ヨーロッパアルプスへ行こうと思ったのは、ひとつの偶然がきっかけだった。
下宿していた家が区画整理のため立ち退きになり、その補償金として約20万円貰えることになった。わたしはそれまで、自分が自由に使える金として20万円もの大金を手にしたことは無かった。これはついているぞ、と思った。と同時に、このような幸運はわたしの人生で2度と無いかもしれないから、この金は絶対無駄に使わないぞ、と決めた。
それでよくよく考えた結果、この金を飛行機代にして、来年の夏にヨーロッパアルプスに登山に行こうと思った。
わたしが高校生だった時、山岳部の顧問だったMさんが、「いつかヨーロッパアルプスに行ってみたい。」と言っていた。ヨーロッパアルプスはそんなに良い所なのか、と思った。わたしはその時まで5回ほど北アルプスの槍穂高連峰で夏の山登りを楽しんできた。その「北アルプス」と同じように、あるいはそれ以上に「ヨーロッパアルプス」が素晴らしい所であるなら、ぜひそこに行って山登りをしよう、とMさんを誘い、1978年の夏に実施することになった。
7月25日 館山⇒成田空港⇒機中泊
千葉館山での体育局の出張を終えて、成田空港へ向かう。出発前は旅行の手続きやら、大学の定期試験やら、その他いろいろのことに追われた。自分としては初めて海外行きなので、もっと緊張してもよかったはずだが、気がついたらもう飛行機に乗っていたという感じだった。
7月26日 機中泊⇒ジュネーブ⇒シャモニー
南回りの飛行機で夜が長かったせいか、頭が少しぼんやりしている。それでも次第に東の空が赤く染まってくると、さあこれから本場のアルプスの上を越えていくのだという興奮で、目がぱっちりとさえた。朝というにはまだ早いが、機内の人々は、やはり自分と同じ理由からか、ざわざわとしている。そして雲の上を飛んでいるのかと思ったら、良く見ると、飛行機は暗い谷の上に万年雪をいただいた峰の上を飛行していた。そして山容が次第にはっきりしてくると、それがヨーロッパアルプスだと確信した。
わたしたちを乗せたスイス航空のダグラスDC-10は、モンブラン(4,810m)とマッターホルン(4,478m)の間を高度6,000m位で北西に向かって通過した。山々はまだ眠っているようだった。乗客の誰かがこの景色を見て「もう日本へ帰ってもいい。」と言っているのが耳に入った。よっぽど感動したのだろう。だけどわたしは、この峰々を自分の足のすぐ下に感じるまでは帰れないと思った。飛行機のジェットエンジンの音が山々にこだましているような中で、そう思った。
アルプスを越えるとすぐジュネーブで、飛行機は難なくそこに降りた。
そこから日本人だけで仕立てた貸し切りバスでシャモニーに向かう。到着したシャモニーの街は、大勢の観光客や登山者、ハイカーでごったがえしていた。町中には自動車が多いのに加えて、建築ブームで方々に背の高いクレーンが見える。
到着早々Mさんとスーパーへ行き、買い出しをした。スーパーの中は日本と変わらないが、当然ながら商品はほとんどフランス語で表記されているので、意味がわからず、ほとんどあてずっぽうで購入した。また、本日の目玉商品らしきものを、「牛乳1リットル2フラン」というような感じのフランス語でアナウンスしていたのがやけに耳に残った。
それから町はずれにあるキャンプ場へ行き、テントを張った。天気が良さそうなので、早速明日モンブランを登りに行くことに決め、早々に寝た。しかし、外は明るく、結構暑くて寝苦しかった。
7月27日 シャモニー⇒グーテ小屋
朝、寝ぼけまなこで山の方を見ると、モンブランが朝日に輝いていた。これは寝過ごした、とあわてて朝食を食べ、出発した。
シャモニーの街へと続く道は、ちょうど北アルプスの上高地に似ている。川幅は狭いが、流れは至って急なアルブ川というのがある。ただし、水は梓川のように澄んではおらず、白濁している。また、川のほとりに生育している植物も、北アルプスとそれほど違っていないようである。
あれこれまわりを見回しながら歩いているうちに町の中心部に着く。ガイド組合の前に行き天気図を見ると、地中海方面から高気圧がヨーロッパ中部に張り出していて、あつらえ向きの天気だ、と思う。
シャモニーからレズッシュまではタクシー、次にベルヴューまでロープウェー、さらに登山電車でニーデーグルに着く。途中で、わたしたちが日本人だと分かって見知らぬ人が話しかけてきた。そのひとは1976年のイラン・日本合同のマナスル登山隊の隊員だったが、上手く話せなかった。こちらのへんてこな英語もさることながら、むこうのなまりのある英語もかなりのものだったのである。
それはともかく、今日は標高差1,500mばかりを稼がなければならない。太陽はぎらぎらと照りつけているが、日影は涼しい。下から見上げるエギーユ・ド・グーテは一見富士山のような感じだが、登ってみるとかなり急である。岩場が続き、鎖やロープが設置してあるところを過ぎると、まもなくグーテ小屋に着く。小屋のテラスから登ってきた道を見下ろすと、穂高涸沢のザイテングラード上部を長くしたように見える。
