1984年12月29日土曜日

乗鞍岳

 アンラッキー・シーズンの極めつけは、TSMCの年末年始合同山行だった。今回は、5パーティーで乗鞍岳に集中登山することになった。わたしが全パーティーの総リーダーになり、位ヶ原組その一として新入会員2人(M、S)とKちゃんとで入山した。雪山を堪能しながら、年越しをする予定が散々なことになった。

 入山は乗鞍高原から、スキーリフトを乗り継ぐと、労せずしてカモシカ平の上まで入れる。ここから樹林帯の中のトレースを拾いつつ位ヶ原小屋付近に至り、幕営する。


 翌日は乗鞍岳の頂上を往復してくる予定で出発した。樹林帯を抜けると強風にあおられたが、この程度であればなんとか行けるだろうと思った。便所小屋で少し休んだあと、肩の小屋を目指した。風は相変わらず強く、地吹雪で視界は10Mほどである。それでも雪の上に立ったポールを目印にして、肩の小屋に着いた。


 ここからさらに進んで山頂を目指すか、かなり躊躇した。冬山経験が少ないメンバーなので、無理をするのは良くないように思った。その一方で、わたしはリーダーとして、新人に少しつらい思いをさせて、その後の達成感を味わってもらうことが必要だと思った。


 結局わたしは登ることに決めたのだが、この判断は以下の理由から誤りだった。


  1. 新入会員2名を含む山行で、事前に安全確保のための知識を共有していなかった。

  2. 荒天時に必要な帰路の目印となる赤布と細竹を持参していなかった。

  3. 天候悪化の読みとメンバーの力量の判断が甘かった。


 肩の小屋から山頂へのルートには、出だしはどこかのパーティーが残した赤布があり、かすかながらトレースもあった。しかし、視界は依然極度に悪く、10Mほど先までしか見えなかった。歩いていると小規模な岩場が出てきた。前に登った時の記憶では、岩場は無かったように思った。それでも上へと登って行くと、やがて見覚えのある乗鞍岳の山頂に着いた。


 この時点で、坂本はメガネが曇って全く前が見えず、MとKちゃんもメガネを通してかろうじてあたりが見える程度だった。


 下山を始めた時、わたしはルートを間違えないようにということよりも、メンバーをせきたてて早く安全地帯に下ろうと焦っていた。それでコンパスを確かめることもなくどんどんトラバース気味に下った。


 気がつくとこれまで左上から吹き下ろしていた風が、右側から吹きつけてくる。これはおかしいと思いコンパスを確かめたが、コンパスの中に気泡ができて針の位置が定まらず方角がわからない。風の向きの変化からすると、北向きに行くべきところを、逆に南向きに歩いているようである。そこでこれまで歩いてきた道を戻った。平坦部を過ぎて傾斜が出てきたが、そこを登りきると赤と白のまだらの測量用ポールが立っていた。現在位置が全く把握できなかった。


 わたしたちは、最悪の状況に陥りつつあった。ワカン無しでやみくもに歩いたせいで、だいぶ体力を消耗してしまった。日没も近い。早く安全な所でビバークをしなければとあせる。


 登ってきたルートの左(東)側を下るとまた平坦地に出た。ここからさらに左に進むと、地形が沢状になってきた。小さな岩陰があり、木の角柱もあるので何やら肩の小屋の近くらしい。ここでビバークすることにした。


 このビバークの一夜は、生まれてこのかた、一番寒い夜だった。4人メンバーに2人用と1人用のツェルトが各1個しかない。横になって寝るスペースはないので座ったまま被ることにした。それでも前に伸ばした足は、ツェルトの外である。じっとしているとその足がじんじん冷えてくる。この態勢で夜明けまで10時間以上耐え忍ばなければならない。


 あんまり足が冷えるので、血行を良くしようとプラスチックブーツの外側の靴を脱いだ。SとMもプラスチックブーツだったが、外側の靴は脱がなかった。そのため2人とも足が軽い凍傷になった。Kちゃんはシングルの皮靴だったので、履いたままだったが全く凍傷にはならなかった。


 つらい一夜がようやく明けたが、風はまだ収まっていなかった。もう一晩ビバークするだけの水と食料は無いので下ることにした。東側に向って10分も歩くと、前方に肩の小屋が見えだした。助かったという安堵の気持ちと、みんなをつらい目に合せてしまった後悔の気持ちが同時に押し寄せてきた。


 お互い生還を喜ぶ気持ちも起こらず、スキーをデポしたところへ行き、悴んだ手でスキーをつけてテント場へと下山した。天候は急速に回復してきた。無事テントに着き、大晦日は暖かいシュラフで寝ることができた。


 翌朝は元旦だったが、もともと下山予定だったので、早々に荷物をまとめて下山した。


 TSMC恒例の松本駅前での下山祝いもする気が起きず、そのまま帰京した。


1984年12月22日土曜日

甲斐駒ケ岳

 思えばこの84-85の冬シーズンは、どうもアンラッキー続きであった。

 この山行は黄蓮谷の氷瀑を登るために計画した山行だったが、気温が高くて充分結氷していなかったのであきらめた。それで、五丈の小屋から一般道経由で山頂を往復してきたわけである。まるで新人の冬山訓練のようであった。

黒戸尾根で

 この山行を機会にしばらく禁酒することにした。


1984年12月15日土曜日

谷川岳

 TSMC会員のT氏は東京理科大に勤務している、理科大は、天神平スキー場にあがるロープウェー乗場のすぐ近くに山小屋をもっている。そこをベースにして初滑りをすることになった。

 今シーズンは降雪が少なく、滑れるスキー場は限られているので、天神平スキー場には沢山のスキーヤーが早朝から押しかけた。わたしたちは前夜遅くまで酒盛りをした。ようやく起きてロープウェー駅へ向かうと、すでに乗る順番を待つ長蛇の列ができていた。

そこで、初日は天神平まで歩いて登り、ゲレンデ・スキーをした。翌日は天神尾根経由で谷川岳の山頂を往復した。

 入山時は夜行列車の中で大酒を飲み、小屋ではまた浴びるほど飲んで、連日の二日酔いである。このような調子ではいい山行などはできない。


 11月に結婚してからというもの、酒によるトラブルが絶えない。体力、技術、知力が無いものが、いいスキー山行をやれる条件は何か。それは、自分には力が無いことを深く認識して、力をつけるための努力を怠らないことである。力のないものが、おごり、高ぶったときの結果は悲惨である。自戒すべきは慢心である。山には危険が潜んでいる。その危険のありかをつきとめ、避けなければならない。