アンデスのシュプール
(1983年東京スキー山岳会ペルーアンデス・スキー登山隊の記録)
高峰からのスキー滑降
日本人プロスキーヤーがその探検的行為として、世界の幾つかの高峰から滑降した記録はある。が、しかしアマチュアスキーヤーの海外での活動は、ゲレンデを起点とした水平志向のものが多く、高峰からの滑降それ自体をその山行の目的として掲げた試みはきわめてすくない。
わたし達が、このような過去にあまり例を見ない海外スキー山行を計画した理由は、正にこの点にある。
高峰の登山を困難にする自然条件として、その高度、山容の複雑さ、置かれた気象条件の3つが考えられる。これらの条件は、往々にして登る際に伴う困難性として受け取られる場合が多い。というのも、「登山」ということばの意味からして、その行為の主体は、あくまで登ることにあり、下山が目的になることは少なかった。「登山」は、「山をやる」という一連の行為のある一面しか言い表していない。だから、一般に「登山」と呼ばれている活動は、むしろ「登降山」と言いかえたほうがその全体を正しく言い表しているといえる。
それならば、「下山」も「登山」と同じ様に、何か心を駆りたてられるような行為であっていけない理由がどこにあろう。「下山」に力点をおいた山行がもっと積極的に試みられていい。
既に、多くの山スキーヤーによって「下山」=「滑降」を目的とした山行が広くおこなわれている。今回のわたし達の試みは、ただこのことを海外の高峰で行うという点で際立っているにすぎない。
(計画書から)
1983 TOKYO SKI-MOUNTAINEERING CLUB,
PERUVIAN ANDES EXPEDITION
隊員 K(26)装備・医療担当
T(27)食料・会計担当
行動概略
ペルーアンデス・ブランカ山群のワスカラン(6,768M)の登頂ならびにスキー滑降を目的として、1983年7月17日に日本出発。
20日、登山基地ワラスに到着後、高所順応ならびにスキーの足慣らしには山域としてイシンカ谷が適しているとの情報を得る。23日よりイシンカ谷に入り、25日にTがウルス東峰(5,420M)、29日にはKがイシンカ(5,530M)に登頂し、同日Tはトクヤラフ(6,032M)の5,700M付近から5,000M付近までスキー滑降を行った。
30日再びワラスに戻って休養する。その間、ワスカランの氷河の状態が例年になく良くないということから、計画を根本的に検討し直すことにする。山容・標高・アプローチ等の諸条件を総合的に考慮した結果、ワスカランとイシンカ谷のほぼ中間に位置するコパ(6,188M)に白羽の矢を立てる。
日本人が未踏のピークであることから、登頂ルートなどについて情報がえられなかったため、8月1日に山麓から偵察したところ、登頂ならびにスキー滑降は可能であるとの感触をえた。また、ワラスに滞在中のH氏とS夫氏の同行も得ることとなった。
8月5日、氷河湖畔(4,700M)にベースキャンプを建設し、7日アタック・ベースキャンプ(5,600M)に入り、8日頂上に向け出発。天候も良く、順調に登頂できるかと思いきや、頂上直下(6,150M)は切り立ち、雪庇が張り出していることから、登頂は断念する。その地点からABCまでスキー滑降し、そこに泊る。
9日5,000M付近までスキー滑降の後、BCを撤収して10日にワラスに下山。
ワラスとリマでそれぞれ休養や観光などに残った日数をあて、18日日本に戻り、たったひと月の遠征を終えた。
行動日誌
7/17 成田出発
カナダ・バンクーバー到着
7/18 カナダ・バンクーバー市内観光
7/19 ペルー・リマ到着、太田光成氏、西海ペンション主人の出迎えを受ける。
7/20 登山基地ワラス(3,050M)到着。
7/21 谷川省三氏宅へ挨拶、休養
7/22 イシンカ谷入山準備
7/23 イシンカ谷4,350M地点にBC建設
7/24 K、高山病のためワラスへ下山
T、BCよりウルス東峰(5,420M)の4,800M地点まで登る
7/25 K、復調し夕方ワラスから戻る
T、BCよりウルス東峰登頂
7/26 K、BCよりイシンカ湖(5,000M)まで往復
T、BCにて休養
7/27 K、BCよりイシンカ(5,530M)の登頂を目指すが、イシンカ湖付近にてルートを
誤り、登頂を断念
T、トクヤラフ(6,032M)にてスキー滑降を試みるためにBCより5,200Mまで荷上
げしBCに戻る
7/28 K、TともBCにて休養
7/29 K、BCよりイシンカ登頂
T、BCよりトクヤラフを目指すが、5,400M地点で体調不良のため断念。同所より
5,000Mまでスキー滑降しBCに戻る
7/30 BCを撤収しワラスへ下山
7/31 ワラスにて休養
8/1 コパ(6,188M)偵察
8/2・3 ワラスにて休養
8/4 コパ入山準備
8/5 ビコス(3,050M)よりレギア・コーチャ(4700M)までキャラバンしBC建設
8/6 ルート偵察を兼ねて5,300Mまで荷揚げしデポ。BCまで下る
8/7 5,600MにABC建設。
K、Tは5,750Mまで偵察に行き、同所よりABCまでスキー滑降
8/8 コパ登頂ならびにスキー滑降をめざしABCを6:00出発、6,000Mのコル9:00到着、山頂
直下(6,150M)に10:15到着、同所よりコルまでTがスキー滑降、コルからABCまで
K、Tがスキー滑降
8/9 ABCならびにBCを撤収し、ビコスへ下山