ここの小屋はフランス山岳会が経営している。キビキビと働く人々が清潔な環境を維持している。夕食にはきちんとしたディナーが出る。ポタージュから始まり、メインディッシュは煮豆とローストビーフ、フランスパンは食べ放題で、最後にフルーツカクテルがデザートとして出る。食事中ワインを1本とって2人で飲んだが、かなり疲労したことと、高度の影響で、したたかに酔った。食後のコーヒーや紅茶は夕食代に含まれていないので、飲みたい人は別に注文する。
夕陽は夜8時を過ぎても依然として小屋の中を光で満たしている。しかし、わたしたちは明日朝2時に起床するので、もうベッドに向わなければならない。目をぐっと閉じていたが、そのうちに気持ちが悪くなり、せっかく飲んで食べたものをトイレでみんな吐いてしまった。
7月28日 グーテ小屋⇒モンブラン⇒グーテ小屋⇒シャモニー
小屋の人が2時過ぎに起こしに来てくれた。そうすると、それまでしんと寝静まっていた人たちが、一斉に起きて慌ただしく出発の準備を始めた。わたしたちも遅れをとらないよう準備した。そして食堂へ行くと、すでに朝食をとる人たちでごったがえしていた。ようやく空いている場所をみつけ、パンを無理やり腹につめこんで小屋の外に出た。
まだ夜明けには時間がある。空には星がいっぱい光っていて、今日の晴天を約束している。それにしても踏みしめる雪は、早朝の冷え込みでしまり、歩みを進めるたびにキュッキュと小気味よい音を立てる。小1時間ほど歩いて前方を見上げると、先行パーティーのライトがトレースの所在を知らせている。ここからドーム・ド・グーテの山頂までは標高差約500mで、斜面はスキー滑降に好適な1枚バーンだ。
高度が上がるにつれて、風が強くなり、体温を奪っていく。ドームのコルでアノラックを着て、手袋をはめる。念のためアンザイレンし、コンティニュアスで歩く。バロ小屋を過ぎたあたりであたりが明るくなりだした。そして、これまでわたしたちを抜いていった人たちが、歩くペースをおとしている。おそらく高度の影響で呼吸が苦しいのだろう。わたしも右目のまぶたが重くなり、息を深くしにくい。
ボス山稜に近づくとナイフエッジになる。身体的な機能が一部乱れているが、意識ははっきりしているので、十分にバランスをコントロールして歩く。登頂を終えて下山してくる人とすれ違う時、「テン・ミニッツ」と親切に教えてくれる人もいた。
午前8時30分、モンブランの山頂に着く。グーテ小屋から5時間で、これはモンブラン登山の標準時間であった。モンブランの頂上は雪の小台地で、ちょうど遠見尾根の地蔵の頭のような場所である。しかしモンブラン山頂は厚さ約100mの永久氷河の上に存在しているそうである。
モンブラン山頂で |
山頂からの眺望で最も印象的だったのは、モンブランの巨大な影と、次に登るマッターホルンの尖峰だった。
下山にかかると体調に異変を感じた。とてもだるいし、アイゼンを外そうとしたときに手指がつって自由がきかなかった。これまで山を登っていてこのような状態になったことはなかったので、これはきっと高度の影響ではないだろうかと思った。
7月29日 シャモニー⇒モンタンベール⇒シャモニー
シャモニーのキャンプ場で |
本来今日は休養を予定していたのだが、あまりに天気が良くて、暑くてテントの中に居られないので、モンタンベールまで登山電車に乗ってでかけた。モンタンベールからの眺めは豪華だ。まず、圧倒的な迫力で迫るのはドリュ北壁である。見上げていると首が痛くなる。そして、大きくうねるメール・ド・グラスの奥にはグランドジョラス北壁。ドリュと氷河を隔てて対峙するのがグランシャルモで、グレポンも鋭い頂稜をのぞかせている。
氷河に降りて、そこに掘ってあるトンネルに入ってみた。わたしはその時まで氷河というものを、なんとなく夏山の雪渓みたいなものと想像していた。しかし、本物の氷河はカチカチの氷で、空の青さが影響するのか淡いブルーに見えて美しい。あらためてモンタンベールから氷河のうねりを眺めると、不思議な気持ちがした。氷河はどっしりと見えるが、年間で数十m流れているというからだ。
7月30日 シャモニー⇒ラック・ブラン⇒シャモニー
ツェルマットへの移動予定日だったが、中止して、ラック・ブランへ遊びに行った。今日は日曜日なので、交通機関は混むし、シャモニー同様にツェルマットでも商店は開いていないだろうというのが理由だ。
キャンプ場からレ・プラまでぶらぶらと歩き、そこで昼食を買い、ロープウェーに乗る。まずフレジェールまで上がり、そこでキョロキョロしているとスキーリフトが動いていたので、それに乗ってもっと上まで行った。降りたところはもう標高2,500mでサマースキーをやっている人がいる。赤い針峰群が眼前に迫り、振り返ればシャモニーの谷を隔ててモンブラン山群の膨大な隆起が逆光に浮かんでいる。ここからラック・ブランまではぶらぶらと2時間ほどの道である。残雪の上をグザグザと歩いて行く感覚は、まさに日本の夏山そのものである。やっと調子が出てきた。
