1981年5月23日土曜日

富士山

5月23日
 快晴の東京を朝出発する。昨年11月に富士山でスキー滑降をしようと思って、Kと来たが、山頂までほとんど雪が無かった。今回は雪はたっぷりあったが、当然想定しておくべきことで苦しめられた。

 吉田口の5合目から山頂までの広大な雪面を見渡すことができた。昨年の落石事故の現場となった吉田大沢の沢筋に、春の雪解け水がキラキラと流れていた。30分ほど登るとKは汗びっしょりになった。沢山着込んでいるためだった。どこを滑り降りるか、歩きながら考えていると時間がすぐに過ぎてしまう。


 Kは調子が良くないようだ。沢の上部で、屏風尾根へ左上していくあたりでアイゼンを付ける頃になると、どうにも体が言うことを効かないようだった。


 ようやく山頂へ到着したが、すでに夕暮れがせまっているので山頂でのスキー滑降はあきらめ、ツェルトをかぶって寝た。


5月24日

 翌日は気温が低く、雲が厚く空を覆っていた。このため、滑降を予定している斜面が適度に柔らかくなることは期待出来なかった。火口内部を滑ることができるか、虎岩まで行って様子を見る。スキー滑降どころか、ノーザイルではアイゼンでの下降も危険な様子だった。そのため、お中道でアイゼン歩行とピッケルワークの訓練をした。


 そして5合目に向かってスキー滑降をはじめたのだが、これほどの悪雪に悩まされたことはなかった。不規則に溶けた雪の表面が、夜間に凍りつき、波を打っている。快適なザラメ雪を楽しむどころか、足を取られて転倒を繰り返し、ようやく5合目についた。

 

1981年5月1日金曜日

白馬岳

5月1日
 佐藤和久と相模湖駅で落ち合う。トヨタコロナグランデで山スキーに出かける。

5月2日

 二股発電所(標高835m)に車両進入禁止の標識があり、ゲートは閉まっていた。ここから白馬岳の山頂までの標高差が約2,100mあるので、少しでも先まで入りたかったが、そんなことは口に出さずに仮眠した。6時頃目を覚ますと、意外に多くの人や車が来ていた。出発の支度をして、猿倉までの林道を兼用靴で歩く。歩きにくい、SKは登山靴だが、はじめてだそうだ。


 猿倉山荘はまだすっぽりと雪の中で、山荘の人が周囲で休んでいる30人ほどの人たちに、今年は豪雪だったので、雪崩に注意するようにとさかんに訴えていた。たしかにこの時期にまだブロック雪崩が1つも落ちていないということは、これから短期間で大量に落ちてくる、ということだ。


 朝食を済ませて山荘の裏の尾根に登る。少し高く登り過ぎてしまい、また100mほど下る。白馬尻から沢身に入る。白馬鑓ヶ岳や白馬岳中央稜に向かっていく人の姿も見える。SKは、これからの大雪渓の状態や、寝不足の体調、それにスキーを担いだ重荷のためか、気弱なことを口にした。めずらしいことだが、わたしは、大丈夫だよといつもの調子で登った。


 小雪渓の急登を越えたあたりで雪がちらつきだし、風も強くなる。SKは大分ばてた模様で、勢い休憩が長くなる。このペースだと山頂まであと2時間ほどかかりそうなので、少しSKをあおる。村営小屋が見えてからは意識的にペースを速め、3時近くに小屋に着く。SKを小屋に残し、わたし1人で山頂を往復する。誰もいない山頂に着いたが、頂上からの滑降はあきらめなければならなかった。雪が強風に飛ばされて、地面が出ているのだ。


 SKの待っている小屋まで降り、そこから豪快に滑ろうと思ったが、雪面の状態が悪く、思ったような滑りができなかった。ゲレンデスキーであればより快適に滑降できただろう。猿倉まで滑り降り、二股まで歩いた。