8/10 ワラス到着
8/11 ワラスにて休養
8/12 チャビン・デ・ワンタル遺跡見学
8/13 リマ到着
8/14-16 西海ペンションに滞在し、リマ見物など
8/17 リマ出発
8/18 成田到着
イシンカ谷=高所順応と滑り初め
7月22日
午後、イシンカ谷からHさん(同人オルホ)が下山してきた。その時までわたし達は明日からピスコ(5,752M)へ行って、1週間かけて高所順応とアンデスでのスキーの滑り初めをするつもりでいた。ところが、そのHさんの話によると、イシンカ谷はわたし達の今回の計画の趣旨にとても適した山域だということだった。
彼は既にピスコに登っていたが、イシンカ谷が適切な理由として、以下をあげた。
イシンカ谷はワラスからほど近いので、もし入山後に高度障害が出ても速やかに下山して再起を期せる。障害が出る可能性は非常に高い。
イシンカ谷の周囲には、ピスコ並みの高度があって、登頂しやすいピークがいくつかある。
それらのピークの山頂付近には、スキーに適した雪原が広がっている。
アプローチのキャラバンは、緑も多く、心和む美しさである。
良いことずくめの話しであるが、確信をもってアドバイスされてみれば、わたし達とてピスコに固執する理由はなにもないので、即座に「イシンカ谷へ行こう」ということになった。
さてそのイシンカ谷は、ワラスの北東方向に位置し、車で途中のコヨンという部落まで入れる。そこでキャラバンのためのブーロ(荷物を運ばせるロバ)を調達して、ベースキャンプ予定地(4,350M)まで標高差約1,000Mの行程を、約半日で行くのだそうだ。
夜、Hさんたちとトルーチャ(ニジマスのたぐい)を食いに行った。イシンカ行きの打ち合わせはもう済んでいるので、話題は高野潤さん(写真家)の冗談っぽい笑い話に終始した。久しぶりの酒で、楽しいには違いないのだが、明日からの山行のことが頭の隅にちらつき、地酒のピスコにも今ひとつ酔えない。Kはどういう気持ちでいるのかと、「そろそろ帰って寝るか?」と聞くと、「時間は気にしなくていい」という返事。そういわれてみれば、「そうか」と答えるしかないのだが、それでいて酒宴の盛り上がりとは別なところにいる自分を意識せざるをえなかった。
7月23日
谷川さん宅前から、コレクティーボ(乗り合いタクシー)で出発する。運転手の「ファン」はここに来る日本人が必ずといってよいほど利用する顔なじみである。というのも谷川さんのセニョーラ(奥さん)にタクシーの手配をお願いすると、まずこのファンに話が行くからである。たくましい爆音のする旧型のフォードに、わたしと、Kと、これから1週間山での生活を共にする我等がテント・キーパー「フリオ」を乗せ、ワラスの町を後にする。
リオ・サンタの流れに沿った幅の広い舗装道路から、イシンカの渓谷に入ると急に道が悪くなり、山肌からの流水を横切ったり、人が乗ったままでは登れないような急坂があったりする。川床にはユーカリの木が、日本でいえば松か柳の風情で沢山はえている。時折、人家の脇を通ろうとすると、その家の飼い犬が狂ったように自動車めがけて吠えついてくる。谷川さんのところで聞いた話では、この辺りには狂犬病にかかっている犬がウジャウジャいるそうである。健康な犬でさえ苦手なわたしは、それを聞かされたとき、恐怖の余り唖然とさせられたが、実際にこうしてお目に掛かってみると、全く目の前が真っ暗になるような見事な狂犬ぶりである。「イシンカ谷に行くのなら、石ころと棒切れは沢山持って行け」というアドバイスは、ただの冗談だと思っていたのに・・・。いまは自動車に乗っているからまだいいものを、歩いている時にこんな立派な狂犬が登場したらどうしようと、はやくも冷汗が流れてくる。
そうこう不安がっているうちに、自動車はコヨンのちいさな学校の芝生の広場にとまった。これ以上奥には車で入れないようだ。早速荷物を降ろして辺りの様子を伺っていると、近所の人家からもインディオ数人がこちらをウサンくさそうに見ている。
辺りは実にのんびりした景色だ。ここでブーロを探して、夕方にはBC予定地につきたい。そういったこちらの都合とは、ほとんど相容れない雰囲気で、ここの時間は流れている。いくらこちらが焦っても、むこうがその気にならなければ何事も始まらない。フリオがブーロを探しに行っているあいだ、かんかん照りの広場には、荷物と、Kと、わたしだけが残った。スキーを入れてきた白いケースが、この場所にはいかにも場違いでまぶしい。
それでもかれこれ2時間ほどすると、なんとかキャラバンの態勢が整った。ここに到るまでに、何やかやと煩わしい事があったりして、その度に「ああ、自分の足でテクテク歩くだけならどんなに楽だろう・・・」と思うことが度々だった。いまやっとそのときが来た。空身同然でキャラバンの馬の後ろをスタスタついて行く。
コヨンからイシンカ谷と一旦別れて右前方の大地を目指す。民家の脇を通る時は要注意。例の狂犬が、ちょっと家の敷地に入ろうものなら、猛然と吠え掛かってくるからだ。日本の犬には見られないドロンとした、いかにも凶暴そうな目つきにくわえ、痩せこけた背中を丸めているのが、その狂犬病菌(こんな菌があるかどうかは知らないが)の悪性さを物語っているような気さえする。まずいことにこの吠え声が次の家、次の家と連鎖反応をおこして、我々の行く先は「ワォッー、ワォワォッー」という歓迎の声一色になってしまった。恐ろしさに体がすくんでしまいそうだ。わたしはキャラバンの2頭の馬の間に挟まってなるべく犬を刺激しないように歩いた。