道がしばらく上り調子になると、写真で見覚えのある山小屋が見えてきた。ラック・ブランの湖上にはまだ融けきっていない雪がある。湖畔には家族連れが沢山いて、ワイワイとにぎやかである。シャモニーの谷を見下ろす岩の上に座って、わたしたちはおいしいクッキーとコーヒーで軽く昼食をとった。山肌に点在する小さな池は、深いコバルトブルーの水を湛え、カクテルに浮かべた氷のように残雪を漂わせている。
のんびりしたあと、フレジェールへとぶらぶら下って行った。その途中にきれいな花が沢山咲いていた。その中でアルプスの3大名花として知られている花を紹介してみよう。
名花の第一はエーデルワイスであろう。しかしどういうわけか、わたしはこの花を山の中で見ることができなかった。栽培種は沢山あって、街中の花屋でも売っている。墓地に植えてあったのを見た限りでは、日本のミヤマウスユキソウなどの方がきれいであると思う。
次にあげられるのが、アルペンローゼである。わたしは語感からは華やかな印象を持つが、実際はツツジに似た小灌木で、枝の先に紅色の花を沢山つけるつつましやかな花である。だが、群生しているさまはなかなか見事である。この花のイメージが、ワリス・アルプスの重鎮であるモンテ・ローザにつながっていると旅先で耳にした。ローザとローゼ。面白いと思った。
わたしの好きな花は3番目のエンチアンである。リンドウの仲間で、濃い紫色をしている。アルプスにバイオレットの色をした花は多いが、その中でエンチアンは抜きん出て美しいとわたしは思った。しかし、ラック・ブラン以外で見られなかったのは残念だった。
7月31日 シャモニー⇒マルティニー⇒フィスプ⇒ツェルマット
シャモニーのベースキャンプを撤収して、ツェルマットへと移動した。天候は悪く、車窓からの景色は良く見えなかったが、スイス国鉄の運行時間の正確さと、スピードの速さに感心した。急行列車に乗っても特別な料金は必要ない。フィスプでBVZ鉄道に乗り換える。
ツェルマットの街には、排気ガスを出す自動車は入れない。乗り入れ禁止なのである。駅前には馬車や電気自動車やホテルの客引きがたむろして、シャモニー同様にぎやかである。違うのは人を押しのけて走る自動車がおらず、建築中の建物が少ないことである。横丁といわず目抜き通りといわず、馬の落し物があちこちにゴロゴロしているが、みんな平気な様子である。わたしも平気を装ったが、茶色い落し物を踏まないようにだけは気をつけた。
8月1日 ツェルマット
知らぬ他国の旅で、ちょっと疲れたので。
8月2日 ツェルマット⇒ヘルンリ小屋
ツェルマットのガイド組合に行って、ガイドを依頼する。当初はわたしたち2人で登る予定だったが、今年は積雪が多く、ルートファインディングに困難を伴うと予想されたからである。
そのあとツェルマットの町はずれで、飛び上るほどしょっぱいスパゲティを食べ、山へ向かう。
ヴィンケルマッテンからシュバルツゼーまでロープウェーに乗る。シャモニーではラック・ブラン(白い湖)へ行ったが、ツェルマットでシュバルツゼー(黒い湖)とは対をなしているようで面白い。湖の近くの台地に立つと、風が強く、涼しいをとおり越して寒い。見上げるとマッターホルンは上半分を雲に隠して聳えている。今日はここから3時間ほど登ったヘルンリ小屋までなので、ぶらぶらと、あれこれ考えながら歩く。
ツヅラ折れになった道をしばらく登ると、小屋というには立派な建物が建っている。ここが今日の泊まり場であるスイス山岳会が経営するヘルンリ小屋で収容人員は最大170名である。
わたしたちが、居合わせた加藤滝男・保男兄弟と夕食を共にしていると、明日わたしたちを案内してくれるガイドがやって来た。1人は30を少し過ぎたくらいで、中肉中背で、名前をケービルという。もう1人は20代後半ぐらいの感じで、やや大柄のウェンデリンという。
わたしたちは挨拶をして、明日のためのアドバイスを受けた。それによると、明朝は3時過ぎに小屋を出る。ピッケルはいらない。荷物は最小限にする。アイゼンは途中で着ける。とまあ、簡単なものであった。加藤滝男さんが言うには、ピッケルを客に持たせないということは、ガイドにかかる負担の増大を意味するそうだ。また、ケービルというガイドは優秀で、日本人の客を扱うのも慣れているということであった。
午後8時にはベッドにもぐりこんだのだが、なかなか寝つけなかった。加藤兄弟との夕食でご馳走になったワインが少し効いて興奮していた。そして、しっかり効いていたのは、7月31日に日本人の単独行者が、ソルベイ小屋下の雪のトラバースで東壁側に滑落し死したという話だった。
8月3日 ヘルンリ小屋⇒マッターホルン⇒ヘルンリ小屋⇒ツェルマット
