2016年10月13日 和歌山⇒内子(愛媛県)
8:30 和歌山港から南海フェリーにとび乗りました。紀伊水道を横断して徳島へむかいます。
10:35 徳島港では眉山(びざん)が出迎えてくれました。フェリーから降りたなり黒旅四国編へと走り出します。黒旅についてはつぎをご覧ください。
http://hitoshio.blogspot.jp/2016/04/1.html
市街地をぬけ吉野川をさかのぼり西へと走ります。
四国三郎という異名をもつ暴れ川もきょうはおだやかに流れています。
13:45 脇町の重伝建地区につきました。
ここの建物の特色は「うだつ」です。「うだつがあがらない」などというときのあの「うだつ」です。二階の隣家との間に立っている瓦がのった白い小壁がその「うだつ」です。もとは防火のための家屋構造でしたが、いつのころからか家の隆盛をしめす意匠になりました。
こんなに張り合って気まずくなかったんでしょうかね。いまは両家とも空き家のようで人影がみえませんでした。
16:00 貞光という町から山のなかへ分け入り一宇(いちう)という谷あいにある岩戸温泉につきました。
本日の走行距離:69km、標高差258m
2016年10月14日 一宇(徳島県)➡見ノ越(徳島県)
7:15 きょうは剣山までのぼります。ご飯を3杯食べて早立ちしました。いきなりすごい建物が谷のむこうにみえてちょっとびっくりしました。廃校になった中学校だそうです。
8:20 つづろ堂という端正なお堂がありました。
つづら折れの山道になりました。谷をへだてて車道のない急斜面に4軒の家が見えました。青い屋根の家の前にだけ新しい薪がつんであります。
9:20 ぐんぐんのぼり標高1,000mをこえたところで休みました。
10:20 四国にもスキー場があるのです。リフトの営業はしていないようです。
11:20 姿勢のよい山が見えました。次郎笈(じろうぎゅう 1,930m)です。剣山はあの左側にあるはずです。
剣山(1,955m)が見えました。剣山の別名は太郎笈(たろうぎゅう)です。右奥に次郎笈が見えます。
11:30 見ノ越(1,400m)につきました。きょうの自転車走行はここまでです。自転車を民宿まつうらにおいて剣山にのぼりにいきます。
民宿から豪快な夕焼けが見えました。日が暮れると寒くなりストーブをつけました。
本日の走行距離:25km、標高差1,697m
2016年10月15日 見ノ越(徳島県)➡東祖谷(徳島県)
8:00 見ノ越からは国道439号、通称酷道439(こくどうよさく)をくだります。正面に三嶺(みうね 1894m)がおおきく見えます。日陰の道はさむくふるえながら下りました。
8:45 名頃(なごろ)のかかしの里につきました。これらのかかしを作った綾野月見さんのお宅へうかがいました。ろくろで陶器を作っていました。寒くなると陶土が凍ってしまうので今年はこれが最後の作業だそうです。
綾野さんはお忙しいのにご自宅で採取したハチミツをパンケーキにつけてだしてくれました。それを焚火にあたりながらいただきました。われながら厚かましいなあ。
無人販売所のかかしさんたち
バス停のかかしさんたち
何かしているおばあさんかかし
9:30 中上展望台から東祖谷落合集落の重伝建地区を遠望しました。集落の最下部から最上部まで標高差が300m以上あります。そこをツバメ号でのぼりながら見てみることにしました。
10:30 落合集落の復元公開されている古民家、長岡家に立ち寄りました。
狭い敷地に建っているので妻入りなのでしょうか。
藁竹茅の一入亭と母屋の間取りが三間どりで酷似しています。
ひしゃぎ竹という壁のつくりが面白いとおもいました。
11:15 落合集落の最上部につきました。ここへのぼってくるまでに4人のひとに会いました。86歳の女性は「わたしたちの親はたいへんだった」といっていました。60代後半ぐらいの男の人は「自分が小学生になるまで車が通れる道はこの集落になかった」といっていました。最後にカナダ人の母子に会いました。「この集落がとても好きだ」といっていました。
11:40 東祖谷歴史民俗資料館へいきました。案内の方ともっぱら現在とこれからの暮らしについて話をしました。今はアマゾンもあるし道もよくなったので昔とくらべれば格段に便利になりました。それでも平地に暮らしている多くのひとはここをとても不便な場所と見ているようです。