台地の上に出ると、そこは広々とした気持ちの良い牧草地で、正面にオクシャパルカ(5,581M)から続くなだらかな氷河が落ち込んで来ている。氷河のさらに下部は、長い年月にわたって磨かれたスラブ帯が広がっている。その上を流れる冷たい水が、今歩いている草原を横切って、リオ・サンタに注いでいる。
やがてこの一面冬枯れた牧草地の踏み跡は、イシンカ谷へとトラバースを始める。短くて急な斜面があって、その赤茶けた土埃の道を馬の後ろから登る。上に着くと、これから入ろうとする谷の様子がここでやっとはっきりする。標高はすでに4,000Mになんなんとしているのだが、見渡す谷はなるほど緑が濃い。下流の水辺に生えていた樹木がほとんどユーカリだったのに、この付近では別種の広葉樹である。その木々の上には穂高岳の屏風岩のようなフェースが、黒く見えるほどの青空をバックに聳え立っている。
わたしたちのキャラバンは一向にペースを落とす気配もなく、流れに沿った道をひたすらBC予定地めがけて進む。ようやく高度の影響も色濃く、馬の尻を追いかけるのが精一杯で辺りの景色も目に入らない。一旦狭まった谷がまた広がってきて、きれいなU字谷の氷食地形を見せる頃になると、灌木もまばらになり辺りには放牧の牛がまき散らすフンが目につくようになる。やがて右側から100Mほどもある滝が落ちてくる下の砂地にテントが数張見えた。
河原で水浴したり昼寝をしたりして、4、5人が午後の時間を過ごしている。今日は彼らの休養日なのだろうか。テントの近くでごろりと横になっているインディオのテント・キーパーらしきものに、「この辺りに日本人のテントはないか」と尋ねると、ごろりとなったまま「もっと上だ」と面倒そうに答える。
上のテント・サイトに着くと、正面にトクヤラフ(6032M)がまず目に入る。この谷のどんづまりに位置し、まわりを見下ろすように一段と毅然とした趣で、東洋からの2人のスキー・アルピニストを迎えてくれている。
この白く輝いている山がいったいどれくらいのボリュームをもつのだろう。今立っているところと、あの山の頂上との標高差は1,600から1,700Mに過ぎない、水平距離も5㎞とないだろう。このスケールだけをとってみれば、日本でやる山スキーと大差ないといえる。たとえば信州の白馬岳の大雪渓を滑りに行ったときなどは、東京を前の晩に自動車で出発、徹夜で運転をして翌早朝から歩きだし、頂上までの標高差2,000Mを克服してスキーを楽しみ、その日のうちに帰途についた。これだって、特に記録的といった山行ではなく、すこし山好きの人間ならばこれくらいのことはやるだろうといった程度のものである。それに比較してみれば、これからここでわたしたちがやろうとしている山スキーが、ことさら困難な試みだとは思えない。ただ、その山とこの山と、根本的に違うのは、絶対的な高度の違いである。
一体この高度というやつが曲者であるが、半面山をやるものにとっては、曲者だからこその魅力にひかれてしまうという妙な具合になってしまう。昔のことわざに云う「蓼食う虫も好き好き」、あるいは近頃耳にする「ほとんど病気」といった言い回しが、そういった状況の形容として相応しいかもしれない。わたしの病気は症状として軽いほうで、仕事の合間を見つけては気晴らしにチョロチョロ山スキーをしに出かける、といった程度のものである。
まあ、そうはいっても高い山に登りたい、そして天辺から滑ってきたいというシンプルな希望はあるわけで、この控え目な夢を現実のものとせんがために、人に聞く「高所順応理論」にもひとわたり取り組んでみたのである。
そこで「高所順応理論」なるものについて然るべき書物を読みちらした挙句、ひとつ大変面白い、大胆な意見に出くわした。それは高山研究所長の原真氏が「登山のルネサンス」(山と渓谷社刊)のなかで言及している説だが「頭の悪い人間に高所は危険」というのである。かなり思い切った印象のある発言である。
というのも、もしこの説が正しければ、「いくら高い山に憧れていても、頭の悪い人間には登れない」し、さらに「高い山に登れなかったのは頭が悪かったからだ」という推論さえ成り立ちうるからだ。そうなると当然、高い山に憧れていながら自分の頭脳に自信のないものは「おれは高い山に登れるほど頭がいいだろうか」という悩みを抱えることになる。
また、高い山に登ろうとして失敗したものは「おれは高い山に登れないほど頭がわるいのだ」という劣等感に苛まれる。どちらのケースにしろ、こういった思考方法はいわゆる伝統的な「山ヤ」には馴染みの薄いものであろう。
高い山に登るために必要な条件を、最も単純に「高所登山理論を理解できる頭脳=アタマ」と「高所での技術=ワザ」そして「高い山に登れる体力=カラダ」と定義すれば、原氏のいう「頭の悪い人間」とはすなわちここでいう「アタマ」の悪い人間ということになる。それならば、この一見過激そうに見えるこの説にもそれなりに納得はいく。「ワザ」や「カラダ」が秀でていても、「アタマ」がよくなければ、高所登山中に刻々と変化する状況に正しく対処できず、生命の危険を招くことになるからだ。
とまあ日本で考えていたことをちらりと思いだして、またトクヤラフに目をやった。
Hさんがいっていたとおり、テント場にはSさん(富士宮山岳会)と石戸谷さん(同人オルホ)がいた。わたし達のコールにはじめは怪訝な様子だったが、わたし達がイシンカ谷へやって来た理由を話すと、いろいろとアドバイスをしてくれた。とりあえず彼らのテントのとなりにBCを設営する。