小屋の人が3時過ぎに起こしに来たので、あわてて食事をしてホテルの廊下に出ると、我々のガイドはすでに準備万端で待っていた。わたしに着くガイドはウェンデリンだった。
小屋の外へ出ると、天候は快晴とは言えないが、星が見え隠れしているので心配なさそうだ。すぐにアンザイレンしてヘッドランプをたよりに歩き出す。はじめから岩場となるが、コンティニュアスでどんどん登る。先行していた日本人パーティーをあっという間に抜き去ってしまう。ガイドの歩き方はかなり雑で、雪の塊や岩が少々落ちても平気な風で、構わず登る。しかし、すこしバランスが微妙な個所になると、そこはそれなりに慎重に登って行く。彼らはこの山をすでに何度も登っており、ホールドやスタンスやピンがどこにあるかをそらんじているのだろう。だから、注意すべき所と、それほどでもない所の区別が充分にできるのだろう。
そんなことを考えながら登っていると、東の空が明るくなりだした。雪が多くなってきた所でウェンデリンがアイゼンを着けろと言った。ここからソルベイ小屋まではあと20分から30分だろうから、そこまで行ってからゆっくりアイゼンを着けてはとも思うが、過日亡くなった日本人はこのあたりで滑落したのかとも思う。ヘルンリ稜の岩と雪のミックスも、シャモニーで大枚1万円をはたいて買ったシモンのアイゼンが、わたしのテクニックを補ってくれてスムーズであると思った。
ソルベイ小屋からしばらく行くと雪稜になった。ウェンデリンはがむしゃらに登って行くので、わたしもむしゃむしゃ登った。Mさんとケービルは遅れたのか、下を見ても姿が見えない。雪稜の先が肩という所で、ここからまた岩場になる。今までの岩場よりも赤茶けて急であるが、ここには綱引きの綱のような太い固定ザイルが張ってあった。それを使って登っていると手が疲れたので、それに頼らないで登るようにした。
このあたりから風が強くなり、吹き上げられた雪片が顔を叩いた。ウェンデリンが岩陰によってアノラックを着こんだので、頂上が間近であることが分かった。
雪の斜面がひら地になり、そしてナイフエッジになると、そこがマッターホルンのスイス側山頂であった。イタリア側の山頂が吹雪に見え隠れする。ちらりと鉄製の十字架が見えて、山頂であることを確信した。
“Congratulations!”
“Thank you so much.”
ウェンデリンとたったそれだけの会話を交わして山頂をあとにした。しばらく下ったところでMさんと会い、頂上に行ってきたことを伝え、ひと足先に降りる。加藤滝男さんとも途中で合い、おめでとうといわれた。うれしかった。
ヘルンリ小屋に戻りついたのが午前11時。その日は80人ほどがマッターホルンの山頂を目指したそうだ。
8月4日 ツェルマット
お疲れさんで休養日。
8月5日 ツェルマット⇒ゴルナーグラート⇒リッフェルアルプ⇒ツェルマット
天気が良いので、ふらふらと歩きたくなった。登山電車でゴルナーグラートヘ行く。この路線は基点から終点の標高差が2,000m近くあり、まったく座っているだけで山の上まで持ち上げてくれる。
ゴルナーグラートからの眺望は素晴らしかった。モンテ・ローザ、リスカム、ブライトホルン、マッターホルン、ダンブランシュ、オーバーガーベルホルン、ワイスホルン、テッシュホルン。ツェルマット周辺はアルプスで最も豪華な峰々が存在していると思う。
山道を、食っては歩き、眺めては歩きしていると、間もなくリッフェルアルプという所に出た。やわらかそうな牧草に覆われた中をキラキラとした小川が流れ、小さな教会では子供たちが遊んでいる。目を移せば、針葉樹の間から白銀の峰々がのぞく。まったくこれがアルプだ。何の飾りもない場所、アルプスの至る所にあると思われるこんな場所が素晴らしい。
わたしは思わずThe Sound of Musicの印象深いシーンを連想して胸が躍った。小屋の前をベランダにして、ヨーデルやアルプスの民族音楽を流している店があった。いかにも急づくりという感じで素朴で良かった。真向かいにマッターホルンが見えているのもいい。搾りたての牛乳をもらってゴクリゴクリと飲んだが、あとで腹をこわした。
とても気持ちがいいので、思い切り怠惰に過ごした。目を閉じると太陽がわたしのまぶたに投影しているような気がした。そうしているうちに日が傾いてきて、お腹が痛くなってきたので、針葉樹の中をツェルマットへ駆け下った。
8月6日 ツェルマット⇒シュタフェルアルプ⇒ツェルマット
今日は日曜日なので、例により交通機関の混雑と買い出しの不便を避けるため、グリンデルワルトへの移動はしないことにした。昨日のような感じのいいところを探しにマッターホルンの北壁が良く見えるシュタフェルアルプのほうへ行ってみたが、大した収穫はなかった。
8月7日 ツェルマット⇒ブリーク⇒シュピーツ⇒インターラーケン⇒グリンデルワルト
