの外で所在無さそうに辺りを見回している。わたしとKちゃんはふて寝していた。一昨日雪がたくさん降ったので、これから数日は天候が安定するだろう期待していた。しかし、行こうかどうしようかという迷いが起きないほどの良い降りっぷりである。止むまで起きない、と昼近くまで惰眠をむさぼった。
テントの外が明るくなってきて、それが寝ていられないほどになったので、とうとうシュラフから出る。身の回りを整理していると、腹がすいてきた。テントの外に出て、EPIガスに火をつけ、ラーメンを食う。ふと見上げると、雲の一角が切れて、青空がほんの少し顔を出す。わたしとTはどちらからともなく顔を見合わせ、「行こうか?」「行こう!」ということになった。
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C2で |
あたふたと荷物をからげ、C3へ向かう。(14:00)日もさんさんとさし始め、何かいい予感がする。雪が降っている間も、登降していた人がいたとみえ、トレースは消えていなかった。
ラズジェリナヤ峰への最後の斜面にかかると再び降雪となり、ラッセルする。視界が落ちた中を登って行くと、斜面は緩み、やがて平坦になった。そこがラズジェリナヤ峰の6,148mの円頂だった。ペルーアンデスで経験した最高高度とほぼ同じ高さである。その時よりも今回のほうが体調は良い。しかし、視界が良くないので、あまり浮いた気分ではない。TとKちゃんと握手して、早々にC3のテント場へ向かう。
時刻はすでに午後8時をまわっている。明日は頂上アタックなので、早朝に出発しなければならない。時間の猶予はない。
6,000mのコルに着き、テントを張り終えた頃には、辺りはすでにとっぷり暗くなっていた。お湯を沸かし、とっておきの高価な乾燥食を食べ、たらふくお茶を飲む。3人とも体調は良く、気力も充実している。明日のアタックが楽しみ、という気持ちで、好天を祈って寝た。
8月12日 晴のち時々雪
起きてテントの外に出て空を見ると、瞬く星の数が少ないので雲が出ているのかと思った。しかしそれは麗麗とした月の光のためで、空には雲一つなかった。ついているぞ。
アタック前の張りつめた気分で出発準備をしていると、やがて東の空が赤くもえだした。
午前7時。まだ顔を見せない朝日を迎えに行くような気持ちでC3をあとにする。わたしだけがスキーを持って行くことになった。TとKちゃんは登頂を優先する。
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C3からアタック開始 |
第1のプラトーまでの稜線に、先行パーティーのランプがちらついている。冷たい朝風に吹かれ、体が縮み上がる。とともに、キジを撃ちたくなる。沢山着込んでいるので厄介だが、仕方なく寒風吹きさらしの斜面に尻をさらす。思わぬ拾いものは、あさまだきの景色だった。登っている時は目の前の登路にばかり気をとられていたが、背後には大自然の朝の儀式が展開していたのだ。平凡な朝の儀式をしながら、それにみとれた。
Tは、私たちのスローペースにしびれを切らし、「先に行っていいか」と尋ねてきた。そうしていけない理由はないので、「いいよ」と答えた。
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第一プラトーの手前で |
第1のプラトーに着くと、日の光を全身に浴びることができた。一方で、目の前の平坦部分の長さにいささかうんざりする。プラトーの先はまた急な尾根状になって、その上が第2のプラトーになっているようだ。先行するTはすでにその尾根状にさしかかろうとしている。
この辺りからKちゃんのペースがめっきり遅くなり始める。視界が利くので、Kちゃんの所在が確認できる範囲で先行することにする。登頂して、今日中にC3に戻るには、ある程度のスピードが必要だ。軽量化するため、ビバークの用意はしていない。
第2のプラトーに着いたTが「ここから山頂まであと2時間くらいかかる」とコールしてきた。時刻はすでに午後1時。残り時間が少なくなってきた。現在地の標高は6,800m前後だろう。
パミールへ来た目的はレーニン峰の登頂と頂上からのスキー滑降だ。これが両方達成できれば言う事はない。しかし、登頂が危うくなったら、まず始めにスキー滑降を諦めなければならない。わたしはここにスキーをデポすることにした。
スキーをデポすると、足どりが速くなり、息がはずんだ。
Tがコールしてくれた地点に着くと、第2プラトーから山頂へ続く登路が見わたせた。ここから砂丘のような雪原を30分ほど行き、ゆるやかな斜面を1時間で山頂だろうと予測した。また必ずここに戻ってくるつもりで、8ミリカメラとストック以外の装備をさらにデポする。
薄黒い雲が飛来し始め、視界を妨げだした。先行しているはずのTと、後続しているはずのKちゃんの姿を時々探すが見えない。一刻も早く山頂に立ちたいと、心は急ぎ足で雪原を渡り、ゆるやかな斜面にさしかかる。今朝から8時間行動してきて、足はずっしり重くなってきた。
斜面の切り替わるところで、降りてきたTにばったり会う。相当消耗した様子で「山頂らしきところまで行った」という。ちょうど午後4時。「5時まで、あと1時間だけ登ってくる」と告げて、Tから一眼レフカメラを借り、別れる。
ここからは斜面はさらに緩くなり、頂上がどこだか判然としなくなる。道標などはない。