コヨンから歩きづめで来たので、さすがに体がだるい。しばらくボーっとして休んでいると、となりのテントが焚き火を始めた。夜気もせまってきた。早く眠りたいので、フリオに水を汲みに行かせ、夕飯の用意をする。
このフリオという男は、あまりテント・キーパーの経験がないらしく、逐一となりのテント・キーパーに仕事の要領を教わっている。きれいな水の流れている場所、焚き火が必要なこと、食べた後の食器の後始末などなど、となりのテントのインディオは事細かに伝授している。彼らはケチュア語でやり取りしているので、たとえ悪い相談をしていても、こちらには全然わからないのだが、この半日、フリオをそれとなく観察した印象では、有能ではないにしろ、わたしたちの足を引っ張るようなことはしそうもなかった。むしろ、素朴でたくましいから、こういう見知らぬ山の中では頼りになるといっていいだろう。
今日コヨンに来る途中のことだった。ファンがワラスのはずれのガソリン・スタンドに立ち寄ったとき、少し時間があったのでみんな車から降りた。そのときわたしはフリオの仕草を見ていた。彼も車から降りようとしたのだが、彼は車のドアの開け方が分からなかった。また、車がイシンカ谷の日陰道に入ったとき、朝のヒンヤリした空気が車の中に入ってきたので、フリオ以外のみんなは一斉に窓を閉めた。助手席に座っていたフリオだけは、素知らぬ顔をしてシャツを腕まくりしたまま、涼しいというより寒いほどの風に吹かれている。ファンがこれを見とがめて、フリオに窓を閉めるように言うと、今度は窓の閉め方が分からないのである。
フリオの名誉のために一言すれば、彼は不器用なのではなく、たまたま車に代表される近代文明の産物には、この辺りに住むインディオの多くと同様に、馴染みが薄いだけのことなのである。イシンカ谷で彼とともに1週間を過ごし、かれの自然人としての魅力を目の当たりにした後には、彼に対しむしろ尊敬の気持ちがあった。
7月24日
朝、目を覚ますとKがボンヤリとした感じで谷の下の方に歩いて行くのが見えた。散歩か、それともキジを撃ちに行ったのだろうと、高をくくっていると、しばらくすると帰ってきて、「調子が悪いので1日下山する」という。いつもあまり表情を変えない彼だから、このときもわたしにはそれほど彼の調子が悪いか分からなかった。ともあれ高山病であることには間違いないので、わたしも下山をすすめる。うまい具合にSさんたちも今日山を下りることになっていたので、Kも彼らと同行することになった。もしSさんたちがいなかったならば、当然一緒に下らなければならなかったところだが、彼らの好意に甘えてわたしはとりあえず高所順応に専念することにした。
さてこのイシンカ谷は、西に向かって口をあけたコの字型の稜線にとりまかれており、その稜線に顕著なピークが6つある。ウルス(5,495M)、トクヤラフ(6,032M)、パルカラフ(6,110M)、イシンカ(5,530M)、ランラパルカ(6,162M)、オクシャパルカ(5,881M)である。これらのうち、ウルス東峰(5,420M)がBCから最も近く標高差1,100M、水平距離は2㎞に満たない。またイシンカは標高5,000M地点にある湖まで明瞭な踏み跡があり、そこから上はなだらかな氷河雪原が山頂まで続いているという。水平距離はウルスよりもある。
Sさんたちが登ったトクヤラフは6,000M峰であるから前の2峰よりもグレードが高く、水平距離もあり、頂上に到る最後のワンピッチはザイル確保があった方が安心だそうだ。
どのピークに登って高所順応するのか、決めなくてはいけない。
今回のわたしたちの遠征の目的を考えたとき、高所順応はとりわけ重要な意味を持っている。というのも、6,000Mのピークから楽しく滑って降りられるには、まず「余裕しゃくしゃく」でその山に登れるのが前提条件だからだ。余裕を持って登るには、何よりも上手く順応していることが必要だ。すべてはそこにかかっている、といっても過言ではない。たとえ山に登れても、滑って降りて来られなければ、わたしたちの遠征は失敗だ。では、その順応訓練はどんな山を選んで行うのが良いだろうか。
わたしの考えはいたって単純だ。近くて、難しくなく、しかも適当な高度のある山でやればいい。
遠い山だとルートの傾斜が緩いから同じ高度を稼ぐのに余計時間がかかる。たとえ近くにある山でも、ルートの中に困難な部分が含まれているとそこで時間を食う。さらにこれは当たり前だが、いくら近くにある簡単な山でも、ある程度高くなけれ打順応にならない。
これらの判断要素をもって具体的に山を選択できるかといえば、それはまだ早計だ。というのも、これらの条件には、客観的な根拠となる具体的な数字が一切示されていないのだ。どのくらいの距離をもって近いとか遠いとかいうのか。どの程度を困難だとか簡単だとか形容するのか。また、順応訓練に相応しい高度はなにをもって決定するのか。
わたしは結局ウルス東峰にまず登ってみることにした。BCのすぐ前にあるし、難しくもない。標高が5,400Mそこそこで少し物足りないがKがいない間に単独で登るには適切だろう。
