1985年2月24日日曜日

裏谷急沢

 報告書(SJ)より

 この山行は、基本的な氷瀑登攀のテクニックを付けることを目的として実施されたものであるが、充分にその目的を達することができたと思う。


 谷急沢は、ほとけ沢とも呼ばれている裏妙義の沢であるが、出合の辺りからは、こんなに氷瀑が連続して懸る沢とは思えないような、一見貧弱そうな沢である。


 しかし実際には、谷急山頂近くまで、次々とⅡ~Ⅲの氷瀑が現れる、トレーニングには絶好の沢であった。しかも入山者が少ない。また下山路は複雑なヤセ尾根で、いい体力トレーニングにもなる。


 取付くと直ぐにF1(Ⅱ)である。(8:30)そこから雪に埋まったナメを進むとF2(Ⅲ)30Mで、中段は70度ほどの傾斜がある。ここは、アンザイレンしてH-S、T-Hの順で登った。H以外は氷の経験が乏しく、やたらとピッケル、バイルを氷に打ちつけて腕力を消耗した。Hはさすがに慣れていて、ピックを引っかけるようにして、登っていった。


 ザイルを解いて、F3、F4に進むと二俣である。ここを本流である右へと進み、F5を越えて(F3~5は、いずれも10M足らず、Ⅱ~Ⅲ)、更にゴーロ帯をどんどん進むと、F6がドーンと立っているのが見えた。(11:00)この辺りまで来ると、朝日が当たって気持ち良い。振り返ると、浅間山が真白で、なかなか優雅である。


 さて、いよいよ核心部のF6である。中間部まで登って偵察してみると、下段は(Ⅱ)で10Mほどだが、上段はツララを束ねた垂直に近い氷柱で(Ⅳ+)10Mほどあり、氷の中を水が流れているのが分かった。さあ、どうするか。・・・結局、氷が不安定なので、トップロープでトライしてみることになった。Hがロープをセットし、氷瀑の上で確保してくれた。「下がみえませんよ」と言っている。

 他3人は、T、S、Hの順で、Tは「オモシレー」と言いながら、Sは「落ちるー」とワメキながら、Hは終始無言で、それぞれ登った。(12:00)みんな、腕はガクガクになり、手はすっかりシビレてしまった。それにしても登る時には、パーソナリティーが良く出るものだ。


 再びザイルを解いて、アイスハーケンの打ち込み方(角度など)や氷質による使い分けなどをHに教わりながら、ゴーロと小さな氷段をいくつか越えて、沢を終えた。


 そこから左側の急斜面をブッシュを支点に、どんどん登ると谷急山頂(1,162M)にひょっこり出た。(12:30)低山ではあるが眺めは良い。



 ゆっくり昼食を取り、下山にかかった。(13:30)ガイドブック通りに、沢の左の尾根をそのまま下りるのでは、つまらないので、岩峰群へ縦走してみることにした。楽しいハイキングになるはずであった。ところが行ってみると、急なヤセ尾根の登り、下りでなかなか大変である。とても一般道とは思えず「この辺りの人のハイキングのレベルは、ずい分高いんですなー」などと言いながら進む。しかも、尾根が入り組んでいて、ルートが分かりにくい。行ったり、来たり、戻ったりしながら、やっとの思いで下山した。(16:30)


 振り返ってみると、岩峰が夕日に輝いて「ドロミテみたいだ」などと行ったこともないのに言い合った。しかしこの辺りの岩はボロボロで登攀の対象にはならないのだそうだ。


 とにかく、充実した楽しい1日が終った。リーダーの早川さん有難う。少々アル中気味ではあるが、いい先生でした。


1985年2月17日日曜日

鷹取山

 都合が悪くなると鷹取山に行く。

 T、Nというフレッシュマンたちにも、なんとか岩登りの面白さを分かってもらいたい。ゲレンデに来るのは久しぶりなので、ボルダリングを中心に、勘を取り戻すことに努めた。


1985年2月10日日曜日

吾妻連峰

 天元台から吾妻連峰を越えて檜原湖に滑りくだるルートは魅力的に思えた。しかし入山直前に低気圧が日本列島を横切った。暖かい南風が吹きつけて、樹氷の氷はみんな落ちた。

 天元台スキー場のリフトの最上部まで行ったが、荒天回復の兆しがなかなか見えないので、とりあえずゲレンデでスキーをする。この1本目でKちゃんは足を捻挫した。締め具のジルブレッタが転倒時に外れなかったのだ。これで今回は入山できないことが確定的になった。ゲレンデの隣りにテントを張ってスキーに徹することになった。


 翌日Kちゃんはなんとか滑れるようになったので、そろそろと下山した。白布温泉の清潔とは言えない無料温泉に入浴して帰京した。


 1984-1985のアンラッキー・シーズンは、計画がことごとく裏目に出た。