7,000mの高みで、右往左往すれば危険な状態になることは目にみえていた。確信無しに歩みを進めることはできない。このトレースは頂上へ向かっていないな、と思いつつ歩いていると、うまい具合にニコラが下山してきた。
「これから天候が悪化するから、もう下山したほうがいい」
「わかった。レーニンのモニュメントはどこにあるんですか?」
「あと15分登って左にトラバースするんだ」
「ありがとう」
言われたとおりに歩いたが、それらしきものは見つからない。そうすると今度は別の2人のソビエト人に出会った。またモニュメントの所在をたずねると、ニコラとほとんど同じ答えである。それではらちがあかないので、そこまで連れて行ってくれと頼んだ。
あとについて歩いて行くと岩陰に、数枚のプレートとともに右向きのレーニンのレリーフが置いてあった。すぐ隣に、誰かが置いて行ったスキーが1本、雪に刺し立ててある。午後4時40分だった。
視界は良くない。2人のうちの若いほうの人にわたしの写真をとってもらい、ついでに8ミリカメラも回してもらう。
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レーニン峰山頂で |
聞いたところ、彼らは今日パラパントで頂上から飛ぼうとしたが、風の具合が良くないので、見合わせたとのことだった。第2のプラトーから山頂を望んだ時、誰かがテントを張ろうとしているように見えたが、あれはパラパントだったのか。非業の死を遂げたA氏のことが頭に浮かんだ。
彼らに礼を言って山頂を後にしたが、彼らはどのようにして今夜を過ごすのだろうか。
下り始めると、疲労がどっと押し寄せてきて、時々ストックにもたれかかって休んでは下った。
荷物をデポしたところに着くと、KちゃんとTがわたしを待っていてくれた。そこから3人一緒に下る。風雪にトレースが消されており、下山は遅々としてはかどらない。
それでもスキーデポを回収して、部分的に急な小尾根を下ると、なんとかスキーができそうな斜面になり、天候も回復してきた。わたしはスキー滑降をする余裕はなく、引きずってくだっていたが、Kちゃんが暗に滑ることを強いていた。それで自分でももったいないかと思い、だるい体に鞭打つようにスキーを履いた。それだけでもかなりの気力を必要とした。
滑降を前に気持ちを落ち着けようと、ザックに腰を下ろし、あたりを眺めた。風雪もしばし止み、暮れなずむ陽の光を受けて、空中に漂う雪片がキラキラと眩かった。
滑りだすと、薄雪の下に隠れた岩が邪魔で、うまくターンが決められない。それでも第1のプラトーまでなんとか滑る。滑降は案の定満足のいくものではなかった。6,700m地点からスキーで滑った、というアリバイが残っただけと言ってもいいだろう。
プラトーにはガスがたちこめ、後続しているKちゃんとTの姿が見えない。しかし、トレースがはっきりしているので、心配はなかった。スキーをはずし、落日と競争するように最後の斜面を駆け下り、C3のテントのシュラフに一気にもぐりこんだ。
8月13日 晴
のんびりと6,000mの朝を目覚めた。体がだるい。昨日7,000mまで行ってきてくたびれた、という軽い程度ではなく、急性高山病の症状である。このコルは景色がいいし、食料も燃料もまだあるから、しばらくここでのんびりしよう、なんてアイディアは禁物である。ここでグズグズしていると、間もなく自分のからだが全く動かなくなることは目に見えている。
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C3でレーニン峰を背に |
荷物をまとめて、C1まで最後の滑降をするべくラズジェリナヤ峰に向け登り返す。(7:00)体が鉛のように重い。ペトロフスキーのコルに登った時のつらさが蘇ってきた。数人がたむろしている円頂でしばらく休んだ後、滑降に入る。雪は重い新雪である。荷物が重く、運動能力が低下した状態で、悪雪の上に苦労して大きなターンを描く。少し滑っては、肩で息をしながら休んだ。
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ラズジェリナヤ峰にのこしたシュプール |
それにしても、登頂後のしめくくりとして、スキー滑降を楽しめるのは、山スキーを愛する者の特権である。登る時には少しも外さなかったトレースを、下りでは大胆に無視して、楽しそうな斜面を選んで滑った。やっとこれまでの記録写真で見たことのない景色が眼前に広がった。
C2手前の最後の急斜面では、足元から次々に表層雪崩が出たが、規模は小さかったので滑降に影響はなかった。C2で北大隊にお茶をご馳走になり、また元気が出る。
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C1への滑降 |
ここからガスが巻きだしたレーニン峰の北斜面にとりかかる。ここはすでに1回滑っているので気楽だった。長い斜面を下りながら、これからも雪山はスキーに如くは無しと思うことしきりだった。(C1着18:00)
8月14日 晴
また晴れた。ほとんどの荷物はヘリコプターで下してもらえるので、身軽になってC1からBCへと下る。(12:00)C1に登ってくるときは、レーニン氷河の上に雪が積もっていたが、もう消えている。ハイキング気分で辺りの景色を眺めながらのんびり歩く。
正面に見える茶色い山と、後方に白く輝くレーニン峰と、左右を取りまく山々と、本当に広いところだなあ、と思った。(BC着17:00)