1975年11月8日土曜日

戸川林道 

兄と戸川林道の散策に出かけた

丹沢の11月はじめはまだ紅葉に適さない。

雨のそぼ降る林道を行くのはもどかしい。

わたしには力が有り余っているのだ。

だが、林道歩きでは仕方がない。

わたしはきっとまだふらついていた。

自分は今頃もっと自由に生きているはずだった。

昨年の今頃、わたしはどえらい苦労をしていた。

その苦労はただこのような生活を求めてのことだったのか。

今の自分がどうしようもなく中途半端な生活をしているように思えてくる。

大学はつまらないところだ。

何をやっても満たされない。

そして、どうしようも無くなっている。

今こうして林道を歩いていても、自分の力を出し切れていない。

それが後ろめたく、この行為をつまらなくさせている。

どうすればいいのだろう。


1975年7月30日水曜日

穂高連峰

まだ浮き足立っていた。

7月27日

 横浜を早朝弟と出発する。6時15分の急行に乗り松本へ。そこからバスを乗り継いで上高地に1時30分に着く。ここまで6つの公共交通機関を乗り継いできたが、ずっと着席することができた。


 上高地から涸沢まで歩くのに約6時間かかり、涸沢のテント場に着いた時にはもう真っ暗になっていた。暗いうえに、テントの数が多いので、先に来ているはずのSのテントがどこにあるのか、なかなか見つからなかった。


7月28日

 翌日は単身で北尾根に向かった。まず、涸沢カールの雪渓を5・6のコル目指して登った。登山道とは違い、アップダウンなしに直線的に登っていくので高度がグングン稼げる。1時間ほどで5・6のコルに着いた。コルの向こう側を覗くと、奥又白の池がきらりと光っていた。

ここから北尾根を前穂高岳めがけて登攀する。5峰から4峰はガレ場を行く。3・4のコルからがようやく岩場らしくなる。3峰の登りにすでに数パーティーが取り付いている。わたしはそれらのパーティーの脇をすり抜けるように、ノーザイルで登っていった。すると、彼らも次々とザイルをザックにしまい始めたので、おかしくなってしまった。


 すごい勢い登ったので3峰の頂上に着いたときは息がはずんでいた。2峰、山頂と難なく越え、吊尾根を最低鞍部まで下った。ここから涸沢のテント場まで、雪渓をグリセードで下ろうと思った。鞍部から雪渓の最上部までは不安定なガレ場で、微妙なバランスで駆け下った。雪渓の出だしは急だったが、徐々に傾斜が弱まった。ただ、雪渓は固く、表面がスプーンカットされていて、グリセードで下ってもがくがくしてショックが大きく、気持ちは良くない。


 テントに戻るとSが出発の支度をしていた。どこへ行くのかと聞くと、わたしを迎えに行こうとしていたと言う。


7月29日

 快晴の中をS、磯工で一学年下だったS、弟、それにわたしの4人で奥穂高岳に登った。弟は下りで靴が足に当たり、痛いと言っていた。涸沢のテント場を撤収し高校1年の時に夏山合宿で泊まったの横尾で1泊して横浜へ帰った。

奥穂高岳で 1975年7月29日


1975年5月5日月曜日

蓬峠

武能沢で 1975年5月2日
 1年間の浪人生活のすえ、4月から大学に入った。すると3月までより格段に暇になったが、一方で定期的な収入が得られなくなったので、早速アルバイトを始めた。横浜駅近くの植木屋の店員だった。ゴールデンウィークまでここで頑張って働いた。


 昨年1年間は、大学受験のことで頭がいっぱいで、何か好きなことをやるのを意識的に避けていた。それで、いつも物足りない感じを持っていた。そしていよいよ大学に入学でき、なんでも思い切ってできる状況になったのだが、何をやればいいのかさっぱり分からないでいた。


 そんな時、植木屋のアルバイトは頑張り甲斐のあることだった。1日目いっぱい働いたあとの疲労は心地よいものだった。浪人の時は、風邪をひいたり、くたびれすぎて調子を崩してはいけないと用心をしていたので、とことん自分の体力を使い切ることを避けていた。それが、植木屋で昼間一生懸命働いて、夜ぐっすりとねるのは、気持ちの良いことだった。


 そうやって、精一杯体を使うことの気持ちよさを思い出したので、わたしはまた山に行きたくなったのだろう。


 谷川岳の蓬峠に行けば、まだ雪が沢山残っていて、スキーができるだろう、ということで、そこに出かけることにした。メンバーは、磯工山岳部で一緒だったSと2年年下のI、それにSの会社の友人のYとわたしの4人だった。


5月3日

 上越線の夜行列車で水上まで行き、そこからタクシーで湯檜曽川の出合まで入った。残雪のあいだに見えている旧道を川沿いに遡っていく。天気は良くなく、雲が厚く頭上を覆っている。期待していた一ノ倉沢の大岩壁は、ちらりとも見えなかった。


 雨が降り出し、Sがひいひい言って歩いている。道はやがて湯檜曽川を離れ、武能沢に沿って高度を上げていく。さらに行くと白樺尾根に向かいまっすぐ登るようになる。尾根上に着くと小さな避難小屋があったので、そこで昼飯を食べることにする。


 このあたりから、夏道は完全に雪の下になる。雪の上にははっきりしたトレースがあったので、それをたどり、たやすく蓬峠まで行けた。まず避難小屋の中を覗いてみると、狭いところに大勢の人がごちゃごちゃと寝ていた。ここに泊まろうと思っていたのだが、ダメになってしまった。それで蓬峠ヒュッテに行って泊まることにした。


 ヒュッテに荷物を置くと、Sが早く滑ろうと言い出した。峠までの登りではばてていたようだったのに、スキーはまた別らしい。滑ってみると、Sはいつの間にかわたしより数段滑るのが上手くなっていた。わたしが1年間浪人しているうちに、どこかへスキーに行って足前をあげたらしい。悔しい。


5月4日

 また天気が良くなかったが、スキーや相撲などをして遊んだ。また避難小屋を覗いてみると、人がいなかったので、ヒュッテから荷物を移し、今夜はこちらで泊まることにした。夜になっても他のパーティーは来なかったので、わたしたちだけで悪ふざけをして遊んで楽しかった。


5月5日

 下山


 今回の経験から分かったことは、峠から下に向かって滑るのは、傾斜がきつすぎて上手く滑れないということ。むしろ、峠よりさらに上に登って、峠に滑り降りてくるのが良いと思う。

 

1975年4月8日火曜日

山形蔵王スキー場 1975年4月6日~4月8日

 入学式は4月1日に終わったが授業が開始されるまでまだしばらくある。大学生になったからには、遊ばなくてはいけないという差し迫った気持ちで一人で出かけた。上野駅からの夜行列車の中でフロイトの「精神分析入門」を読み始めたが、書いてあることがほとんど分からない。

4月6日

 蔵王スキー場は4月に入ってもまだ営業しているので来ることにしたのだが、ゲレンデ下部はカチカチのアイスバーンになっていて、リフトの営業は終了しており滑っている人がほとんどいない。


 上部はリフトも動いており、雪質も良い。高校の時に滑った感覚を思い出して、パラレルターンを決めようとトライした。しかし、気持ちだけが空回りして、かえってひどい転び方を繰り返したので嫌になってしまった。


4月7日

 雨だったので、スキーはしなかった。1人で行くゲレンデスキーはとてもつまらないと思った。