この山行は、神城山荘でスキーをしている間に行ったので、余計にパッとしなかった。山に登る仲間もいないし、つまらないという気持ちが渦を巻いていた。
この山行は、神城山荘でスキーをしている間に行ったので、余計にパッとしなかった。山に登る仲間もいないし、つまらないという気持ちが渦を巻いていた。
これまで5、6回スキーに行ったが、滑り方について今回のように体系的に教えてもらったのは初めてであった。パラレルターンに近い滑りができたので、前途は明るいように思えた。
それで慢心したわけではなかったが、最終日にジャンボゲレンデを気持ちよく滑っていたところ、パラレルにしていたスキーが重なってバランスを崩し、転倒した拍子にスキーのエッジで右ひざに裂傷を負った。止血できたので、1日券を買っていたこともあり、午後も滑った。ケガのショックより、スキーを気持ちよく滑らせることができるようになった喜びのほうが大きかった。
弟と初滑りに行った。雪がほとんどなく、かろうじて滑れる斜面のリフトは大行列だった。仕方なく歩いて登り、少しの雪があるところを滑った。
11月初めに狭山スキー場で足慣らしした効果で、緩斜面のパラレルターンは楽にできるようになった。しかし、まだ体を十分に使った滑りができていないので、ちょっとしたことで転倒してしまう。ブッシュに引っかかるとすぐ転倒した。
早稲田大学の体育実技科目で「スキー」を選択した学生は、シーズン前に狭山スキー場で足慣らしすることになっている。その際、体育局から専任職員が出張して実施をサポートする。そのメンバーにわたしも加わった。
初めて行った室内スキー場は、スケートリンクのような感じで、自然の中で楽しむスキーとはまったく違ったものだった。靄のたちこめた中を何本か滑ったが、お世辞にも楽しいとは言い難い経験だった。
河童橋で 1976年8月31日 |
早稲田大学体育局の実技科目に「山岳」というのがある。この科目で学生は北アルプスの梓川のほとりの徳沢園で幕営しながら、周辺の山々に登るのである。
この科目の実施にあたって毎年体育局の職員が出張していた。今年は専任職員のYさんとTさんが行くことになっていた。わたしはTさんから誘われて徳沢へ遊びに行くことにした。
Tさんの車で上高地まで行き、駐車場に車を置いて、通い慣れた道を徳沢まで行く。翌日は実技班が蝶ヶ岳に登るというので、それについていった。長塀山から蝶が岳の稜線に出ると、あまりはっきりとはしないながら槍ヶ岳から穂高岳のパノラマが得られた。下山はスタコラと走るような感じで下った。
早稲田大学体育局の菅平の出張を終えて、その足で穂高へ向かう。
上田から列車を乗り継いで島々に着いたのは、まだ夏の日がカンカンに照りつける2時頃だった。さてこれから島々谷を徳本峠まで詰めていく。はじめは谷沿いの舗装道路で、木陰もあって歩きやすかった。日が西に傾きだすと、強い日差しをモロに受ける土埃のあがる林道になった。
菅平での二晩は、専任職員のIさんに付き合わされてしこたま酒を飲んだ。それがいまからだ全体から猛烈な汗となって吹き出してきた。林道の脇に生えた大木の根元で休んでいると、涼しい風が流れてきて、北アルプスのふもとにいることを感じさせた。
谷の奥に壁のように高く連なる稜線は、徳本峠と同じくらいの標高だろうから、峠まではまだまだかかりそうだ。そうこうするうちに折口信夫の歌碑「をとめごの心さびしも清き瀬に身はながれつゝひとこひにけむ」を過ぎて、谷が大きく左(東)にカーブする。ここで林道は終わり、広葉樹の根方に苔の生えた山道となる。この徳本峠越えは、昔から多くの人が上高地の入下山に使った道だけに、深い自然の中にも何か人臭さを感じさせる小径である。
フキが密生した河原に道が降りると、そこが岩魚留の小屋だった。小屋全体が古びていて煤けている。今日はここまでとしても良いくらいの時刻だったが、いつもの「あと少しだから。」という気持ちが起こって、また徳本峠に向かって歩き出す。途中山の中にテントを張って本格的にフキを取っている人がいた。もう遅いから誰も通るまい、と高をくくっていたのだろう。わたしの顔を見てびっくりしていた。
もう暗くなった九十九折れの道をライトも点けずにのしのし登って行くと、上の方からひとの声がした。徳本峠小屋はもう寝静まったようにしんとしていたが、わたしが1泊2食付での宿泊を申し出ると、快く夕食を出してくれた。
7月24日
今日もすばらしい快晴である。昨日無理した影響で、今日は朝早く起きることができず、出発が少し遅くなった。
明神に下り、そこからさらに上高地へ下る。上高地で絵葉書を投函し、岳沢をつめる。昨日よりも荷物が重く感じ、ペースが上がらないので、今日は岳沢ヒュッテに泊まることにする。
7月25日
今日はどんよりとした天気で、さらに悪化しそうだ。天狗のコルを目指して登って行った。
天狗のコルを過ぎてジャンダルムへ向かうあたりから雨が激しくなったので、コルの避難小屋へ引き返した。中に入り様子を見ていると、何人かの人たちが小屋から出たり入ったりしていたが、結局最後はわたしだけが小屋に残った。
結局コルの避難小屋に泊まった。遭難者の躯がここに横たわっていたことなどを勝手に想像して夜中恐ろしかった。
7月26日
何とか持ちそうな天気なので、ジャンダルムから奥穂高岳を越え涸沢へ行くことにした。涸沢についてテント場を探し回ると、そこにはSとIがいた。
あとの日はテント場で知り合った長崎の女の子たちと屏風の頭へハイキングへ行ったり、スケッチしたりしてのんびり過ごした。
涸沢カールで 1976年7月 |