雨がざあざあ降って仕方がないが、もうツェルマットをたたなければならない。電車を4回乗り換えてグリンデルワルトに着く。
早々に買い出しを済ませ、キャンプ場へ行く。
8月8日 グリンデルワルト
今回ヨーロッパへ来て、はじめての雨による停滞
8月9日 グリンデルワルト
雨もたまには良いなどと、誰かが口を滑らせたせいか、雨が止まず停滞。
8月10日 グリンデルワルト
テントの中で寝ていれば、スイスも日本も変わりはしないよ(字余り)
8月11日 グリンデルワルト⇒クライネ・シャイデック⇒ラウター・ブルンネン⇒ミューレン⇒クライネ・シャイデック
4日ぶりに晴れ上がり、はじめてアイガー北壁の全貌を見る。上ではかなりの降雪があったと見え、まるで冬の様相である。間断なくスノーシャワーが落ちているのが見える。
明日ユングフラウ(4,158m)に登ることにして、今日は麓を見て回った。
これと言って印象的なところもなく、夕方クライネ・シャイデックに着く。今夜はここのホテルに泊まり、明朝3時30分発の登山電車で出かけることにする。
満天の星のもと、始発電車の乗る人々がグーテン・モルゲンとかグッド・モーニングとか言いながら駅に集まってくる。クライネ・シャイデックを出発した電車はすぐにトンネルの中に入ってしまう。そして、小1時間ほどでユングフラウ・ヨッホの地下駅に着く。地下道のところどころで登山者が出発の準備をしている。わたしたちもトンネルの出口でアンザイレンし、ヘッドランプを点けて出発する。
だらだらとした氷河上の雪原だが、暗く、トレースも無いし、新雪5cmほどあって早く歩けない。それにこのあたりにはベルクシュルント(氷河の裂け目)が存在するということだ。数十mの厚さがある氷河の上にわずかに積もった雪だが、ワカンを着けていないのでラッセルがしんどい。雪原が登りになってきたあたりで夜明けとなる。
ロッタールザッテルへの急な登りになる。新雪の下に硬い雪を感じるようになったので、アイゼンを着ける。ベルクシュルントがあるところを避けながら、なおかつなるべく直上する。2か所ほど氷の亀裂をまたぎ、ロッタールザッテルへ向けてトラバースする。このあたりが雪が最も深く、股下ぐらいのラッセルだった。ザッテルへの最後の急斜面を慎重に登る。
昨日ザッテルで幕営したパーティーが、もうユングフラウの山頂に立っているのが見える。ザッテルから山頂へはナイフエッジである。左側に転落したら1,500mは落下するだろう。斜面は急だが雪は堅くないので難しい歩行ではない。ザッテルから1時間ほどで山頂に着く。山頂は狭く、10人がやっと立てるくらいだ。通常はもっと広いのだが、最近の積雪で山頂が盛り上がり、狭くなったとのことだ。
山頂からの眺望は、今回の山行を締めくくるのにふさわしいものであった。モンブランとマッターホルンが遠望でき、登った3つの山の位置関係を明確に把握することができた。
ユングフラウの山頂まで、わたしたちは好天のもと、ずっと雪の上を歩いてきた。気温が上がると雪がくさり、急斜面の下降は危険度が増し、緩斜面ではアイゼンが団子になって、花魁道中のような歩き方を強いられるようになる。だからこの絶景の山頂から早く下山しなければならなかった。
あれこれとしゃべりながら氷河の上を歩いて行くのは気持ちよかった。今朝わたしたちが付けたトレースの上を、たくさんの人たちが歩いている。その人々が1歩もトレースをはずしていない所を見ると、わたしたちのルートファインディングはとても正確だったのだろう、と思った。
8月13日 グリンデルワルト
日曜日で、天気は雨。休養を兼ねて停滞とする。
街の中をぶらぶらしてみたが、あまり面白くない。
8月14日 グリンデルワルト⇒インターラーケン⇒ベルン⇒ジュネーブ⇒シャモニー
快晴の朝、冷え込んでいる。テントを撤収して、シャモニーへ行くことにする。ベルンからジュネーブの間は、チューリッヒ発の「都市間急行」という列車に乗った。ゆったりとしていてきれいな座席が配置された車内は空いている。ベルンからローザンヌ間の100㎞を1時間で、ローザンヌからジュネーブまでの60㎞を30分で、それぞれノンストップで走る。
車窓からながめた景色はのんびりしたものだった。家が点在する緑の丘陵で牛が草をはむ。ベルンは工業都市の様子があったが、駅を出発して10分もするとのどかな農村の景色が広がった。スイスは小さな国だが、国土のすべてを有効に利用しようという努力が伺えた。スイス人は合理的な調和を生活のあらゆる場面で追及しているという印象をわたしに与えた。
田園地帯を通り過ぎると景色は一変して、森の中をしばらく行く。トンネルに入ったり抜けたりを何回か繰り返していると、突然視界がひらけレマン湖畔に出た。目の前には海のような景色が広がり、ヨットが浮かんでいる。岸辺には茶色い屋根と白い塗り壁の家が並んでいる。地中海とみまちがうような風景だ。もっとも地中海には行ったことはないが。
