1976年8月1日日曜日

穂高連峰

7月23日

 早稲田大学体育局の菅平の出張を終えて、その足で穂高へ向かう。


 上田から列車を乗り継いで島々に着いたのは、まだ夏の日がカンカンに照りつける2時頃だった。さてこれから島々谷を徳本峠まで詰めていく。はじめは谷沿いの舗装道路で、木陰もあって歩きやすかった。日が西に傾きだすと、強い日差しをモロに受ける土埃のあがる林道になった。


 菅平での二晩は、専任職員のIさんに付き合わされてしこたま酒を飲んだ。それがいまからだ全体から猛烈な汗となって吹き出してきた。林道の脇に生えた大木の根元で休んでいると、涼しい風が流れてきて、北アルプスのふもとにいることを感じさせた。


 谷の奥に壁のように高く連なる稜線は、徳本峠と同じくらいの標高だろうから、峠まではまだまだかかりそうだ。そうこうするうちに折口信夫の歌碑「をとめごの心さびしも清き瀬に身はながれつゝひとこひにけむ」を過ぎて、谷が大きく左(東)にカーブする。ここで林道は終わり、広葉樹の根方に苔の生えた山道となる。この徳本峠越えは、昔から多くの人が上高地の入下山に使った道だけに、深い自然の中にも何か人臭さを感じさせる小径である。


 フキが密生した河原に道が降りると、そこが岩魚留の小屋だった。小屋全体が古びていて煤けている。今日はここまでとしても良いくらいの時刻だったが、いつもの「あと少しだから。」という気持ちが起こって、また徳本峠に向かって歩き出す。途中山の中にテントを張って本格的にフキを取っている人がいた。もう遅いから誰も通るまい、と高をくくっていたのだろう。わたしの顔を見てびっくりしていた。


 もう暗くなった九十九折れの道をライトも点けずにのしのし登って行くと、上の方からひとの声がした。徳本峠小屋はもう寝静まったようにしんとしていたが、わたしが1泊2食付での宿泊を申し出ると、快く夕食を出してくれた。


7月24日

 今日もすばらしい快晴である。昨日無理した影響で、今日は朝早く起きることができず、出発が少し遅くなった。


 明神に下り、そこからさらに上高地へ下る。上高地で絵葉書を投函し、岳沢をつめる。昨日よりも荷物が重く感じ、ペースが上がらないので、今日は岳沢ヒュッテに泊まることにする。


7月25日

 今日はどんよりとした天気で、さらに悪化しそうだ。天狗のコルを目指して登って行った。


 天狗のコルを過ぎてジャンダルムへ向かうあたりから雨が激しくなったので、コルの避難小屋へ引き返した。中に入り様子を見ていると、何人かの人たちが小屋から出たり入ったりしていたが、結局最後はわたしだけが小屋に残った。


 結局コルの避難小屋に泊まった。遭難者の躯がここに横たわっていたことなどを勝手に想像して夜中恐ろしかった。


7月26日

 何とか持ちそうな天気なので、ジャンダルムから奥穂高岳を越え涸沢へ行くことにした。涸沢についてテント場を探し回ると、そこにはSとIがいた。


 あとの日はテント場で知り合った長崎の女の子たちと屏風の頭へハイキングへ行ったり、スケッチしたりしてのんびり過ごした。

涸沢カールで 1976年7月