14:50 資料館の案内の方と話していて平家落人の末裔を名乗っている阿佐家というお宅があるのを知りました。家は現在復元修理中ですが大工さんにお願いすれば見せてくれるかもしれないということでした。行ってみると阿佐家はすっぽりと仮屋に覆われていました。ちょうど作業の休み時間になったので棟梁らしきひとに見学をお願いすると快く了解してくださいました。
茅葺屋根師は京都の美山、杮葺き(こけらぶき)は岡山、とあちこちからこの山中に仕事に来ているそうです。家を解体したところ縁下から虹梁(こうりょう)が出てきたこと、破風があったことを示すほぞ穴があったことを根拠に正面中央に破風が出ためずらしい屋根を作っていました。スミの屋根裏を見上げると直径30センチほどの丸太が何本も肘のように入っていました。
この日は東祖谷京上の平家荘に泊まりました。
夜、資料館で平家落人伝説にもとづく創作芝居の最終リハーサルがあるというので、平家荘に滞在中の人達と一緒に見に行きました。この地に逃げのびた安徳帝(高倉天皇の第一皇子、母は平清盛の娘高子のちの建礼門院)が年若くして崩御してしまうお話です。
きょうはたくさんの人に出会っていろんな話をしいろんな発見がありました。
本日の走行距離:45km、標高差上り758m、下り1,639m
2016年10月16日 東祖谷(徳島県)➡さめうら湖(高知県)
8:00 雨が降りだしそうな空模様のしたをたくさんのひとに見送られて平家荘をあとにしました。
8:45 とても立派な道と橋とトンネルを過ぎると「よさく」は京柱峠へのほそいのぼり道になりました。
<同じ国道でも道路状況が頻繁に変わります。それでも思ったほどの酷道ぶりではないというのが実感です。ツバメ号でのぼっていくことに大した不都合のない路面です。税金によって道が管理されているからです。>
8:50 自動車はほとんど通りません。ときおり鹿が驚いて目の前をよこぎります。ほとんど林業専用のような国道です。
<かつて道を新しく作ったり、既存の道を拡幅したりトンネルや橋を作ったりということを盛んにやっていた時代がありました。その頃は道路工事に携わる人たちが宿泊施設を必要としたので手ごろな民宿などがあちこちにありました。>
9:45 思いのほか快適な道をジグザグにのぼっていくと京柱峠につづく稜線が見えてきました。
<過疎と高齢化に脅かされている集落のあいだを立派な国道が突き抜けています。これを誰が望んだのでしょうか。あと10年したら道のかたわらに廃墟が残る景色が日本のいたるところに出現するでしょう。>
10:05 峠はすっかり秋のよそおいでした。遠くにひくく落合集落が見えます。
<祖谷の民俗が集落の消滅とともに失われようとしています。谷のひとびとが祖先から受け継いできた多彩な知識や技能はひとびとの死とともに消えようとしています。それを目の前にしてわたしにいったい何ができるのでしょうか。>
振り返ると土佐の高知の山並みが広がっています。
12:00 京柱峠をくだりふたたび吉野川をさかのぼります。軽自動車がやっと一台とおれるつり橋がありました。
13:10 早明浦ダムが見えました。きょうはあそこまでです。
さめうら湖畔にある国民宿舎さめうら荘に泊まります。
<へやの窓から湖の対岸の斜面のずっとうえに10戸ほどの集落が見えました。日がかたむくとそこに明かりが3つだけ灯りました。>
本日の走行距離:63km、標高差上り1,028m、下り1,180m
2016年10月17日 さめうら湖(高知県)➡土小屋(愛媛県)
7:37 あさがた雨音と雷鳴でめがさめました。出発するころには好天のきざしが出てきました。
8:07 走りだすと吉野川の上流に青空が広がっているのがみえました。
8:45 ダム湖のしたに沈んだ諸霊をなぐさめる碑がありました。
9:49 吉野川は狭く急になりました。ここを豪雨がおそったときの川の暴れようを想像するに恐ろしいことです。
11:01 大橋貯水池にかかるつり橋の上から吉野川の下流を見ました。
15:10 土小屋につきました。国民宿舎石鎚に泊まります。雨がぽつぽつ降っています。あすは石鎚山にのぼります。天気がきになります。
本日の走行距離:67km、標高差上り1,519m、下り394m
2016年10月18日 土小屋(愛媛県)➡古岩屋温泉(愛媛県)
