1977年9月23日金曜日

滝谷

 磯工山岳部の顧問だったAさんにこの山行に誘われた。来年のヨーロッパアルプスはMさんと行くのだが、トレーニングとしてできることはすべてやっておきたかった。上高地から涸沢を経由し、ナナカマドが赤く色づいた北穂南稜を登り北穂小屋に入る。小屋は連休で大混雑であった。

9月24日
 今日は第4尾根と第2尾根P2フランケを登る。C沢左俣の浮石が積み重なった上をガラガラと下っていくと、はるか下方の緑のスノーコルに数パーティーが見えた。今日は天気が良いので、第4尾根を登る順番待ちがもうできているのだ。二俣からコル上部に直接上がって順番待ちの列に加わる。

 登りはじめの部分は、岩場が大きく崩落した後で、ひんぱんに落石があった。AさんはここをAカンテと勘違いした。A、B、Cの各カンテは、ルートにハーケンが乱打されていて、苦も無く登った。先行パーティーがのろいので、1Pごとに長い休憩をとらなくてはならない。待っている間に第3尾根を登っているパーティーの様子を見ていると、どうも下部のルンゼで落石があって、「気をつけろ」、とかもめているようだ。


 ツルムから下降し、そのあと3P登って登攀を終了する。Dカンテはフリクションのきく硬い靴で登ったら面白かったのではないかと思う。グレポンは眺めた感じでは全体がとても脆い岩でできているようだった。左方のハングに1パーティーが取り付いているのみだった。


 北穂小屋で昼飯を食べたあと、B沢を下ってP2フランケの取り付きに向かう。途中ガレ場でAさんが便意を催したので、わたしも落石をよけつつした。クラック尾根をまいて、第一尾根の前を横切ってバンドをトラバースし、P2フランケの右(早大)ルート取り付きに至る。


 途中見上げた左(芝工大)ルートはいかにもつまらなそうだったが、右ルートは素晴らしい。取り付きからアブミを使う。わたしは初めて使うアブミという道具を意気揚々と架け替えては足をのせ、体重をかけて登った。そうして快調に登っていたのだが、アブミにかけた足に体重をグイとかけたところ、靴がクラックにはまってしまい、抜けなくなってしまった。あわてて足をこじって引き抜こうと力を入れたが、容易には抜けない。仕方なくハンマーで靴を叩いたら抜けたが、その拍子に靴のゴム底が半分ほど裂けてしまった。


 そのあとは、ベタベタと連打されたハーケンやボルトにつかまって登った。スタンスやホールドの細かいところがあったが、それほど難しくはなかった。十分アブミを使っておいて言うのもなんだが、これくらいの難度の壁ならフリークライミングで挑戦したほうが面白いのではないかと思った。


9月25日

 今日はドーム西壁雲表ルートを登る。


 わたしは取り付き地点で激怒していた。Aさんはトップで登攀を楽しんでいるからいい。わたしはかれこれ1時間ぐらい、こうして同じ姿勢で寒い中をジッヘルしているのだから頭にくる。


 Aさんがようやくようやく40mいっぱいの1P目を登り切ってわたしがセカンドで登る番になった。すると、さっきまでのイライラはもうどうでもよくなった。ヘラヘラ冗談を言いながら上のバンドに出たとき気分が悪くなり吐いた。ここからは、それまでより調子が良くなった。我妻さんがアブミを使って登ったクラックをわたしはフリーで登ることができた。


 終了点でAさんから、「ジッヘルしている時はパートナーの命を預かっていることを忘れてはいけない」、と注意された。


 そのルンぜから右のルンゼにトラバースするときは高度感があって緊張した。そのうえで小ハングを乗越してドームの上に出た。けだるかった。


 正直な印象としては、滝谷はもっと雄大かと思った。

 

1977年9月6日火曜日

富士山

 ヨーロッパアルプスの峰々は標高4,000mを越える。高度に慣れておくには日本国内では富士山しかない。ちょうど富士山の麓で自動車免許の合宿教習をうけているところだったので、はじめてこの山に登ってみることにした。
 教習所から未明にバイクでスバルラインに向かう。料金所には誰もいないので、止まらずに通過する。照明灯のない暗い道路をひたすら登っていく。道の傾度が結構あるらしく、バイクのエンジンがうなった。
 5合目に着いたが、まだ日の出まえなので、あたりの様子が分からない。スバルラインの終点とおぼしきところにバイクを停め、登山靴を履いて登る準備をする。
 ひと気のない道をどんどん登っていくとやがて朝日が昇ってきたが、そのころにはもうだいぶ上に来ていた。最後は階段状の道を登って行くと山頂に着いた。山頂のお鉢をぐるりと回り、吉田大沢の砂の道を思い切り駆け下った。