列車は快走し、あっという間に懐かしい気がするジュネーブ駅に着いた。あたふたとシャモニー行きのバスに飛び乗って、再びシャモニーへと向かった。
8月15日 シャモニー
ガイド祭りを見た。笛や太鼓でにぎやかにやるのかと思ったら、至って静かなものだった。ガイヤンの岩場でのデモンストレーションは、大変な人で混雑していた。高さ30mほどの岩場で、ガイドがザイルにぶる下がりながらスキー滑降するまねをしたり、警察官が女を追いかける寸劇をしたりと、いろいろな趣向がこらされていて、1幕終わるたびに拍手喝采であった。
午後Mさんはわたしよりひと足先にシャモニーをたって日本へ帰った。高校教師としての仕事が待っているのである。
これからは1人旅で、これはこれで楽しみである。
夜、映画を見に行った。リオネル・テレイが主演で、他にシャモニーのガイドが沢山出演していた。昼にガイド祭で見た人たちがすごく若い顔で映っていた。
8月16日 シャモニー⇒エギーユ・ド・ミディ⇒シャモニー⇒マルティニー⇒ジュネーブ
天気がもちそうなので、エギーユ・ド・ミディにロープウェーで登っていることにした。ロープウェーの駅に着くと、急に雨が降ってきたが、構わず乗った。そして上についてみると雪だった。バルコニーの欄干にはエビノシッポができていた。トレーナーにスニーカーできたので、とても寒い。あたりをぐるりと見渡して、ほうほうの体で下った。
これで山関係の予定は全て終わった。
荷物をからげてジュネーブに向かう。マルティニーから乗った列車はミラノ発の特急で、素晴らしくきれいなコンパートメントだった。わたしは浮かない顔をした日本人2人と、フランス人らしき知的な若い女性がいる部屋に入れてもらった。ここまでずっと貧乏生活をしてきたので、どうもこのようなゴージャスな雰囲気には急には馴染めない。そんな感じはともかく、なんのかんのと話しをしているうちにローザンヌに着き、ジュネーブ行きの列車に乗り換えた。
列車は混んでいた。わたしは大荷物なので、デッキの補助椅子に腰かけていた。すると若いアフリカ系の人がやってきたので、席をつめて彼にも座らせた。すると彼はわたしに親しみを感じたらしく、いろいろと気安く話しかけてきた。
それによると、彼はアフリカからローザンヌに会計学を学びにきているそうである。黒人は学歴があってもヨーロッパではせいぜいウェイターか皿洗いの仕事しかない。しかし、ここで勉強して自分の国に帰れば、沢山の人を使う高給取りになれる、というようなことを言っていた。
わたしは、自分も学生で、ヨーロッパアルプスを登りに日本から来た、と彼に言った。すると彼は、なんでこんな所まで、そんなことをしに、と信じられないようであった。
彼に教えてもらって荷物をジュネーブの駅に預け、身軽になってこれからパリに行くことにした。ホテルに泊まると金がかかるので、往きも帰りも夜行列車を使い、日帰りでパリを見物する。
列車の時間までジュネーブの街をぶらぶらし、晩飯をゆっくり食べてもまだ時間があるので、日本では見られないような映画を見たりした。そして、22時13分発パリ・リヨン駅行きフランス国鉄夜行列車の人となる。
8月17日 パリ
わたしが寝ていたコンパートメントに、途中でフランス人が2人乗り込んできたのに気がついたが、ねむいので起きなかった。
夜明けが近づくと車内は寒かった。列車はかなりのスピードで早朝の田園地帯を駆け抜けていく。もっともここはフランスなので田園地帯でも田んぼはない。車窓からきれいに朝焼けが見えた。それでなんとなく、今日はパリで楽しい1日を過ごせる予感がした。
やがて列車の進行方向の空がどんよりとしたスモッグで覆われているのが見えた。きっとあそこがパリだろう。わたしの乗った列車と並走するように、人を沢山乗せた通勤列車が行く。都市を取り巻く風景はフランスも日本も変わりない。
わたしはへとへとになってパリを1日中歩き回った末、夕方またリヨン駅に戻ってきた。そして、深夜になって今朝乗ってきたのと同じタイプの列車に乗り込み、コンパートメントに席を占めてぐったりと寝た。
8月18日 ジュネーブ
朝ジュネーブ駅に着くや否や、わたしは駅前のホテルに宿を取った。1泊1万円だというが、最初で最後の贅沢だと思ってそこに泊まった。食事の時だけ外出し、あとは部屋でワインをガブ飲みし、眠りこけ、風呂に3回入った。
8月19日 ジュネーブ⇒機中泊
朝ジュネーブの駅頭で、大学1年の時に英作文を習った伊賀上先生を見かけたので挨拶した。先生は大変うれしそうであった。そしてジュネーブ空港では早大山岳部OBの近藤等さんにもお会いした。近藤先生も早稲田の教員で、ヨーロッパアルプスのガイドブックを出版している。わたしはそのガイドブックを頼りにして、今回の山行を立案したのだった。
ジュネーブからチューリッヒまでの飛行は、今回の山行を締めくくるに相応しいものだった。近藤先生は窓側の席をわたしに勧めてくれ、いろいろと気を使ってくれた。