12:20 土小屋でカレーライスを食べました。ふたたびツバメ号に乗り石鎚スカイラインをくだりました。途中で石鎚山がよく見えました。
15:00 こんやの泊まり場所の国民宿舎古岩屋荘につきました。窓からいくつも岩峰が見えます。20数人いた宿泊客のほとんどはお遍路さんでした。
本日の走行距離:43km、標高差上り342m、下り1,343m
2016年10月19日 古岩屋温泉(愛媛県)➡内子(愛媛県)
7:40 古岩屋荘を出発しました。今回自転車で走る最後の日です。
8:06 仁淀川(によどがわ)と久万川(くまがわ)の合流地点にある御三戸嶽(みみどだき)です。
8:18 久万川沿いを走っていると対岸に茅葺民家が見えたので立ち寄りました。 山中家住宅という国の重要文化財だそうです。
軒先を見上げるととても丁寧に仕事をされた様子がわかりました。
9:11 見知らぬ集落にたどりついたとき自分の目が自然にひとの気配を探しています。この国道沿いの家々にはどこの庭先にも洗濯物が干されておらず、ガラス戸のむこうには白いカーテンが引かれています。これは限界を越えてしまった集落であることのサインです。待ち望んだ道や家の改修もすみ、楽々と暮らせる条件は整ったかに見えました。その先に待っていたのは過疎と高齢化というきびしい現実でした。これを乗り越えるのはひとの力のおよばないことなのでしょうか。
内子(うちこ)
11:19 内子の重伝建地区につきました。このクリーム色の大壁が内子の建物の特色です。この商家は特産品である木蝋の製造販売で巨利をえました。このような建物が建てられたのはその利益によってです。明治になって安価なパラフィンが出回ると木蝋産業は一気に衰退してしまいました。
屋根裏はすごい小屋組みです。
内子座という木造の芝居小屋がまだ現役です。今年7月には桂歌丸さんが来たようです。
内子座の内部です。
内子で自転車を川越へ送り返しました。
内子から大洲へJRで行きます。まだ時間があるので駅前のベンチに座りぼんやり風景をながめていました。下校する高校生がバラバラとやってきました。そのなかに男女仲良く肩を並べて歩いてくる生徒が3組いました。その割合がすこし多いように感じました。ホームに列車が着くとたくさんの生徒たちは押し合いへし合いすることもなくしずしずと乗車しました。
大江健三郎さんは内子の生まれです。内子高等学校に入学しそこでいじめにあいました。松山東高等学校に転校してそこで同級の伊丹十三さんと友達になりました。
大洲では大洲しろまちゲストハウスに泊まりました。町家を改修した建物です。
本日の走行距離:54km、標高差上り439m、下り884m
2016年10月20日 大洲、卯之町
大洲(おおず)
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勘兵衛屋敷付近 |
大洲は静かな城下町です。
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おはなはん通り |
臥龍院は軒の張り出し方がものすごいです。
不老庵は肱川にのぞむ崖にせり出して立っています。
不老庵からのながめです。
苔むした庭もきれいでした。
大洲城を見に行きました。天守閣は民間からの寄付5億円を含む13億円と柱材などの現物寄付で2004年に復元されました。
卯之町(うのまち)
大洲からさらにJRに乗って卯之町へいきました。ここにも重伝建地区があるのです。
妻入(手前)と平入(向こう側)の家が並んでいます。
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二階の手摺 |
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袖壁 |
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大戸 |
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持ち送り板 |
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格子の蔀戸 |
黒旅四国編はとりあえずここで終了です。
次回は内子から伊方原発を見て九州へ渡ります。
黒旅(4)走行距離:366㎞
黒旅(1)~(4)走行距離:1,104㎞
つづく