BCから大岩のゴロゴロした窪地を30分ほど登り、右のリッジに取り付く。急登でしかも木はこの高さではすっかり無いので、一歩ごとに視界が広がる。テント脇の芝生でフリオが寝そべってこちらを見ている。普通のペースで登っても息がはずむので、呼吸をわざと大きくする。こうすると体の隅まで酸素が行き渡る気がする。尾根の傾斜が少し緩んだところで高度計を見ると4,850Mある。BCから500M登った。双眼鏡で辺りを見回す。ウルス東峰は小規模な氷河に取りまかれており、右下から山頂に突きあげるトレースがはっきり見える。今日は誰もアタックしていないようだ。谷を隔てて見るイシンカ峰の雪原は期待していたほど大きくはない。むしろトクヤラフにスキーを担ぎ上げた方が楽しめそうだ。トクヤラフはアプローチが短いし、しかもピスコより高度がある。もしウルスがうまく登れたら、狙ってみたい。そんなことを考えながらBCに駆け下りる。
フリオと2人で夕飯を食べ、寝る頃になると頭痛がしたのでポンタールを飲む。
7月25日
今日ウルス東峰には単独のわたしのほか、オーストリア隊とドイツ隊がアタックしようとしている。わたしは一番遅れて出発した。
昨日より調子がいいのでピッチがあがり、4,900M地点でドイツ隊、5,100M地点でオーストリア隊も追い越してしまう。小規模な氷河になる手前で兼用靴にはきかえ、アイゼンもつける。山頂直下で息が切れてペースが落ち、BCから所要時間3時間半でウルス東峰(5,420M)の狭い頂に立つ。
下山途中から体がだるくなってきて、BCに着く頃にはフリオと口をきくのも億劫なほどになる。最初の山にしては突っ込み過ぎたかもしれない。テントの中で寝ていると、ヒョッコリKが帰ってきた。ワラスまで下って1泊したら元気になったので、上がってきたという。
頭が痛い上に食欲もないので、またポンタールを飲んで早々に寝る。
7月26日
翌朝、起きると顔がひどくむくんでいるようなので、なにげなく鏡をのぞきこんでびっくりした。自分の父親の顔にそっくりなのだ。子が親に似るのは当たり前だが、高山病の症状としてとは、ずいぶん皮肉だ。日頃の親不孝のたたりかもしれない。ともかく今日は休養日にして、トクヤラフへのルートを確認しておこうと1時間ほどトレースをたどる。
Kは、高所順応の遅れを取り戻すべく、イシンカ湖を往復する。帰って来てから、明日以降トクヤラフに一緒にアタックするつもりで行動しないかと相談したが、Kはあくまでもイシンカに登りたいという。
7月27日
Kはイシンカのアタックに出かけた。
わたしは、トクヤラフの偵察をかねて雪線(約5,000M)の上まで荷揚げに行く。久しぶりにまとまった量の荷物を担いで歩くと、さらにヒシヒシと高度の影響を感じる。せいぜい20㎏程度なのだが、一歩一歩がウルスの時とは違ってスローモーションだ。牧草地帯を1時間登り、ケルンに導かれて左のザレた急斜面に取り付く。滑って歩きにくい踏み跡を詰めると、モレーン帯に行き当る。ここを右上して抜けると、ようやく雪線にたどりつく。
ウルス方面から見たところでは、この雪線から30分も登れば上の広大な雪原に出られるようだった。そこでアタックに必要な装備はここにデポし、スキーで上まで行ってみることにする。なにせそうしなければ、ここからでは上部の様子が全然見えず、偵察したことにならない。
スキーにシールを張り付けて登行する。午後の光線にさらされた雪面は、ほんの少しシールを食い込ませるくらい緩んでいる。これならば登降にも不安はないし、ペースもツボ足の時より速く、しかも安全だ。荷物をデポするまでは足がなかなか前に出ず、自分自身の体力に不甲斐なさを感じていたが、スキーを履くとこうまで違うものか。ウキウキする、つまり「ルンルン」気分だ。天気も上々。
上の雪原に出ると、眺望が一気に開ける。風もないので地図を広げて、まずトクヤラフをじっくり観察する。ここから東の方向にあるコルまではスキーで行けそうだが、その上は手前の尾根にさえぎられて見えない。しかし、Sさんの話しでは頂上直下のワンピッチを除いて困難な部分はないということだったから、うまくやれば、たとえ単独でも頂上直下から滑降できる成算はある。もしこのイシンカ谷で6,000Mから滑降できれば、高所のスキーに大きな自信を持つことができ、あとあとの行動にも余裕がでてくるだろう。
アキルポ(5,560M)やコパ(6,188M)にアンデス側から流れてきた雲がひっかかっている。氷雪と岩の世界とはいえ、なにかノンビリした雰囲気だ。風がないので寒くないから、目が自然の厳しさを認識できないでいるのだろうか。見わたすかぎり一木一草もない荒涼とした風景を、穏やかだと感じている。その暖かさに包まれて昼寝でもしようとさえしている。ひょっとしたら、今の自分は危険な状態にあるのかもしれない。
困難な山に向う時、人は誰しも予測される事態に備えて気持ちを張りつめさせている。ところが、そういった修羅場をいくつもくぐりぬけてきたエキスパートと呼ばれる人々でさえ、全く予期しなかったアクシデントで、いかに多くの命を落としてきたことか。自分の家の裏山のようなところで、まったく「つまらない死に方」をしている。
危険は、いつ、どんなところにもあるものだと思う。ただそれを認識出来たり、出来なかったりする気まぐれな人間がそこにいるだけだ。
下りにかかる。雪線近く、右側にある岩峰の影になった部分は堅い雪なので、それを避けるように滑るのだが、あまり左に寄るとそちらは氷河湖にストンと切れ落ちている。だからその間の幅20M位のところをジャンプターンでピョンピョン下る。
デポにスキーも加えて、BCへ。途中でまた体がだるくなってきたので休み休み行く。この様子では明日は休養しなければならないだろう。