先生が窓の外にモンブランが見えると教えてくれたので見てみたが、わたしにはそれがすぐには見えなかった。急に目が悪くなったわけでもないのにおかしい、と思ってもう一度見渡してみた。すると、わたしが最初見たあたりは前衛の山々で、モンブランはもっとずっと高い位置に聳えていた。見慣れた山容がそこにあった。
日本にいてヨーロッパアルプスでの登山を夢見た時、わたしにとってモンブランは高い、手の届きそうにない存在に思えた。そして今、登ってから見るモンブランも確実に高く、大きいが、わたしは今回あの頂をしっかりと自分の足で踏みしめてきたという経験をもった。
このひと月ほどの素晴らしい体験を振り返ると、いろいろな思いが胸に迫って、なんだか日本へ帰るのが嫌になってしまった。
8月20日 機中泊⇒成田空港⇒下宿
蒸し暑い成田空港には高校時代の友人が数名迎えに来てくれていた。彼らに車に乗せてもらって下宿へ戻り、すべてが終わった。
わたしは今回の山行を実現するために、人に言われるまでもなく、確かに相当の努力をした。しかし、この山行を成功させることができたのは、自分の努力もさることながら、わたしをとりまく多くの人々の好意と、そしてなにより幸運に恵まれた結果である。
全てに感謝します。
参考記録
<装備>
(個人装備) 水筒(1L)、ピッケル、アイゼン(出歯)、アノラック、シュラフ(半身)、ヘッドランプ、サングラス、ロングスパッツ、皮手袋、エアマット(全身)、セーター、カッターシャツ、ニッカホース、ソックス、食器、普段着、洗面具他
(共同装備) テント(3人用)、コッヘル、ガスコンロ、ザイル(11㎜×40m)、カラビナ(10個)、ピトン(10個)、ハンマー、ハーネス、カメラ(1眼レフ)、8㎜撮影機、ガイドブック、マップ、コンパス、薬品他
<宿泊>
テント16、山小屋2、ホテル2、ロッジ2、列車2、飛行機2 計26泊
<食事>
自炊28、レストラン等28、機内食8、スナック5、山小屋4 計73食+α
<費用>
航空運賃275,000円、食費 80,000円、物品費 60,000円、鉄道運賃 50,000円
宿泊費 40,000円、ガイド料 40,000円、各種保険 30,000円、 計575,000円
Dear myself in Tokyo:
こんにちは、お元気で毎日をお過ごしでしょうか。
ヨーロッパにおけるわたしの生活ももうあと2日で終わります。
わずか1か月弱の生活でした。
この1か月のために、いかにわたしはこれまで多くのことを捨てたのでしょうか。そのために毎日がいかに欺瞞的であったか。
しかし、東京にいるあなたは、わたしがなんでそれに耐えてきたか、なぜ日常生活を犠牲にしてヨーロッパでの生活を夢見ていたか、きっと理解してくれるでしょうね。
わたしの嫌いな悪口など、きっときっと言わないでしょうね。
あなたは驚くかもしれません。
今わたしはこの手紙をジュネーブのとあるホテルで書いています。
1泊1万円のホテルで、1本3,500円のワインをガブ飲みしながら。
この部屋は、あなたの東京の4畳半の下宿にくらべて、とてつもなくラグジュアリーです。
まだ午後8時を過ぎたばかりですが、わたしはすでに3,000円もしたディナーを終え、シャワーも浴びました。クラシカル・ミュージックが小さな音で耳をくすぐるのを感じながら、心地よくペンを走らせています。窓の外はようやく暮色に包まれてきました。
昨日のパリは良かった。
ホテル代をうかすなどという他愛のない理由のために、両夜行日帰りという強行軍であったが。
パリに関する予備知識はほとんどなかった。
パリに着くや否や、わたしは地図を買い求め、かすかに自分の記憶にある地名だけをたよりに歩き回ることにした。
その印象を述べてみたい。
夜行列車を降り、駅から出てまっすぐ歩いていくと、ノートルダム寺院にぶつかった。滔々と流れるセーヌ川のしだれ柳の向こうに、朝日を浴びて尖頭がそそり立っていた。寺院の中をのぞいたあと、サンジェルマン通りを横切ってどんどん歩いて行くと、そこがパンテオンだった。そこからリュクサンブール公園に下り、途中のパン屋でサンドイッチをたっぷり買った。公園では人々が朝日を浴びながら、みな好き勝手なことをしていた。
新聞を読む人、ランニングをする人、まどろむ人、掃除をする人、そしてせかせかと歩くわたし。
もっと書きたいが、非本質的なので止めておく。それにしてもホテルのマドマゼルがもってきた花がきれいだ。
今から4年前の生活を少しだけ振り返らせてください。
わたしはそのころ新聞配達をしていました。
今と同じ夏の真っ盛りといえば、とりわけ嫌な思い出があります。
わたしはそのころ浪人中でした。
自分の学力が思うように伸びないことがとてつもなく気がかりで、ノイローゼ気味だったのです。
ギラギラと照りつける太陽。貧弱な食生活。不安な金銭面。
全てが自分にとって苦難でした。
