1988年4月30日土曜日

利尻岳

4月30日 晴

沓形で食糧の買い出しを済ませ、タクシーで鬼脇小学校まで行く。(11:50)やわらかい春の陽が降り注ぐ小学校の校庭では、子供たちが元気に遊んでいる。このようなうららかな日は久しぶりなのだろうか、みな飛び跳ねるようにして遊んでいる。

ここから南稜と東稜の頂稜部分が望まれる。直線距離がかなりあるので、それほど高くそびえて見えない。東稜へのアプローチは、ここから針葉樹林の中につけられた林道を辿る。道を歩きはじめるとすぐに雪道になったので、シール歩行に切り換える。傾斜のゆるい林道を1時間ほど登ると、山が正面に大きくなった。まもなく林道はヤムナイ沢を渡るのだが、沢に雪がべったりとついていて気持ちが良さそうなのでそちらへ引き込まれてしまう。東稜への夏道は左岸に沿ってついている。沢をしばらく登って、適当な所で右上すれば道に出られるだろうと、安易に考えていた。30分ほど登って左岸を見ると、相当な薮漕ぎをしなければ夏道に出られそうになかった。スキーと荷物を担いで熊笹やハイ松漕ぎをするのは嫌なので、林道が沢を横切った所まで、いさぎよく戻ることにする。

左岸沿いの林道を行くと、すぐ右に東稜に入る指導票とトレースがある。真っ二つに割れた告知板が雪の上にあり、東稜の夏道は通行できると書いてある。この辺りから木々は目立って疎らになる。一段上がるとそこが東稜の末端部である。まだ陽は高いが、長旅の疲れもあり、樹林帯が切れる手前で泊まる事にする。(14:30)


テントを張ったところは海が見える雪尾根だ。時々背中の利尻山を眺めながら、塩ウニで1杯やる。それから3人でジンギスカンを1キロたいらげる。その間に、頭上に巨大なレンズ雲が発生し、太陽のまわりにはワッカができてしまった。


5月1日 雨

昨夜半から風雨強まる。5:00の天気予報では、これからいったん持ち直し、今夕から本格的に崩れるという予報である。遠路はるばる来たのだから、どんなチャンスも逃せない。

スキー滑降はとりあえず諦め、1日のラッシュで頂上を往復しようと出発する。(5:50)風雨にあおられながら東稜を行くと、踏み跡が曖昧になる。赤布を付けながら稜線の右寄りを登る。やがてリッジが明瞭になり、コル状を通過する。強風にあおられ、全身ずぶ濡れである。さらに登ったハイ松帯の溝の中で、これからどうするか考えた。(7:30)


今日これから山頂へ行っても、視界のない背景の記念写真を撮ってくるのが関の山だろう。一旦下山して体勢を立て直し、リトライするのが賢明に思えた。天候は明日以降回復するだろうと信じた。

そうと決まれば下るのは早い。鬼脇へ戻り(10:10)、沓形の国民宿舎に宿泊を予約し、タクシーで戻った。宿に着くと、すぐに濡れた物を部屋いっぱいに干した。それから、風呂にはいったり、1杯やったり、ラーメンを食ったりしてくつろいだ。


5月2日 晴

早朝ハッとして目覚めた。窓の外を見ると、波の静かな海があった。薄青くなりかけた中空をカモメがよぎる。晴れた。


急いで準備し、今日使わない荷物は宿にデポして、タクシーで西稜の登山口に急ぐ。トドマツ林に開かれた舗装道路を登って行くと、木の間越しに利尻岳の西面が望まれた。右手の海上には礼文島が浮かんでいる。


標高400mの登山口でタクシーを降り、樹林帯を徒歩で登りはじめる。(7:20)樹林帯を抜けると、西稜が全貌をあらわした。シール登行ができそうなので、スキーをつける。両岸がハイ松の沢をズンズン登る。背後には延々と海原が広がり、水平線の彼方が茫漠としている。こんな楽しいシール登行も珍しい。


標高800m地点の避難小屋は室内がやや燃料臭いが、きれいで十分使えそうだ。左隣の沢に移り、さらにシール登行を続ける。900m地点からは稜線歩きになり、ブッシュが出てくるので、スキーを担ぐ。山頂付近の雲が取れ、頂上に立っている人が見えるようになってきた。きついツボ足の登りも三眺山で終わり、西壁が間近に見える。(10:30)ここから山頂までのトレースが見えず、ルートが判然としなかった。わたしたちが休んでいると、追い越して言ったパーティーがあった。


三眺山からコブを2つほど越えると、西稜の左側が斜度30度くらいの雪壁になっている。先行パーティーは、ここを北稜までトラバースしていった。わたしたちもその後に続く。落石はなく、滑落さえしなければ何の問題もない。最後は慎重にアイゼンを効かせて北稜に出た。海の向こうに北海道が長々と寝そべっている。スキーをデポして山頂へ向かう。再びツボ足で息を切らし、祠のある山頂に着いた。(12:15)