夕方、Kが帰って来る。イシンカ湖の上でルートを誤り山頂まで行けなかったそうだ。
7月28日
テントが朝日に照らされて、まぶしくて寝ていられないので、起きる。顔がウルスの時よりもさらにむくんでいる。上瞼が異常に重たく、黙っていると目が閉じられてしまう。朝飯を食べてから芝生の上でボーっとしてコーヒーを飲みながら辺りを眺めていると、なんとまあスキーを背負って登ってくる人がいる。とっさに、「こんなところにスキーを持ってくるなんて」と思ったが、そういうことは言えない自分だと気がついて、おかしかった。じっと見ていると、荷物を岩小屋のところにおいて、こちらへやってきた。
開口一番「ボンジュール」と挨拶してきたので、フランス人と知れた。フランスのシャモニーでスキー教師をやっているそうで、歳はわたしと同じか少し若いくらいだろう。小柄だが、いかにもバネのありそうな体つきである。今年の5月からペルーに来ていて、既にアルパマヨ(5,947M)、アルテソンラフ(6,025M)、ピスコ(5,752M)、ワスカラン(6,768M)などからスキー滑降しているという。アルパマヨを除いてはピーク・スキー(山頂から滑り降りること)だというのだからすごい。そして今度はトクヤラフを南稜ぞいに下るのだという。
彼のやっているのは“Ski‐Extreme”いわゆる「スーパースキー」と一般に呼ばれているジャンルのものである。この分野ではフランスは世界で最先端を行っている。この「スーパースキー」には、大きく分けて2つの流れがある。ひとつは「いかに急な斜面を滑り降りるか」という挑戦である。イエルパハー西壁の65度の氷雪面を滑降した記録はペルーアンデスにおけるその極めつけだろう。
またもうひとつは「どれだけ高所までスキーを担ぎ上げて滑ってくるか」という試みである。最近アンナプルナの8,000Mから誰かが滑ったという記録は衝撃的にわたしの頭にこびりついている。
今わたしの目の前にいるこの男がやろうとしているのは、前者である。
彼は今日中に雪のあるところまで行って泊り、明日滑降予定のルート経由で山頂に至り、雪質を見はからって滑降するかどうか決めるという。となると、わたしと明日山で会うことになろう。
7月29日
少しでも高い所から滑って来よう、という気持ちでBCを出発する。荷揚げの時とは違って空身に近いので、快調にデポ地点まで登る。途中南稜を登るフランス人の姿がゴマのように小さく見えた。登るスピードはかなり速かった。デポ地点で兼用靴にはき替え、シールは着けずに、スキーのトップに細引きを結んで引きずることにする。
前回の到達点まで来てみると、トクヤラフの左肩に続くトレースに人影が2つ見える。フランス人をサポートしている連中だ。ここまで来て、シールをデポしてきてしまったことを後悔し始める。下から見た時にははっきりついていると思ったトレースは、実際はほとんど雪に埋まっていて使いものにならない。シールがあればずっと楽に登れただろうに、膝うえまでのラッセルはいささかきつい。
コルに至る急斜面の下まで登ると、上からスキーで降りてくるフランス人の赤いウエアが見えた。彼は南稜の滑降を諦めたのだ。「クソ!クソ!」と言いながら降りてくる。
彼によると、雪の状態が良くなかったので、滑降は不可能だったということである。積もっている新しい雪の量があまりに多いため、雪崩を引き起こす危険がある。逆に堅い氷のような雪では、一歩間違えると単独の場合取り返しのつかないことになる。
「またトライするのか?」と聞くと「分からない」と答える。そのときの彼の様子は、昨日テント場で話をしたときのような冷静な感じではなく、挑戦をしくじってしまったあとの投げやりな気分を漂わせたものだった。
「頂上まで行くのか?じゃあ、がんばれよ」わたしにそう言い残して、クレバスを巧みに避けながら、あっという間に滑り降りて行った。そのいかにもヨーロッパのスキーヤーらしい滑降姿勢を見ていると、かつてフランスのシャモニーで過ごしたスキー三昧の日々がチラリと頭の隅をよぎる。彼の国のスキーフィールドは、文明の利器があることを除けば、このアンデスの山になんと相似していることか。
さてこれからどうするか。今標高は約5,400M。ここから山頂まで標高差600M位だが、体は疲れて大分言うことを聞かなくなっている。ビバークの準備も充分でない。
ここから滑降することに決める。
あのフランス人のシュプールをたどってみる。彼同様あっという間にデポ地点までおりてしまった。そして全部の荷物を背負って下る道々考えた。
確かに彼は恵まれている。ヨーロッパ・アルプスというフィールドを持っていることと職業がスキー教師であるという二重の意味で。そして才能すらわたしよりもあるかもしれない。いや、あるといって間違いないであろう。だから、彼がスキーとともに挑戦を続けるとき、わたしには到底揃えることのできない条件すら並べ立てるのだろう。ではわたしはどんなスキーをこのペルーアンデスでやろうとしているのだろう。もちろん彼のような人間と競い合おうなんて身の程知らずではない。かといって物見遊山にしてはいささか金と時間をかけすぎている。わたしには結局「高い所から滑り降りたい」という気持ち以外に、これといった動機もない。けれどそれひとつあれば充分だろう。
BCに近づく頃は足もふらついてきて、こんなことを考えるのも面倒になる。
Kはイシンカに登頂してBCに帰ってきた。
7月30日