いかにしたら自分は大学に入れるか、それだけを考えました。
そしてようやく入った大学も、自分にとって何の救いもない所だった。
早稲田鶴巻町での1年間は、自分にとって貴重だった。
今回のヨーロッパアルプス行の踏み台となったのは、あそこでの、抑圧されながらも自由な日々であったといえる。
毎日やっと食いつなぐような生活をしながらも、ヨーロッパアルプスを夢見ていれば楽しく、満たされていた。
そして、今日考えなければならないこと。
これからも毎日俺は生きて行かなければならない。
今日で自分の生活が終わるのではない。
むしろ今日から自分の生活は始まる。
今回のために2年間を費やしたが、来年はスキーやりに再びここに来たいし(オートルート)、それから先の数十年間は、自分の人生を人間の教育のために費やしたい。
18.8.78
旅のココロについて
<ココロが動く時>
旅を終えて、自分のココロに残るものは一体何だろう。
あるいはもっとさかのぼって、旅の中でココロが動くのは、どういった時であろう。
至高の芸術作品、稀にみる珍しい景色、他では見られない天候、歴史的巨大建築物・・・。
あちらこちらと旅をして回るのは、そういったもの見たいからである。
そのような「発見」から離れ、旅を考え直せないだろうか。
有名な物や事をたどったからといって、それが自分にとっていい旅になるわけではない。
<ココロが動かなかった時>
1978年8月のある日のことである。
わたしはパリのルーブル美術館へ、ほとんど何の予備知識もなく出かけた。
その中を数時間かけて見学し、わたしですら知っている芸術作品を見つけては感動した。
ルーブル美術館はたしかに素晴らしかった。
しかし、わたしにとって何が、どのように素晴らしかったのだろう?
モナリザ、ミロのビーナス、晩鐘...
モナリザはたしかに微笑んでいた。
ミロのビーナスはふくよかだった。
晩鐘はキリスト教的雰囲気だった。
たしかにそうだった。
たしかに、わたしがこれまでこれらの作品について持っていた印象と大して違わなかった。
そして思っていたよりこぢんまりした感じだな、と思った。
たとえばイミテーションを見せられても、それを見抜けず、同じ印象を持っただろう。
それがわたしにとって不満だった。
モナリザが世紀の傑作なら、なんでわたしのココロをもっと揺すぶってくれなかったのか。
わたしの気持ちをたかぶらせ、駆け出したいような衝撃を与えてくれなかったのか。
ミロのビーナスの前ではぼんやりと口を開けていた。
晩鐘は、何かが見えるのかと思い、斜から眺めてみたが、特に何も見えなかった。
<ココロはどこにある>
パリの街の中に、モンマルトルの丘というところがある。その丘の上に、大理石で作られたサクレクールという大きな聖堂がある。この建物より、東大寺の大仏殿のほうがずっと立派だと思ったが、その聖堂の前庭からの眺めにわたしはココロを動かされた。その眺めというのは、実にシンプルなもので、ただパリの下町がずっと見渡せるだけのものである。何の変哲もない建物が、かなたまで軒を並べている。ただそれだけであったが、わたしはまったく予期もせずに、この景色に感動した。この景色をどこかで見たような気がして、即座にそれがわたしの育った横浜に似ていることに思い当たった。
この景色にココロを動かされたのは、このずっと連なった屋根の下に、ここで暮らす人々の経済的には余り豊かでない生活が感じられたからだ。今こうしてわたしが立っている聖堂の前庭にも貧しそうな人々があちこちにいた。
<ココロは人にある>
わたしはココロをひかれた家並みのほうへ、丘の上から下っていった。するとそこには大勢の人がごちゃごちゃといた。路地の商店の店先には、一見して安物とわかる服が沢山積んであり、それをふとったおばさんたちが、よってたかって引っかきまわしている。すこしでも値段が安く、なるべくきれいな服を探しているのだろう。街角にはアコーデオン弾きがいて、なにか物悲しい曲を弾いている。そのかたわらで2人の男の子が1本の煙草を交代で吸っている。歩道からは人があふれ、通りかかった車がけたたましくクラクションを鳴らす。メトロの入口では、ヤミの切符売りが「ティーケット!」とわたしに声をかける。
なんとさまざまなことが、なんとわかりやすくわたしのココロに迫ってくることか。
わたしはパリの下町を、ほんの少し垣間見たに過ぎない。そこで暮らす人々と話をしたわけでもない。そんなわたしにも、彼らがどんな暮らしをしていて、何を望んでいるのかが伝わってくる。
<わたしのココロはどこにあるか>
わたしは人類の偉大な産物である芸術品や建築物などの絶対的価値について、とやかく言うつもりはない。同時に、おそらくわたしにはそれらの価値を見抜く力が乏しいことも認める。それとは対照的に、わたしは、普通の人々、あるいはわたしより貧しい人々の暮らしに、ココロが動かされる。それが何故かはわからない。