このうえなくいい気分だった。金と休暇が無駄にならなくてよかったと、3人とも安堵の胸をなでおろした。心のフィルムに眺望を焼き付け、さて滑降だとデポにもどる。標高1,650m付近から滑降を開始する。テレマークスキーの橘は、アイスバーンではいかんともしがたいと、途中まで歩いて降りる。わたしと阿部ちゃんはデポ地点からアルペンスキーで下る。上部の堅雪帯をジャンプターンで切り抜けて、傾斜が緩んでくると辺りを見ながら滑る余裕も出てくる。見れば礼文とノシャップ岬が、なんときれいなことか。

長官山まで滑り、橘が降りてくるのを待っている間、例の沢を覗きこんだ。例の沢とは阿部ちゃんが15年ほど前に、3月の利尻岳を訪れて、北稜をポーラーメソッドで登った時に、望見した沢のことである。当時まだスキーはやっていなかったが、その沢を滑ったらさぞ楽しかろうと思ったのだそうな。この話を聞かされて、今回の利尻山行が本決まりになったともいえるお目当ての沢なのだ。

今見た所では、なるほどおいしそうな沢だ。適度の広がりもあり、途中に滝はなさそうだ。何より、ここから真っ直ぐ鴛泊の港を目指して下れるのがいい。これはもう行くっきゃない、ということで、期待以上のスキー滑降を味わった。最後はトドマツ林のとどのつまりでスキーを脱いだ。この沢の名前は地図に載っていない。下部に甘露水がわき出ているので、甘露沢なんて言われているようである。


鴛泊の港に着いてから、橘がタクシーで沓形にデポした全員の荷物を取りに行ってくれた。空身でスピーディーに登り、滑ったのは正解だった。


1988年4月16日土曜日

越後駒ヶ岳

TSMCの例会での豊島の「越後駒へ行こうと思っています」のひと言に、越後駒ヶ岳でスキーができるのか!と驚いた。

雪山であれば、どこでもスキーができるのは、当たり前のことかもしれない。どこへスキーに行こうかと考えたとき、スキーツアーのガイドブックを見て、その中から選んでしまう。まるで、スキーツアーができるのは、そこだけでしかないかのように。


ガイドブックで越後駒ヶ岳の名前を見たことはなかった。だから行こうと思ったこともなかった。地図を読むという基本ができていないことにに加えて、このような発想の貧困さがあるのだから、これはよくよく考えなくてはいけない。


わたしは今回木曽御岳へ行く予定だったが、豊島の話を聞いて計画を変更した。まずは、近くて良い山からである。


夜の関越道を、豊島のスカGで飛ばし、小出インターで降りる。奥只見シルバーラインの入口には、「雪崩の危険」ということで、ゲートは7:30に開けるとの掲示がある。その時間まで、近くの空き地にテントを張って仮眠する。


夜半に通り雨があったが、明るくなる頃には小倉山に続く稜線が望めた。雲があわただしく上空を通り過ぎるが、天候は回復している様子だ。ゲートオープンと同時にシルバーラインのトンネルに突入する。トンネル内で途中右折して、朝日がまばゆい銀山平に飛び出す。道の両側には、まだ2メートルほどの積雪が残る。行き止まりが石抱橋だった。川の上流に根張りの大きい山が見えるが、頭に雲のシャッポを被っている。あれが越後駒に違いない。朝飯を食べ、その山体に向けて出発する。(8:35)


北ノ又川左岸沿いに進み、次いで白沢に少し入る。(9:30)道行山に続く尾根に至る小尾根に取り付く。出だしは急だが、すぐに楽にシール歩行ができるようになる。雪の割れた所を越えると、尾根は広く歩きやすくなる。尾根の最後は左にトラバース気味に登り、道行山に出る。(10:45)豊島はさっさと先に行き、尾根の途中で休んでいるのが見える。


道行山からは越後駒の方向に向かって少しアップダウンのある稜線を辿り、小倉山に着く。(11:15)天候も回復してきて、ようやく駒ヶ岳の頂上が見え隠れしてきた。尾根の傾斜が次第に急になり、百草ノ池を過ぎ、小ピークに立つと、すでに駒ノ小屋に着いた豊島がこちらを見下ろしているのが見えた。稜線が狭く急になるが、それもわずかで駒ノ小屋に着く。(13:00)小屋はまだ雪の下で、アンテナ塔と「駒の鐘」だけが雪上に出ている。小屋から山頂へは一投足だった。(13:45)南には越後三山の最高峰中ノ岳が堂々とあり、北には越後平野へと続く低山が広がっている。写真を撮ったり、缶ビールを飲んだりしてから、スキー滑降に移る。(14:00)


頂上直下の斜面は手ごろな傾斜だったが、雪質はあいにく重い新雪だった。駒ノ小屋下の急斜面も不安定な雪だった。1,800m以下はザラメになり、小倉山まで稜線の滑降を楽しんだ。小倉山から振り返ると、ザラメに切ったシュプールが、逆光に浮かんでいた。


小倉山を下りきってから、僅かの距離だがスキーをかついで道行山に登り返す。(15:00)道行山から、もう一度輝く稜線のうねりを目に焼き付ける。白沢へ下り、一気に石抱橋までスケーティングで帰った。(16:00)