下山のためにブーロに荷を乗せて、イシンカ谷を下る。Kと行動したのは、とうとう入下山のキャラバンだけになってしまったが、それぞれが自分のペースでコンディション作りできたので、かえって良かったのかもしれない。これからが遠征の正念場であるのだから、イシンカ谷での経験を生かすのも殺すのも自分次第である。
コパからの滑降
8月5日
スキー滑降の目標をワスカラン(6,768M)からコパ(6,188M)に変更したわたしたちTSMCの2名は、H・S両氏の同行を得ることとなった。テント・キーパーは若い「フェデリーコ」。例によってファンのコレクティーボでワラスを発つ。
入山口はビコス(3,050M)の村で、ワラスからは1時間で来てしまう。イシンカ谷の入山口であるコヨンよりずっと大きな集落で、広場には仕事を始める男たちが三々五々集まってくる。わたしたちにも「ブエノス・ディアス」と挨拶する。アリエロ(馬方)がブーロを集めに行っているあいだ、芝生の上でごろ寝をしていると、羊や豚を連れたインディオ衣装の女が、糸巻をしながらもの珍しそうにこちらを見ていく。
ここから今回のBC予定地であるレギア・コーチャという氷河湖畔(4,700M)まで、丸1日かけてのキャラバンである。途中何回か小さなトラブルがあって、結局BCを設営し終わった頃には、西方のコルディエラ・ネグラに夕陽が赤々と沈もうとしていた。
夕飯後テントの中で明日からのお互いの健闘を期して地酒ピスコで入山祝いする。とても寛いだ気分になり、外はペルーアンデスの山であることを忘れてしまいそうだ。
8月6日
偵察を兼ねて荷揚げをする。この山行のポイントになるのは、まず出だしのクーロアールだろう。標高差150Mで最大斜度50度といったところか。昨日そこを下ってきたパーティーの話では、特に問題はなさそうだった。
レギア・コーチャのほとりを向こう岸まで行って、そこから今度はクーロアールの入口めがけてトラバース気味に不安定な岩を登る。スキーを背負っているとはいえ、思ったより足が前に出ない。クーロアールの下で準備を整えて、H-S、T-K、のオーダーで取り付く。既にイエルパハー西壁をこなしたH-S組はテキパキとした動作で登って行く。1時間強でクーロアールを抜けた。そこから上は、20度ぐらいの斜度の雪面が、上部の雪原に続いているようだった。そこで迷わずスキーにシールを着けて歩行する。
上の雪原に出ると、正面にワスカランが意外な低さでこちらを見ている。振り仰ぐコパは、ところどころクレバス帯をのぞかせながらも、広大な斜面をわたしたちに用意してくれていた。全くこんな時どこから滑ってやろうかとこころが少年のように弾んでしまうのを抑えられない。抑える必要もない。こんな気持ちを味わいたくて、ノコノコ地球の裏までスキーを担いでやって来たのだから。
5,300Mぐらいまで登り、雪のくぼ地に荷物をデポして、BCへと下山する。
クーロアールの上までは特に危険なところもないのでスキーの足慣らしに丁度良い。トクヤラフのときとは違い、仲間が一緒にいる安心感でノビノビと滑ることができた。最後の斜面はレギア・コーチャの湖水が眼下に見え、ことさら気分が良い。
スキーは登りで履き始めたところに残置し、クーロアールを懸垂下降してBCに戻る。フェデリーコは、なんの仕事もしないで待っていた。いや、テント・キーパーだけはやっていた、というべきか。
8月7日
今日はデポ地点のさらに上にアタック・ベースキャンプ(ABC)を設営する予定だ。
取り付きのクーロアールも難なく越え、デポ地点には昨日の半分の時間で着いた。すべての荷物を背負って標高5,600Mまで登り、そこにあった雪のくぼみにABCを建設する。
明日の快晴を期待し、腹いっぱい夕飯を食べ、早寝する。
8月8日
太陽は東のアマゾン側から昇ってくる。だから今いるコパの西側の斜面はまだ暗い。しかし、一足先に陽光の恩恵を受けるワスカランはモルゲンロートに輝いて、今日の晴天をわたしたちに約束している。
トレースに忠実に6,000Mのコルを目指して雪原を左上する。コル下の急斜面にかかると雪面も締まってきて、シールの効きがあいまいになる。ここでアイゼン歩行に切り換えた。すでにH‐S組は急斜面を越えたようで視界から消えた。ザックからテルモスを取り出し熱い紅茶をすする。また一歩一歩と登り続けると、ようやく太陽の光を浴びられる日向に出た。それと同時に、さきにコルに着いた2人の姿が逆光になって見える。何かコールしているが、まだ聞き取れない。やがて「荷物は置いてきて大丈夫」といっているのが分かった。スキーだけ背負ってコルへ。Kはスキーを持っていかないという。
着いたコルからの眺めは確かに良かったが、まだここでのんびり景色を見てはいられない。登頂と滑降をまず果たさなければ。目は自然と山頂に到る稜線に釘付けになる。
ここから40Mのザイル1本で同時登行することに決まる。オーダーは、H-K-T-S。そこに見えているのが頂上だろうとコルを出発したのだが、行ってみると頂上はもう少し先で、しかも天辺はとがっていた。ほんの1ピッチ程度だが、アンデス特有の悪そうな稜線だ。
わたしたちはピークへの登頂を諦めた。行き着いたところ(約6,150M)で万歳をする。
さて、スキーだ。
コルまでの稜線は、下に行くほど狭くなっているので、途中からSさんとアンザイレンした。わたしが滑るときは彼が確保してくれる。こういった滑りかたがいつか要求されるとは以前から思っていたが、初めてが本番になってしまった。Sさんが、冬富士で鍛えている人でよかった。
ここからはKもスキーを履く。が、雪質がもうひとつ良くなく、なかなか思うように曲がらない。急斜面を降りると、一転して良いバーンになって、気持ちよくABCまで滑りこむ。
まだ太陽はやっと東に傾きかけてきたところだが、今日の感激をこのABCで祝うことにする。しばらく昼寝してから夕食を食べ、外に出る。滑ってきたコパの山肌はアーベントロートに染まっている。コルディエラ・ネグラに沈む夕陽を、Kと共に眺めていた。
8月9日
ABCを撤収しBCへ下る。クーロアールまではわたしだけスキーで降りた。Kは調子が悪いので滑降は見合わせる。
荷物が重いのでクーロアールを慎重に懸垂下降する。あとはBCまでと、最後の踏ん張りのつもりで歩き、やっとこさBCに着いてみると、アリエロが来ていて「今日下山してくれ」という。「勝手なことを言いやがる」と腹が立ったが、怒ってみても始まらないので大急ぎでBCを撤収し、日が暮れる前にビコスに着こうと氷河湖畔をあとにする。
ビコスに着くとアリエロが自分の家に案内してくれ、土間をわたしたちの宿泊のために提供してくれた。おかげで夜はアリエロの一家を交えての盛大な下山祝いとなり、みんなでセルベッサ(ビール)を痛飲する。歌も出れば、踊りも出る。陽気なバカ騒ぎだ。どうせ明日はファンの迎えの車でワラスに戻るだけで良いのだから。
「マニャーナ・セラ・オトロ・ディア(明日は明日の風が吹く)!」
6,000M峰から7,000M峰へ
昨年の春、わたしが東京スキー山岳会に入会した時に、会の決まりであるとやらで、自分の過去の山行歴、スキー歴や、これから行ってみたい山やスキーの計画について書かされた。今までの経歴については、これといって人目をひくほどのものはないわたしだったが、「これからやってみたい山行・スキー行」の欄には、ついペンが滑ってしまい、「7,000M峰からのスキー滑降」と大見えを切ってしまった。
さて、そうは書いたものの、それを実行に移す具体的な計画も行動もろくにしないまま、あっという間に1年間が過ぎてみると、どういう風の吹き回しか、海外遠征の話がいきなり実行の運びとなっていた。
細かい経緯はともかく、とりあえず最初のステップとして6,000峰から滑ってみようと思い、会のKに「ペルーアンデスのワスカランに登って、スキーで降りないか」ともちかけた。
このアイディアは、すでにプロスキーヤーの次田経雄氏が昨年実行を試みていたのであるが、その際に氏は6,200Mから滑降するに留まったので、再実行する価値は充分あった。それに実のところは、ペルーアンデスにどんな山があって、スキー滑降がどの程度可能なのかという肝心かなめの知識がさっぱりなかったので、具体的に目標を設定できなかったといったほうが正しいかもしれない。と同時に、この目で実際に山を見て、手ごろなピークからひと滑りしてみれば、あとは自分たちの技量に見合った山を選択できる、という心づもりもあった。この点でKとわたしの意見は全く一致していた。
そういう「柔軟な姿勢」でスキー登山をおこなおう、と考えて日本を出発した。要するに、また日本に帰って来たと「6,000M峰からスキー滑降ができた」という結果が手に入っていればいいわけで、我と我が身を省みずに、登れもしない山、恐ろしいほどの急斜面に拘泥して、大事な休暇をあたら無駄にすまいと心に誓った。
もうひとつ、これだけはと心に止めておいたのは、いかにうまく高所に順応するか、というタクティックスについてであった。自分たちの持てる技術や体力を総動員して、なおかつ目標=「6,000M峰からの滑降」が達せられなかったのなら、それはそれで仕方がなかったと諦めがつく。そういう結果になったのは、自分たちの計画のまずさや、あるいはもっと偶然的な災難のせいであると、自分に言い聞かすこともできる。しかし、もし高所に順応ができなければ、もうそれで計画はおじゃんになるだろうし、また、高山病という予期した落とし穴にまんまとはまってしまった、という挫折感も味わうことになるのだ。うまく高所順応を獲得することが、今回のスキー山行を成功させる重要なポイントのひとつであったのだ。
このことは、すでにペルーアンデスを経験した方たちからも度々伺っていたし、ものの本にも高山病に用心せいということが事細かに書かれてあった。だから如何にうろんなわたしとても、そのことに気配りせずにはいられなかったのである。そういう気配りをした結果、自分の夢が叶うなら、人のお節介にもタマには耳をかすものである。高所順応こそがこの山行のポイントであるとKとも日本で確認してから出発した。わたしは、その事が頭からはなれず、「高所順応、高所順応・・・」と、おまじないがわりに頭のなかでその方法を反すうしたものだった。
幸い高所順応は予想よりスムーズにいったので、6,000峰からも滑って降りることができた。そういう結果が出たいまになってみれば、技術や体力や「運」があったなら、ワスカランもやれたかもしれない、という悔いは残る。しかし、コパもH、S両氏の協力を得たからこその成功だったことを思えば、それはあまりに虫のいい話ということになろう。ともかく、高い山から滑って降りて来られたのだから、まずはめでたしと思わねば。
そんなことより、次の山がもう気になっているわたしだ。次とは言うまでもなく7,000M峰からの滑降である。いろんな山が心に浮かんでくる。そのひとつひとつを吟味しながら、またペルーでやったような手作りの海外スキー登山を夢見る日が、これからしばらく続くのだろう。